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これを読んで、面白かった、といったら不謹慎だと怒られるだろうか。近未来の日本を舞台にしたディストピア小説である、などと紹介すると、そこいらにあるSF小説みたいだが、震災と、それに起因する原発事故を受けた後のこの国で作家に何が書けるのか、という問題意識を感じた一群の作家がいたと記憶するが、その問いに答える仕事、とひとまずは言えるだろう。
災害が引き起こした放射能汚染により、逃げ出す者が相つぎ、都下は慢性的な果実や野菜不足に悩まされている。放射能汚染があった時点で成人していた者は百歳を過ぎても死ねず、逆に若い者ほど放射能の影響を受けやすく早死にする、近未来の日本は何故か鎖国中で、外来語は使えず、ドイツパンは讃岐パンと名を変えている。
作家の義郎は早世した両親、沖縄で働く祖父母に代わり曾孫の無名(むめい)の保護者として、食事の世話や学校への送り迎えをする毎日。今日も貸し犬屋で借りた犬を連れ、今や「駆け落ち」と名を変えたジョギングを済ませたばかり。無名たち虚弱化した子どもたちは、物も満足に噛めず、果汁を飲むことさえひと仕事という在り様。
ディストピア物SFといえば、汚染された都市の残骸、廃墟のなかで生き残りをかけて繰り広げられるバトルというあたりがありきたりだが、書くのが多和田葉子となると、ちょっと様子がちがう。状況設定がいちいちリアルで、現今の政治状況ではこれもありだなと妙に納得させられる。外国語・外来語の禁止などは、武道や日本史の必修という文科省の政策から窺えることだし、鎖国政策というのも、卓抜な比喩として現在の日本の置かれた状態を言い得て妙だ。うまい言い回しの引用を始めたら、全文書き写す羽目になりそうで、きりがなくなって途中であきらめたほどだ。
「民なる」のような漢字を駆使した外来語の言い換え、脚韻の多用、よく似た形の漢字を使った言葉遊び、と言語遊戯に淫した文体はバイリンガルとして多言語を自由に操る作家ならではというべきか。想像を絶する災害を前にして言葉を失った者は多かったが、時がたち、そこから生み出されたのがこれらの言葉であることを思うとき、その皮肉さに胸ふたがる思いがする。誰もが復興だの絆だのという耳に心地よい言葉を口にしながら、その実、汚染水はいっかな止まることを知らぬというのに、ほんの少し時が経っただけで、やれ再稼動だ、東京五輪だなどと浮かれ騒ぐこの国には、これくらいの遊び心や毒気が必要なのだろう。
表題となる中篇のほかに、同じ主題で書かれた短篇三作と戯曲一篇を収める。中で最も早くに書かれた「不死の島」は、短いながら放射能汚染に犯された後、民営化した政府の下で他国との交信もできなくなった日本の状況が端的にスケッチされ、設定が飲み込みやすい。先に読んでから表題作を読むのも手か、と愚考する。スウィフト作『ガリヴァー旅行記』、沼正三作『家畜人ヤプー』を髣髴させる風刺的、かつ被虐的な話題作。心して読まれたい。
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ごく当たり前の日常に見えたものが、実は、いくつものプリズムや虫眼鏡を超えた後のようにゆがみ崩れていた。
しかしながら、そもそも、日常なんていうものは、どんなに非日常な状態となっても続いていくのかもしれない。
足下が揺らいでも、それでいい。生きているんだから、と思える。
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苦手です。
以前にも著者の作品にトライしたことがあったのだけれど、どうしても読み進むことができず途中放棄。
今回も、テーマの深さと皆さんの評価で再チャレンジしてみたのですが…表題作は中編なのでなかなか先に進まず、あと何ページ残っているかばかり気になって全く世界に入れない。
元々ファンタジーとかSFは苦手なんだけど、ここまで苦痛を感じるとは…。
ごめんなさい、私の能力不足でしょう、評価の高い著者なのですが、もう二度と読みません。読める気がしない。
こんなに苦手な作家は他にいないかも。
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表題作が読みたくてとりあえず群像8月号を借りてきて読んだ。
多和田葉子さんは初めて。
近未来小説だとかSFだとかそう言った括りには収まりきれない作品だった。
明らかに私達の見ていた世界は3.11以降変わってしまったのだ。
だからこの作品に描かれる世界を一笑に付すことができない。
鎖国政策を続ける日本では政府も警察も民営化され、私達が現在享受している便利な物は何もかも過去のものとなっている。
老人たちは百歳を続けても健康を保ち、子供たちは歩くことすらままならない程弱体化している。
老人は世の中を憂い涙を流し、子供たちは現実を淡々と受け止める。
空恐ろしい世界だ。
これは退化なのか進化なのか。
そこに希望はあるのかないのか。
これが私達の目指している未来の姿なのか。
この小説を読み肝に銘じる。
あの恐怖を忘れるなと。
たった3年前の出来事なのに忘れてしまいそうな自分がいる。
原発再稼働を許していいのか、原発を輸出する国であって良いのか。
もう一度あの恐怖と立ち向かって考える良い機会になった。
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嫌いな本だ。物語に入っていけない。実は本を手に取る直前に著者の雑誌のインタビューを見かけたのだが、日本の震災後にドイツに逃れたらしく、そこで日本の福島や原発の問題を批評する立場をみて、国外に行ったひとにこういうふう外から言われたうえにこういうかたちの作品にしてしまうというのには失望してしまう。原子力発電所という危険であるものをかかえるそれによる影響への警告であるというふうに評価するひともいるかもしれないが、震災後の日本が放射能にまみれて「けがれ」ていることを前提にされるのであれば、日本に住んでいる者の立場はありません。当事者でないひとが「けがれ」という言葉を発するのは差別としか感じられない。
それ以前に、もはやディストピア小説というスタイルは文学のなかではありふれたものであり、この作品の世界観の構築が成功しているとは言いがたい。
今までの多和田葉子の作品はとても好きだったが、これから読むのをためらうことになるかもしれない。
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大災厄に見舞われた後の日本で
老人は100歳を越えても死ねなくなり
子供たちは虚弱体質で自分で歩くことができない。
「自分たちがしっかりしていなかったから子孫がこうなってしまったのだと思う」
老人たちのことばが悲しい。
閉塞感ばかりではなく
子供たちの柔軟な考え方に救われる。
「献灯使」は海の向こうへ旅立てるのか。
先が気になる。表題作「献灯使」の他、4編を収録。
その中の1編「彼岸」が良かった。
全体的に、近未来の映像を頭の中で描きにくく
読み始めは、少し苦労した。
ストーリーが進むに連れ
独特の世界観に惹きこまれていった。
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おもしろいと言っていいのかと思うが、面白く、そして怖かった。近未来SF小説と言えそうだけど、そんな言い方は違うような。
作家の想像力って、すごいなあ。予備知識なしに読んだものだから(なしというか、忘れていた)次々と明かされる事実に、いちいち驚いた。
こんなことはまさかないだろうと思うものの、本当にそうか?と突きつけられてる感じがした。
ドイツ在住だからこそ書けたのか。痛烈な震災後の日本批判になっていた。
今の方向性は、やっぱり違うと思う。
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新しく生まれてくる若者のほうが精神的にも体力的にも圧倒的にひ弱で守られなければならない存在。そんな未来。
海外在住でドイツ語にも精通している作者だからか言語感覚が特有でまるで大人が読む絵本のような感じがする。
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放射能によって汚染され、老人は死ねなくなり子供は弱くなってしまった鎖国した日本の話。
とても不思議で恐ろしい物語だった。
献灯使として旅立った後の話も気になる。
「献灯使」以外の話も汚染された日本の話で、読むのが怖かった。
これが本の中だけの出来事であることを願います。
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大きな災厄で放射能汚染が広がり、鎖国状態の日本。政府も警察も市役所も民営化され、オレンジの値段は1個1万円に固定されている。東京23区には人が住むことができなくなり、貸し犬と猫の死体以外には動物を見かけない。放射能により老人は死を奪われた状態にあり、一方で子供たちは満足に日常生活も送れないほど虚弱だ。
仮設住宅に住む義郎は、ひ孫の無名と「将来にどんな運命が待っているのか予想できないまま、少なくとも、現在という時間の足下が崩壊しないように」生きている。「時間を巻き戻すことはできないので、そのまま巻かれて」いたある日、無名が「献灯使」に選ばれる。
電話もインターネットもなく、外来語は禁止。そして野菜や果物すら満足に手に入らない。そんなデストピアを描きながら、読後の印象は奇妙に明るい。それはこの世界が、あまりに文学的ではあるものの、1つの進化の形だからであろうか。
同テーマの変奏となる、それぞれにアプローチの異なった4つの短編を併録。
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現実に起こりそうなお話に息がつまりそうです。この無名という少年の存在が、閉塞感の中にわずかな救いとなって、どうか日本の光となって欲しいとすら願ってしまいます。あまりにリアルな近未来小説に、この先の日本のあり方を考えさせられます
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『そのように用もないのに走ることを昔の人は「ジョギング」と呼んでいたが、外来語が消えていく中でいつからか「駆け落ち」と呼ばれるようになってきた』ー『献灯使』
まず、衝撃を覚える。そしてその衝撃の元は何だったのかと、考え直す。そしてそれが、想像の範囲の外側に立ってみる、ということを教えられたのだと噛みしめる。客観的な視点から物事を捉えよ、と繰り返し教わってきたようにも思うけれど、存外それは易しいことではない。主張したいことがあればある程、自分の立つ位置から脇へ寄ってみることは難しい。そんなジレンマが実は言葉への盲目的な従属に由来するものであることを、多和田葉子はさらりと、そして辛辣な皮肉を込めて書き示す。言葉への盲目的な従属は、言葉への盲目的な信頼を生み、言葉が全てを保証してくれるかのような誤解を生む。しかし言葉は所詮記号に過ぎない。その事をいとも簡単に指し示す。反語的に言葉を使って。
例えば「想像の範囲の外側に立ってみる」という文。それは案外安全な言葉の連なりのようにも聞こえる。けれど「想像」を「想定」に代えるだけで、何か元の文にはない主張が生まれる。2011年を経験した者には。言葉に意味が貼り付いているのではなく、言葉には人の思考を向かわせる矢印のようなものが備わっているだけなのだということは、頭では理解しているつもりでもいつの間にかまた言葉に流され、上っ面だけで解ったような気分になっている。その事を多和田葉子程に考えさせられる作家はないかも知れない。
この本に収められた文章は、どれもこれも悲観的な未来像に満ちている。それは執拗に過去の出来事を思い起こさせ、それを忘れたかのように過ごしている現在を揶揄する。しかしその批判的な言葉も、言葉の示す矢印を見過ごしてしまう人々には、何も呼び起こさないし、何もを連想させない。想像の範囲などと言ってみたところで、それもまた言葉によって定義可能なものではないことも明らかだ。ならば、自分たちは何を信じるのか。
それでも改めて思うのは、言葉の持つ可能性は大きい、ということ。それに気付いた為政者は言葉を刈ろうとする。刀狩りの例に習って。しかし言葉の指し示すものは言葉に付随しているものではない以上、刈ろうとするものを根絶やしすることは不可能でもある。常に、自らの頭で考えようとする脳味噌にとっては。その努力を忘れまい。
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ディテールの奇想がすごい。言葉の使い方、もじり方が笑い事ではないけれど笑ってしまう……
が、どの出来事も「点」でしかなく、「物語」として堪能できたかというと、それはまた別。
書評家、評論家の方には評価が高い本作、玄人好みなのかな。
でも、こういう真摯で直球(本当に近年まれに見るド直球)な作品こそ、広く読まれるべきなのでは。
それには、正直、もう少し「物語る」魅力が欲しかったな……
「韋駄天どこまでも」大好き。
こんなラブシーンがあるのですね……!
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『献灯使』不思議な未来、言葉の連なり、自由変幻に重苦しい架空の世界をまるでアートの作品をみるように鮮やかに描いている。そしてラスト……。あの感覚はあの時、皆感じた事かもしれない。無名(むみょう)という名前は無明という意味かもしれない。実験的で遊びがありひんやり真っ暗な美しさをもつ作品たち。
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多和田さんの本は久しぶりだった。読み終わった後の何とも言えない気持ちは物語そのものよりも強く残る。ぶつんと途切れたような置いてきぼりされたような気持ちで、読み終わった。