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友人からの勧めで、本書を手にとった。本書は、ある知的障害を持った中年男性が最新の手術を元に天才的な頭脳を手にするが、最後には元の知能まで戻ってしまう様子を描いた物語である。頭脳の発展と衰退の過程における彼の苦しみの描写は、人間とは何なのか、またどうあるべきなのかとの問いを改めて考えさせてくれるきっかけとなった。本書中の「人間的な愛情の裏打ちのない知能や能力なんて何の価値もない」との言葉は、著者が本書で一番伝えたかったメッセージなのではないかと思う。また、科学的進歩に重点を置きすぎた結果、倫理性に欠く社会を築いいてはならないとの著者の警告も感じ取れた。私も人間性や人間的振る舞いとは何かということを今後模索していきたいと思う。
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手術を受けて賢くなる主人公。
しかし、それにつれて孤独なっていく様を描いている。
そしてまた、知能が戻っていき、友達もできる。
人生において何が大事なのか、知識なのか愛情なのか。。。
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彼の頭の良さの変化と連動した周りの反応・関係性、それによって彼が感じる心の変化と、海外小説の日本語訳でよくある独特な語り口調がなんかマッチしてて良いし、淡く悲しく、ほわっと温かくなる、、また読みたいとおもう
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読みながら胸が痛くなったり、歯痒く、虚しくてやるせない気持ちになったり…読み応えがあり、ラスト迄の展開まで読み飽きる事がなく、様々な感情の引き出しを開けてくれる良き本でした。優しく泣かせてくれてありがとう
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2016年9月24日(土)に紀伊國屋書店梅田本店で購入し、25日(日)に読み始め、26日(月)に読み終わった。感動する本をと思って買ったのだけど、残念ながらリアリティーが感じられず、しらけたまま最後まで読んでしまった。
私が読み始めたあと、この本を読んで感動したという感想を何名からか聞いたのだけど、どうして私は感情移入できなかったのか、その理由を少し考えてみたい。
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いまさらながら読む。すべてが急速に進みまた巻き戻っていく、時計の針がひとめぐりするのを見送っていった気持ち。おおきな感動や劇的さがないところがよかった。
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チャーリーがアルジャーノンに向ける視線がたまらなくつらい。自分に将来起きるであろう状況を直視しなければいけないのだから。しかし、それに目を背けず向き合った彼はなんと強く真っ直ぐなのだろう。
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なんだろう、この読後感。哀しい、けど清々しくもある。遅ればせながら"現代の古典"を読んだ。帯の宣伝「10代に薦めたい泣ける本」も納得できる(息子に薦めてみる)。ひぐ的に涙腺が崩壊したのは、最後の2行とコレ☟
「ともだちがいるのわいいものだな…(p446)」
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知性と愛情について。特に愛情とは、について考えさせられた本。母親やその家族が幼少期の主人公チャーリーへ与えた恐怖と愛情の枯渇がいつまでもチャーリーを支配し続ける。私自分もチャーリーであり、またその母親なのかもしれない。
『金や物を与える人間は大勢いますが、時間と愛情を与える人間は数少ないのです。』
この一文は非常に響いた。子育てをする身として、常に心に留めておきたい。
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知的障害をもつ主人公が、知能向上のための手術を受け、天才的な頭脳をもつようになる。
だが、それまでわからなかった、自分が周りからかつてはバカにされていたことを知ってしまう。
周囲との関係が変わり、悩み苦しんだ末、知能を元に戻すよう再度手術を受けることに。
結果、元に戻った主人公は周囲との関係を取り戻す。
この話では、主人公は知能が元に戻ったことで周りとの関係が変わったり、知能が上がって気づいたことや感動したことも忘れてしまったのかもしれない。
でも、周りの人たちは、自分がこれまで彼にしてきたことを考えるようになったのだろうな。
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言わずと知れたSFの必読書。
知ってしまうことの残酷さはあるのだけど、自分は知らないよりも知っていたい。
だから手術を受けるというチャーリーの選択には全力で同意した。
知性の獲得が、より高度な愛の発見に寄与するのが面白かった。
そして知性が失われていく過程の描写に打ち震えた。
知能の向上がSF的な要素であるのに対して、その衰えは広く万人に当てはまるものだから、物語の終盤はもはやSFの域を出ていた。
知能が失われた後も、原初的な暖かい感覚は残っていたのが泣けて仕方なかった。そしてそれを原動力にして、人間はいつでも向上心を持てるのかもしれないと、希望を与えられたような気がした。
そして文学ならではのレトリックも良かったね。訳者の技巧の高さに舌を巻いた。
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悲しい本だった。賢くなれば全てを手に入れられるわけではないが、得られる喜びより失う恐怖が自分を支配する様は、とてもつらかった。
賢い孤独な人、白痴の愛される人、極端な比較。タイトルはうまくつけてあるなと思う。
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身近にいたり、見かけたりする精神遅滞者を描ききり、読んだ後の余韻が半端ない。
差別されている主人公が、差別する加害者となり、徐々に差別される被害者に戻っていくというストーリーだが、偏見・差別、傲慢、孤独、切なさなど読者の感情を揺さぶるSFの名を借りた文学の名作。
ドラマを見た人であっても、このSF作品は全ての人が読むべき、凄い作品。
ひらがなだらけの翻訳の表現をした翻訳者も凄い。
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複雑な気持ちです。
主人公だけでなく、両親や妹の葛藤、周りの研究者たちの主人公への関わり。
この本にしかない、人間の捉え方、切り口だと思います。
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チャーリィが自身で記録した経過報告は彼の知性と情緒の成長を詳細に教えてくれる。手術によって知性の急激な発達を遂げたチャーリィは、世界にまず怒りをもって直面することになる。悪意や欺瞞に対する嫌悪や彼自身の不安定さは思春期特有のそれにも思える。そして「この知性が私と、私の愛していた人々とのあいだに楔を打ち込み、...そうして私は前にもまして孤独である」の言葉のとおり絶望に近い孤独を抱えるようになる。これまで家族と思っていたまわりの人々、知の権威といわれる人々、恋心を抱いた人、世界のすべてに落胆を感じるが、さまざまな人とやり取りするなかで情緒面が育つにつれ、理想とちがう現実を達観し受け入れるようになっていく。理想に燃える青年期を駆け抜け、彼はあっという間に世の酸いを知った大人になった。しかし施術前の自分を人間扱いしない知識人たちに我慢の限界を迎え、チャーリィは唯一の友となったアルジャーノンと逃亡する。庇護や期待、責任から完全に離れ、自由を謳歌することで抑圧から解放されて自分のアイデンティティと向き合う。しかしアルジャーノンの異変から自分の末路を知り、使命を果たすべく研究室に戻り、崩壊していく自分を経過報告に淡々と書き連ねていく。
この本で最も心に響いたのは、チャーリィが知識人相手に行ってみせた演説である。「知能だけではなんの意味もないことをぼくは学んだ 。あんたがたの大学では 、知能や教育や知識が 、偉大な偶像になっている 。でもぼくは知ったんです 、あんたがたが見逃しているものを 。人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもないってことをです 」「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ 。しかし知識を求める心が 、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです 。これはごく最近ぼくがひとりで発見したんですがね 。これをひとつの仮説として示しましょう 。すなわち 、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ 、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし 、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである 。つまりですねえ 、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて 、それ自体に関与するだけの心 、人間関係の排除へと向かう心というものは 、暴力と苦痛にしかつながらないということ 。ぼくの知能が低かったときは 、友だちが大勢いた 。いまは一人もいない 。そりゃ 、たしかにたくさんの人間は知っている 。ほんとうにたくさんの人間をね 。でもほんとうの友だちは一人もいやしない 。パン屋にいたときはいつもいたのにね 。ぼくに何かをしてくれようという友だちはどこにもいないし 、ぼくが何かをしてやろうという友だちもいない 」愛情を伴わない知能は孤独であり、いかに高い知能を持ってしても孤独は人を蝕む。チャーリィは自分の孤独を声高に叫んでいたが、彼には元来の性質があり、知性に排除されてもなお愛情を残していたと思う。でなければ彼はアルジャーノン同様に完膚なきまでに崩壊しただろう。この本はわたしが若干の違和感を孕みながらとってきた主知主義的態度に一石を投じた。
読了後に筆者の主張とは異なるがわたしの疑問に残ったのは、彼がいう愛情なき知能��もたらす精神的崩壊は、低能な他者への関心を持てず知能を余した孤高になった故の孤独によるのか、あるいは例えば今後テクノロジーの発達で拡張知能が全人類にもたらされた場合にもそれは起こるのだろうかということである。