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放射能汚染物質やPM2.5等タイムリーな話題をからめつつ、各種基準値の設定の背景等を説明。結構マニアックではあるが、自分は「やむをえない点は多いが、結構アバウトなところ多いな」という感想を持つ。驚くのは多くの規制値、規格が海外の臨床結果なり、実験結果なりのそのままパクリであること。あきらかに基準として使用不能なものにもそのまま流用していることがあるのには驚く。検証には10年単位の地道なデータ集めと分析が必要なのは確かだろうが、それこそ国税を持ってしっかり実施してほしい、と読後思った。環境関連ばかりではなく、JISなども多くはIEC、ASME等のまるごとコピーというのが結構ある点からも、日本は標準、規格設定が得意ではない国なのかも。
しかし、色々勉強になった。根拠を求めてあまりにマニアックな追求をする必要はないと思うが、視点が大きく変わる場合があることを今回知ったので、今後、ある指針が出たときに、その根拠を問うてみたいところ。
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国民の安全を守る基準値。食品,環境,事故の各分野で定められる基準値のしくみを詳しく解説。「基準値の〇倍!」という叫びに何の意味もないことが分かるし,およそ基準値というものが科学のようでいて科学だけでは決まらない「レギュラトリーサイエンス」であることも丁寧に教えてくれる。大筋・大枠は科学でも,基準値を決める際の数値の使い回し,リスクだけでなく達成可能性をも加味する必要性,決めた後になかなか変更できないという硬直性などの実例を見ると,科学が社会を律するというイメージは打ち砕かれ,まさに社会と科学の相互作用でやっているんだなと感じる。こういうことは社会の側にいる我々市民も,前提として共有しておかなくてはならないはず。お薦め本です。
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基準値とは黄門様の印籠のようなもので、物事を決める上での神様的存在。だから誰も疑問に思わない。しかし福島原発事故や食にまつわる事件で、我々は考えることを教えられた。でもそこから一歩踏み込んで検証するとなると、さすがにまだまだ。そういう意味では貴重な一冊なのかも。
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食品に限らず、行政が設定するいろんな基準値について、その根拠と考え方が説明されている。
一番気になるのは食品に関する放射性物質に関する基準値。他の記載はなんとなく分かった気になれるが、この部分だけはうまく理解出来ない。いったいどう読めば自分なりに安全かどうかを判断できるのか、自分なりにどう折り合いをつけることができるのか、自分の考えを持つことが出来ない。
読み手の理解力の問題も多分にあるだろうが、基準そのものに想定要素が多すぎて、私達が考えているほど確定的に決めることが出来ないからだろう。
著者は現在流通している食品の摂取は許容できるリスクと考えているようだが、それは事故以来放射性物質が放出されていないことが前提のようだ。しかし、どうやらF1からは事故以来ずっと現在までもいろんな形で放射性物質が放出され続いている。それでも、許容できるリスクと考えられるのか?疑問に思える。
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タイトルに偽りなし。というところでしょうか。以前に気になっていた「こんにゃく畑ゼリー」の話も載ってて、なぜそういうことになるのかとても腑に落ちる説明がされていました。
ある意味、「基準値」ってあくまで目安でしかないのだな~ということと、結局は自分でどう判断をするのか。自分がどういう知識を持つべきなのかということを考えさせられる内容でもありました。
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良書。面白い。
なぜ、お酒は20才からと決まったのか。元は、明治まで遡り、根拠は曖昧。
安全とは、受け入れられないリスクのないこと。
根拠の曖昧なものも多いが、実績があれば、信じていいのではないか。一度決まるとなかなか変更にならないのも基準値の特徴だが。
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私たちの身の回りにはいろいろな基準値があります。食品の消費期限や、大気汚染の基準、そして放射性物質による被爆基準など。でもこれらの基準が守られていても「本当に安全なの?」と疑問に思うことはよくありますよね。福島第一原発事故の後、枝野官房長官(当時)が「ただちに健康に影響はありません」とよく言ってましたが、「じゃあ長期的にはどうやねん」と疑問に思った方も多いのでは。
本書は様々な基準値がどのような根拠で決定され(非科学的な決め方が多くて驚きます)、それを私たちがいかに受け止めるべきかの指針を与えてくれます。「基準というのは 考えるという行為を遠ざけてしまう道具である」という本書にある言葉どおり、単に基準以下かどうかという極論に陥らず、「○○基準の何倍!」というような新聞等の見出しに必要以上に煽られることのないように心がけたいですね。
「必要以上に危険を煽るつもりもないし、安全を強調するつもりもない。基準値のありのままの姿を知ることで身の回りのリスクの大きさを知ってほしい。リスクを知らないまま不安になるよりは、知っている方が安心だ」という著者の姿勢には強く共感できます。
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◆放射線量をはじめ、社会的に認めることができるリスクとしての基準値について、その根拠にさかのぼって考えている本です。こんにちでは安全の代名詞として考えられがちな「基準値」ですが、必ずしも「科学的」に導き出されるものでもなければ、「人体への影響」に対して「安全」を保証するものとも限りません。この本には、基準値の根拠にさかのぼったときに初めて見えてくる、驚くべき事実が盛り込まれています。「安全」が話題になる一方でさまざまな見解が錯綜するいま、「安全」の根拠とされがちな基準値の世界に踏み込んで考えてみるというのは、いかがでしょうか。
* 感想 *
◆この本を読むと、基準値を定めるときと読み解くときにそれぞれ問題があるのだと思いました。◆前者の問題は、基準値とは「科学的」に求められるだけではなく、文化(例:こんにゃくゼリーとモチ、塩分摂取目安量など)や利潤(例:食品の安全係数など)、実現可能性といった点、そして時には(科学的根拠に欠いた)行政的な判断が下されたり、誤った運用によって厳格すぎる基準値が設定されてしまうこともあるということです。著者が繰り返し述べていることは、境的に「受け入れられないリスク」として基準値を定めるべきだということです。この点で、厳しすぎる基準値というのも妥当ではないのです。
◆後者の問題は、基準値にはさまざまな性質があるということです。たとえば、水中の亜鉛濃度一つをとっても、環境や人体への影響、色や味わいなどさまざまな管理基準があり、それぞれの基準値が示すものは異なります。にもかかわらず、基準値を「安全」の閾値として捉えてしまえば、「基準値の○○倍!」といった記述に衝撃を受け、ただちに人体に対して有害であるかのような反発をしてしまう恐れがあります。そこで前者の問題に立ち返ってみると、じつはその基準が実証を欠いた「念のため」を重ねた極めて厳しい数値だということに気がつかず、それによって「受け入れられるリスク」を不当に過大に評価してしまう恐れもあるのです。
◆その基準値は、”わたしたちにとって”「受け入れられるリスク」を評価しているのでしょうか? このように問いかけてみることの大切さを感じました。
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基準値の決め方が千差万別であることが理解できたが、それにしても人為的な値であることは間違いない.その数値だけがマスコミで飛び回ることに注意する必要があるのを痛感した.原発事故にからむ避難の基準の追加被曝線量20 mSv/年と除染の目標値1 mSv/年の開きを説明した部分(p177-178)は興味を持って読んだ.
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リスク評価とか、それをどう社会に導入するのか、とかについて、基準値を足がかりにいろんな具体例にそって解説した本。
基準値の決め方(あるいはリスクの評価方法)というのは対象によって実にいろいろで、何か一つ決まったやり方というものがあるわけではない。一つの対象についても、立場によっていろんな評価の仕方が提案できるんだろう。そういう意味で、絶対的な真実を追求する科学とは違うものであり、わざわざ「レギュラトリーサイエンス」と名付けていわゆる科学とは区別したりする。人類の歴史においては比較的新しい分野なんだろう。特に、分析技術の進展によってそれまで測れなかったような微量成分の定量が可能になり、リスクの有無を分ける閾値が存在しないケースがあることが明らかになって、我々は「受容可能なリスクはどこまでなのか」を決めなければならなくなった(ここら辺の歴史についてもふれられている)。つまり、基準値は、リスクの有無を分けるものではなくて、そのリスクが受容可能な範囲にあるかどうかを分けるものとなったのである。
このリスクに関する新しい考え方は、まだまだ一般にはなじみがない。それゆえに、基準値に関する誤解も広く見られる。しかしながら「受容可能なリスクがどこまでなのか」というのは科学では決められない、人々の合意として社会的に決めるよりほかに決め方が存在しない問題だ。ゆえに、リスクに関する正しい認識が人々に広く伝えられることは、どうしても必要なことなのだと思う。
著者たちは基準値オタクなのだそうで、盛り上がるポイントがいまいちシロウトにはわかり難かったりした。あと、網羅的な話題が多く、俯瞰的な話がもっと読みたいとも思った。でも、それはまだまだこの分野がこなれていないためなのかもしれない。
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「基準値マニア」の著者が語る、基準値にまつわるあれやこれや。本書では、日本では飲酒できる年齢が20歳なのはなぜ?健康に害を及ぼす化学物質の基準値の決め方とは?…様々なトピックを科学的な知見と基準値の制定に関する経緯などに展開しながら説明していく。この手の本は、読んでみると同じことに繰り返しが多く、途中で飽きてしまうことが多かったが、本書に限っては一度読み出すと止まらない!文系・理系にかかわらず、特に大学1年生には読んで欲しい本。おすすめです。
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数年前のバングラデシュ滞在時、現地の水にはヒ素が含まれているから気をつけるようにと言われたが、日本人がよく食べるヒジキには36000μg/kgの有害とされるヒ素がふくまれてるそうだ。カナダ、イギリスなどはこれを食べないように勧告しているけど、日本はその食生活に応じてこれを食べてもいいという理解をしている。
つまり、基準値というのはいかようにも変えられるというお話。
リスクの許容という考え方としてALARP(As Low As Reasonably Practicable:合理的に実行可能な限り低く)という言葉はよく耳にしていたが、ALARA(As Low As Reasonably Achievable)というのは初耳。調べてみるとどうやら原子力発電の世界で使われているようだ。
いろいろな基準値が決められた背景について丁寧に解説されているが、なんとなく読みにくい。文体のせいなのか。
各種の基準値について、「少しうがった見方が必要だよ」、という流れの解説であるが、一般人はそこまで突っ込んで調べたりしないからこの本を読んでいるのだよ。
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賞味期限、放射線量、電車内での携帯電話……私たちはさまざまな基準値に囲まれて、一喜一憂して暮らしている。だが、それらの数字の根拠は?
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基準値は同じ分野でもいろんな基準がある
基準値の根拠が科学的な安全性とは限らない
基準値の根拠は主に安全性か受け入れられるリスクかコスト面から決められる
基準値の根拠はなし崩し的に適当に決めている場合が存在する
基準値を越えた越えないだけで一喜一憂するのは危険
基準値を絶対視すると思考停止に陥る危険があるというのは確かにそうだと思った
基準値の用途やその根拠まで気に掛けるよう注意していきたい
といっても面倒なんだよな・・・
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村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生『基準値のからくり――安全はこうして数字になった』(講談社ブルーバックス、2014年)は、さまざまな分野の基準値が定められた根拠や背景を1つ1つ追う中でRegulatory Scienceを説明した書籍である。
たとえば飲酒が20歳からと法律で定められているのは、成年年齢が20歳であることが根拠(1947年参議院会議録)になっている。成年を20歳とする根拠は太政官布告(1876年)に遡り、21歳から25歳を成年とする欧米諸国の国民と比較して日本人は「精神的に成熟している」「平均寿命が短い」からだという(p.4)。この根拠、今でも通用するだろうか?
安全に関する現代的な基準値は受容可能なリスクの大きさによって定められるが、昔からそうだったわけではない。化学物質に関する「古典的」基準値として、環境基準型(無毒性換算型)と残留農薬型が挙げられている(p.130)。2007年に中国産キクラゲの残留農薬が基準値の2倍である0.02mg/kgであることがわかり、廃棄処分された。しかしイチゴやリンゴなどの残留農薬基準は5mg/kgである。キクラゲはイチゴやリンゴのような試験を行っていないので、安全係数をかけて一律で0.01mg/kgという厳しい基準値が適用されているのだ。
発がん性物質に関する受容可能なリスクの大きさは、10万分の1とされる。
飲料用水道水を例にとると、分析技術の向上によって発がん性物質が次々に見つかり、ゼロリスクの仮定は置けなくなった。そこでWHO飲料水質ガイドラインにならって生涯発がん確率が「10万人に1人」となる基準値を1993年に定めたものの、リスクレベルについては時期尚早という理由で国民には公開されなかった。その後の大気環境基準値(1996年)で、初めてリスクレベルが明示されている(p.71)。
もちろん、受容可能なリスクの大きさは場合によって異なる。ICRPの1990年勧告に基づく職業被曝の線量限度20mSv/年では、英国学士院での次のような議論がなされている。年間死亡リスクは、①危険な状況(プロのスタントなど)では3~6/1000。②1歳~20歳男性の平均は1/10000未満。③危険な職業(鉱工業、建設など)では1~3/10000。④製造業では0.3/10000。以上から、年間死亡リスク1/100は許容できないが、1/1000は個人が認識していれば受容可能とし、65歳までの累積の年間死亡リスクが1/1000に収まる値として20mSv/年が設定されている(pp.189-191)。福島第一原発事故では、この数字を根拠に避難勧告がなされている。
食料品については、安全・安心の二分法が通用しないことがある(p.51)。文化に基づく場合だ。米やひじきに含まれる無機態ヒ素の発がん性は、先に述べた10万分の1というリスクレベルの100倍以上に達する(pp.55-61)。だからといって、我が国で米食をやめるような勧告は行えないし、行うべきでもない。諸外国が米の食用に規制をかけているのは、それが主食ではないために実害が小さいからである。(日本人の無機態ヒ素の摂取量は、線量換算で30mSv/年とのこと。)
基準を超えたからといって、廃棄や停止などの措置を講ずることが妥当とは限らない。リスクトレードオフといい、9.11で飛行機を避けて自動車移動が選好された結果、翌年の交通事故死亡者数が例年より1500人増加し���というのが一例である(p.179)。2012年5月、利根川支流の浄水場で基準値の2倍のホルムアルデヒドが検出され、一都四県の浄水場で取水停止の措置が取られた。結果、地域によっては給水所に2時間以上の行列ができたという。もし真夏に同様の事故が発生した場合、熱中症のリスクを取って取水停止措置を講ずべきか。その判断は容易ではない。
なお、リスク管理には3つの原則があり、①ゼロリスクに基づく方法、②受容可能なリスクに基づく方法、③費用との兼ね合いで決める(たとえば、リスク低減に支払ってもよい金額から算出する)方法とがあり、③は実際に米国の飲料水の水質基準値に採用されているのだという(p.181)。