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上巻とは売ってかわって、中巻以降では歴史の表舞台へ出てくる。
適塾で蘭学を極めた村田はその語学を買われ、四国の宇和島藩で召し抱えられる事になる。
ここでは時代の要請に従って、砲台の建設、汽船の開発、兵学書の翻訳と医療以外の世界にも従事し始める。そして徐々に世の中から、注目され始めていく。
そんなある日、村田蔵六は長州藩の桂小五郎に見初められ、長州藩の藩士となった。
ここでの仕事は攘夷思想の実現の為、西洋軍隊の拡充および教育であったが、時代の改革期に起こる事態ではあるが長州 と 幕府の戦争。実質的には長州 対 日本の戦争が勃発し、その作戦参謀長として村田改め大村益次郎が出陣した。
この件で感銘を受けたことは、
古老の老中達が過去の戦闘や口伝の戦術から作戦立案を推挙したが、大村はこれを却下し、誰も実戦で見たことはない、書物の中にしかない戦術を用いて作戦を指揮した。
結果、この作戦は面白いようにうまくいったということ。
このことから、未知の事柄でも内容を熟知し、運用出来るほど習熟すれば、過去の経験則を吹き飛ばす程の力を得られるということ。
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異端の英雄物語であり、幕末明治の歴史噺であり、悶絶のムズキュンラブストーリー。
「花神」(上・中・下)まとめた感想メモ。
司馬遼太郎さんの長編小説。1972年発表。
主人公は大村益次郎(村田蔵六)。
大村益次郎さんは、百姓医者の息子。
百姓医者として勉学するうちに、秀才だったので蘭学、蘭医学を修めているうちに、時代は幕末に。
いつの間にか、蘭学、蘭語の本を日本語に翻訳できる才能が、時代に物凄く求められる季節に。
だんだんと、医学から離れて、蘭語の翻訳から軍事造船などの技術者になっていきます。
大村さんは、長州藩の領民で、幕末に異様な実力主義になった藩の中で、桂小五郎に認められて士分に。そして、幕府との戦いの指揮官になってしまいます。
と、ここまでが随分と長い長い歳月があるのですが、ここからが鮮やかに「花を咲かせる=花神」。
戦闘の指揮を取ってみると、実に合理的で大胆。決断力に富んで見通しが明晰で、連戦連勝。
連戦連勝に生きているうちに、志士でもなんでもないただの百姓医者の蘭学者が、西郷隆盛まで押しのけて、倒幕革命軍の総司令官になってしまいます。
そして、連戦連勝。
中でも、「江戸の街を火だるまにせずに、どうやって彰義隊を討滅するか」という難題への取り組みは、本作のハイライトと言っていい爽快さ。
誰も予想もしなかった速さで内戦が終わってしまう。
ところが、あまりの合理主義から、「近代国家=国民皆兵=武士の特権はく奪」へと駒を進める中で、狂信的な武士たちの恨みを買って。
明治2年に暗殺されて死んでしまう。
でも、明治10年の西南戦争に至るまでの道のりは、全て御見通しで対策まで打ってしまっていた...。
という、何とも不思議で無愛想で、ひたすらに豆腐だけが好物だった地味なおじさんのおはなしでした。
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この小説、地味な主人公ながら、司馬遼太郎さんの長編小説の中でも、片手に入るくらいの完成度、面白さだと思います。
ひとつは、主人公の魅力がはっきりしている。何をした人なのか、どこがハイライトなのかはっきりしている。
前半の地味で恵まれない人生が、そのまま後半のきらびやかな活躍の伏線になって活きている。
そして、大村益次郎さんという無愛想なおじさんの、ブレないキャラクター造形。
狂信的なところが毛ほどもなく、合理主義を貫きながらも和風な佇まいを崩さず、見た目を気にしないぶっきらぼうさ。
政治や愛嬌や丸さと縁が無い、技術屋のゴツゴツした魅力に、司馬さんがぐいぐいと惹かれて、引かれたまま最後まで完走してしまったすがすがしさ。
ただ惜しむらくは、桂小五郎、坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作、徳川慶喜、岩倉具視、大久保利通...などなどの、議論と外交と政治とけれんと権力の泥の中で、リーダーシップを発揮した人たちの、「裏歴史」「B面の男」というのが持ち味なので。A面の物語をなんとなく知っていないと、B面の味が深くは沁みてこないだろうなあ、と思いました。
そういう意味では、新選組を描いた「燃えよ剣」や、竜馬と仲間たちを描いた「竜馬がゆく」くらいは読んでから読まないと、勿体ないんだろうなあ。
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それから、この作品が秀逸だったのは、司馬さんには珍しく、恋愛軸が貫かれてとおっています。
シーボルトの遺児・イネというハーフの女性との恋愛。これが、9割がたはプラトニックな、「逃げ恥」真っ青のムズキュンなんです。
「村田蔵六と、イネのラブストーリー」という側面も、がっちりと構成されていて、隙がない。これはすごいことです。
司馬遼太郎さんの長編小説は、ほとんどが恋愛軸を序盤で売るくせに、中盤以降、興味が無くなるのかサッパリ消えてなくなる、というのが定番なので...(それでも面白いから、良いのですけれど)。
(恐らく、30年以上ぶりの再読でした)
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これまでの蔵六には、情熱の対象が明確であった。人間ではなく、科学と技術である。かれは、オランダ文字をたどることによって、この未見の世界をすこしずつひらき、かれの頭のなかに、ほかの日本人にはない風景をつくりあげた。そこにはニュートンの力学であり、解剖台上の臓腑があり、蒸気機関のパイプとメーターがあり、そして曠野に進退する大群と砲声があり、このかれの頭脳のなかの風景のなかにかれは棲みに棲んで、飽くところを知らなかった、自然、生きた人間どもの誰彼に興味を薄くしかもたなかった。
そういう蔵六のことをお琴は、
「とんぼ獲り」
と、規定してしまっているが、蔵六にすれば、かれは自分の頭脳のなかの風景を追っかけ、それを追うことが、かれを各地に転々とさせる結果になった。青春は、その過程のなかですぎた。おもえば、一瞬のうちにすぎた。ひとがいう青春は、蔵六にはなかったといえるであろう。
が、蔵六はいま、にわかに青春のなかにのったような気がするのである。動乱を恋い、生命をそこに燃焼させようとする壮士の青春が、いまはじめて蔵六のなかに誕生したかのようであり、蔵六自身、この自分の整理をさせ圧迫しつつある感情の変化に、じっと堪えている。
原因をつくったのは、桂であろう。
蔵六はいままで、世間も人も、自分の学問を需要し、蔵六自身を需要しなかったことを知っている。それが、この男なりに不満であり、その不満は鬱積していた。
その蔵六を桂は需めたのである。
わずかに、
ーー村田にだけ話せ。
というそれだけのことであったが、しかし人間が大昂揚するのは、そういうことであるかもしれなかった。
「お会いしても、しなくっても、どっちでもいいことです。イネどのは、二十代のお父上を自分の夢の中で作られ、それとともに生きて来られた。それ以外に、あなたにとって真実のお父上はいない。人間にとって真実とはそういうものです。この真実は医学をもってしてもいかんともしがたい。この真実の前には、へんぺんたる事実は、波のしぶきのようにくだけたは散るものです。事実とは、長崎出島で再会されたシーボルト翁のことだ。あれはたしかにシーボルト翁に相違ない。しかし事実にすぎない」
「蔵六先生は、事実を軽視なさるおつもりですか」
イネは、思想として反撃した。西洋医学は事実にもとづく学問であり、事実に対して冷厳であらねばならぬことを蔵六やイネにおしえてきた。蔵六もイネもおなじく事実の教徒である。その蔵六が、妙なことを言いだしたことにイネはおどろき、「医学の徒たるものが、主観的事実を持ちあげて事実の上に置くということはおかしいではないか」という意味のことを抗議したのである。イネが思うに、蔵六式にいえば、たとえばマジナイ師たちが主観的事実としているマジナイが、西洋医学よりもまさるということになるのではなか。
「それはカン違いです」
と、蔵六はいった。蔵六ほど事実を冷厳な態度で尊重している人物はすくない。
いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の内奥のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって二十代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである。事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。
「あの長崎から参られたお女中は、むこう五日間泊まられるそうじゃ。いずれ五日のうちには、いかな村田先生でも、狂おしゅうおなりになるじゃろ」
といったが、久兵衛が察するとおり、階上の蔵六は、寝床のなかで歯噛みする思いで、自分の欲望に堪えていた。なぜ堪えるのか、とい蔵六は自問しない。自問したところで、
「堪えるべきだ」
というだけが、蔵六の自答である。堪えることの意味や内容、あるいは理屈などはない。元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀をつくりあげている。丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。
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中巻読了。
上巻は上巻で、医学と蘭学を求めぬく村田蔵六の魅力を知ることができたが、中巻ではさらに軍師としての村田蔵六改め大村益次郎の魅力をガッツリ味わうことができました。
この調子で行けば、上巻・中巻の魅力をひっくるめて、下巻ではのめり込まざるを得ないだろうと嬉しい覚悟をしています。
蔵六とは亀の意味だそうで、亀は頭、手足、尾の六つを甲羅(蔵)にしまうというようなことが書かれていましたが、この中巻では閉じ込めていたものをニョキっと解放したという感じがします。
江戸では高待遇で処せられていた蔵六は、なんともこだわりが強いというか、出身の長州に帰ることに執着しました。江戸とは比べ物にならない低待遇の雇士として長州へ戻ることを選択しましたが、この選択が結果として彼の人生をとてつもない方向へ導いていくのですね。
片田舎の村医の息子がまさか軍の総司令官になるとは、自分でも予想できなかったことでしょうね。
彼をこの人生に導いた重要な人物が桂小五郎ですね。この巻を読んで、桂の人物に改めて魅了されました。ぜひ次は桂小五郎の本を読んでみたいと思いました。
このころの幕府、そして長州藩、会津藩、薩摩藩のそれぞれの動きの活発化を経て、中巻最後は巨大幕府軍とたった一藩で戦う長州藩の戦いぶり、なかんずくその長州軍の総司令官として指揮をとる大村益次郎の軍師としての采配が圧巻ですね。兵器と兵法を究めた男の緻密な戦略!
しかもその総司令官のかっこうが、百姓笠をかぶり、ユカタに半袴、腰に渋ウチワをぶら下げて、馬に乗れず、剣も使えずと来たものだから、その風貌と才能のギャップがなんともおかしいというか、逆に「渋すぎる~」と叫びたくなります。
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中巻読了。
藩ぐるみで暴走を始める長州藩の中で、淡々と己の役割をこなしていく蔵六さん。
医者で、翻訳者でもある彼ですが、さらに軍略家としての才能も開花させていきます。
まさに、時代は風雲。下巻の展開が楽しみです。
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百姓の村田蔵六が医者から軍隊の総司令官にまでなってしまうという出世物語。
難しい内容のため、何度も心折れたが、なんとか中を読み終えた。
蔵六は、サイコパス的なところがあるが、賢くてすごい。冷静に物事を判断する能力がうらやましい。
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この巻では大村益次郎の活躍やエピソードは少ない。
代わりに司馬先生の余談がたくさん読めて、司馬幕末歴史観をよく学ぶことができます。幕末の世界がどんなもんだったのかを知るのにとてもいいです。※ただし司馬先生の考える、ですが。
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長州藩に属する蔵六が指揮官として石見、浜田藩を撃破していく話。本来農民出で医師をしていた蔵六は戦を率いていく武士になったという何ともマルチなタレントを発揮していく。学問はしたくてするもの、人間の機微が大切、坂本竜馬と同時代、桂小五郎に見込まれた、毛利元就、ペリー、高杉晋作等司馬は幕末を記するのが得意だと思う。上巻とは違った展開で面白い。
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★評価は再読了後に。
しかし正直に言って長い、しつこい、話逸れ過ぎ。
これがこの作家の味なんですが、遺憾ながらも仕事で忙しくなってしまった現在の当方にはこの流れが合わない感があるなぁ。
そういう観点では、本ってその時々の置かれている状況で変わってくるんだということを改めて実感。そしてやはり司馬遼はストーリーテラーでは絶対にないと確信。
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医者から後半いつの間にか軍師へ。徳川の保身や長州の狂気など凄い時代です。
主人公がなかなか変人なので、お話に入り込みにくいかもしれない。
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外国語の専門家として幕府に厚遇されながらも安月給で長州に仕えることを選ぶ。
後世を知る我々には倒幕側に付くことは正しいと知っているが当時それが正しいと知っていた人がどれほどいたか。
イネとの不可思議な関係は司馬遼太郎の脚色かとも感じたが、彼女が蔵六の最後を看取ったことを考えると本当に色恋があったのかもしれない。プラトニックだったのかも。
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この巻では長州藩という藩に焦点が当たります。とりわけ政治家・桂小五郎の活躍が興味深いです。桂は剣の腕こそあれ、それを使って派手なことをしたのではありません。藩士(時には過激派の者まで)の意見を聞いて調整し、蔵六のような優れた智者を抜擢することで、「倒幕」という大きな目的へ藩を動かしてゆくのです。それは、決起を起こし長州藩を倒幕論に方向転換させた革命家・高杉晋作、武器の買い入れで初めは失敗するが、幕長戦で長州藩を勝利へ導く軍略を見せた技士・大村益次郎(蔵六)とは個性の違うものです。様々な意見を虚心に聞き、集団の合意や意思決定をはかり、目的の実現のために人材の登用や物資の調達を行う桂の政治力が面白いです。
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【いちぶん】
イネは、宇和島へゆく。
年に一度はゆく。なぜなら宇和島にその娘たか子を住まわせていたし、それに宇和島候の夫人が、彼女の診察をうけることを好み、そのように彼女を義務づけたからである。
(p.242)
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堪えることの意味や内容、あるいは理屈などはない。元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀をつくりあげている。丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。
「学問は、したくてするものです。学問であれ遊芸であれ、人間の諸道は、たれのためにするというものではない。自己のためでもない。ただせざらんと欲してもしてしまうという衝動が間断なくおこるという生れつきの者がついに生涯学問をやりつづけてゆくということであり、それ以外になんの理屈もつけられませぬ。…」
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蔵六が医学から軍学に傾倒し、それが功を成したともいえる軍の采配ぶりは、一時代を大変革する象徴だとおもった。桂小五郎についても、彼の人選眼がいかに優れていたかをまざまざと見せられたような気がした。戦争の描写は、地理が弱い自分では完全には想像しきれなかったが、それでも形式に縛られた幕軍と新進気鋭の革命軍の差ははっきりと分かった。