投稿元:
レビューを見る
奈世の重さにあぁあーダメダメ!って
なるけど、それ以上に絃が苦手。
綿矢りさの書く男性苦手なタイプ多いナー。
綿矢りさの小説は共感できない
楽しさや発見がある。
東京から田舎に戻った時の景色、
平和で優しい感じ、分かるー
投稿元:
レビューを見る
よんだときが高校生だって綿矢りさなのにいまいちて思ったの覚えてるそのあとかれしにふられて読んでなにこの本めっちゃ刺さるてなったはず?
投稿元:
レビューを見る
綿矢さんの作品はいつも一気に読んでしまいます。心情の表現力、さすがです。他作では魅力的な人物を魅力的に描く力も素晴らしいですが、今作のようにパッとしない(失礼)男女を描かせても一級品ですね。
これはカップルの話である以上に私は親子の話のように感じました。
みなさん描かれてますがこのカップル、正反対で、結婚したってうまく行くはずないなという予感。だからこそ、この二人が出会ってどこに惹かれ合ったのか、関係の始まりの描写をもう少しじっくり読みたかったです。
投稿元:
レビューを見る
「あと、もう少しがんばれば、幸せになれるかもしれない。でも愛や結婚は、あともう少し、と努力するものでしょうか。」と言う言葉が印象的でした。
投稿元:
レビューを見る
単に好きではない、病的な好き。表面上は普通に見えるのかもしれないが、彼を思う気持ちの描写がとても印象的。
投稿元:
レビューを見る
この部分はどっちの登場人物がしゃべっている、回想している内容なの?と違和感を持たされるところが、これはこれで面白い。
著者の作品の中では一番起伏はないが、端々に”なんだこいつ”と思わせるところはさすがです。
投稿元:
レビューを見る
奈世が実家に帰ってからの描写は楽しかったけど、前半のあの思い詰めてるところは痛々しかった。
こんなになっては負けなんだよな・・・って思ったけど彼の行動には驚いた。
でもうまくはいかないと思う。
投稿元:
レビューを見る
手紙を読んでいるような文章。読みやすかった。
同棲してるカップルのあるある話。女の人は結婚に執着しちゃうものだよな。そして時が経てば経つほど、"結婚"ってワードが気まずいものになる。
もう少し先も読みたかったな。お父さんと仲直り出来たのか、そして無事結婚出来たのか…。
投稿元:
レビューを見る
はじめてちゃんと読んだ綿矢さんの作品。タイトルが斬新ですき。前編と後編、時間を空けて書いたというのを知った時はとてもびっくりしました。前編だけで終わらせなかったところに闇を感じる(好き)。
投稿元:
レビューを見る
帯にもあるように、同棲3年になりながら、結婚に踏み切れない弦(ゆずる)と、結婚を焦る奈世の物語である。弦の経済等で躊躇う気持ちも、長く同棲して焦る奈世の気持ちもわかる。
後編では、弦が婚約指輪を渡し、明日に入籍しようとしながら、どたん場で延期する。
投稿元:
レビューを見る
『人と一緒に住むことがこんなに大変とは思わなかった。』
一人暮らししていたアパートの更新タイミングとの関係で一足先に二人が暮らすことになるアパートに引っ越した私。そして三ヶ月後の結婚式の後に越してきた妻。そこから始まった初めての二人だけの生活。ある朝のことでした。飾り棚に置いてあったオブジェの並びが違っているのに気づいた私。あれ、また並びが変わってる、おかしいな、と頭より手が勝手にいつもの並びに直す私。そんな翌日、この部屋に私の希望はなにも通らないの?急に泣き出した妻に驚く私。オブジェの並び替えのことをきっかけに色んな思いが噴き出した妻の叫びに圧倒された私。二人で一つ屋根の下に暮らすことの大変さを思い知った瞬間でした。一つの終点であり、一つの起点でもある結婚。そして、そんな結婚に向かう二人が一緒に暮らすこと=同棲。そんな同棲の暮らしの先にはどんな物語が待っているのでしょうか。
『絃(ゆずる)、どうかしたの。なんだか沈みこんでるみたいだから。会社でなにかあったの』と『まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切な』く見える絃に聞く奈世。『ちょっと』、とはっきりしない絃。そんな絃は『また会社から持ってきた仕事に戻る。今日は休日出勤だったのにまだ働いている』という絃のことを『なにをそんなにすることがあるのか。アルバイトしかしたことのない私には分からない』と思う奈世。そんな二人の夕食は『野菜中心の食事で、味付けは薄く素材の味のまま、焼いた魚と蒸した野菜とパンが定番』という絃。そのため『絃が焼き魚のときもパンを食べるのに対して、私は醤油とご飯が必要になる』という微妙感。『味噌汁を飲んで身体が温かくなったら、憂鬱の影が薄くなってきた』という奈世は、『お味噌汁、あったかいよ』、と『今日うまく作れた大根とあげの味噌汁を食べてほしくて』、そう言ってみるものの『パンを口に運ぶ絃は、少し笑って首を振った』、とつれないそぶり。『魚とパンの組み合わせは良いけれど、お味噌汁とパンはだめだなんて、変なこだわり』、と不満な奈世。『会話がなく間がもたなくて、お箸をくわえたまま部屋の中を見回した』という奈世は、『もう一年近くも一緒に住んでいるのに、この部屋での私の存在感は、いつまで経っても増さない』、と嘆きます。『会社の人なんかには分からない良さが、絃にはいっぱいあるよ』、と言う奈世に『どうしたの、いきなり』、と聞く絃。会社で何かあったらしいことを気づかう奈世は『例えば、絃のどこが好きかって言えば、掃除機のかけ方かな』と語ります。すぐに『しまった、変なことを話し始めてしまった。でも止められない』、と絃の掃除機のかけ方の素晴らしさを蕩々と語ります。『僕は普通に掃除してるだけだよ』、と言う絃に『うん分かってるの 普通のことだけれど私には特別に見えるの。そこを大切にして』、と言う奈世。『最後を恩着せがましく締めたあと、また沈黙』してしまう二人。『ああ、肩が凝る』、と思う奈世。そのとき『テレビの出演者の言葉に絃が笑い、私も目を上げてテレビを眺め』るというほっとする瞬間の到来。『おもしろいトークを展開するコメディアンにそっと感��した』奈世。そんな奈世と絃の微妙な空気感漂う同棲生活が続いていきます。
奈世と絃の同棲生活を、視点を順に交代させながら、二人の内面にのみ焦点を当てて濃厚に描いていくこの作品。〈しょうがの味は熱い〉、とそれから三年の時間が流れた〈自然に、とてもスムーズに〉からなる連作短編という体裁をとっています。登場人物も限られ、ひたすらに二人の内面がくどいくらいに語られていきます。
ハッとする表現の数々と、二人の内面の対比が特徴的な作品。まずは、文章の表現についてですが、代表作の「蹴りたい背中」でも冒頭の『さびしさは鳴る。』という綿矢さんの素晴らしい表現に心囚われました。そして、この作品の冒頭も絶品です。『整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ』、と少し長めながら、『憂鬱がなだれ落ちてくる』、という普通には思いつかない『憂鬱』という感情に動きを加える感覚は絶妙です。この作品に展開する不安定な二人の感情の動きをも予感させる書き出しだと思いました。そして『今日の夜空は星も月も出ていないのに明るい。雲のぼんやりした半熟の白みが、空を覆いつくして闇をさえぎり、夜を完全にしない』、という表現にも魅かれます。絃との微妙な同棲生活の中、絃との少し気まずい時間を過ごした後の奈世の感情を表す表現ですが、うまくいかないながらも辛うじて、まだ未来に繋がっている二人の同棲生活のぼんやりとしたイメージが上手く反映されているように感じました。もう一つは、実家に帰ってきた奈世の感情表現です。辛い現実から逃げるかのように、ずっと帰っていなかった故郷に舞い戻った奈世。そこには『まるで時なんて流れていないかのように、いつまでも昔とおなじ風景』がありました。すっかり傷ついてしまった心を癒す時間が必要な奈世。『そんな土地にふりそそぐ陽光は、うまくできたたまご焼きのように、しあわせな黄色をしているものです』、と、また、たまごに繋げる表現が登場しますが、今度は白身ではなく、幸せを象徴するかのような黄身を用いての表現です。人の感情というものには実態は存在しません。あくまでその人の心の中にぼんやりと存在するものです。綿矢さんはこの作品で、たまごという一般的かつ誰でも思い浮かべることができるものを、直接的な表現ではなく敢えて抽象的な表現に置き換えて用います。その結果、読者の心の中にふっとその感情のイメージが浮かび上がってきます。ひたすらに内面描写が続くこの作品には、こういった表現はとてもあっているように感じました。
次に二人の感情の動きです。そもそも私には同棲の経験がないので、その時にそれぞれがどういったことに戸惑い、どういったことに悩み、そしてどういったことに喜びを感じるのかについてはっきりとしたことは全くわかりません。しかし、この作品の二人、奈世と絃の間には全く相反する、極端に相反する考え方、感じ方があることだけは、誰の目にも明らかです。不自然なまでに真逆な二人が寄り添う生活、あらゆることにおいて正反対な二人。例えば、人が生活する上で欠かせない『食』について、奈世と絃の間には嗜好に大きな違いがあります。『主菜が同じでも主食が違うと、全然違うものを食べているみたい』、と『主菜』と『主食』という単語を並べてその違いを表現する綿矢さん。レストランで好き勝手に注文する場面でもなければ、普通には『家族と囲んでいた食卓では、みんな同じものを食べていた』、となるものだと思います。それが普段の食卓に並ぶものが二人で異なるという様子は『別々のものを食べる食卓は、たとえいっしょに食べてもどこか距離を感じる』、と奈世が感じるのは当然のことだと思います。そういった二人の間に潜在するズレを意識すればするほど『彼の自分と違うところを愛し、彼の自分と違うところにさびしさを感じる。彼の一つ一つに胸が高鳴り、同時にしめつけられる』、という微妙な感情を奈世は抱きます。そして、そんな感情の蓄積が『愛と相性は別なのかもしれません。愛はなくても相性の良い男の人とは友達として付き合っていけるけれど、愛はあっても相性の悪い男の人とは、結婚しても二人とも苦労するだけなのかもしれません』、と整理されていくのは、これはもう、あまりに納得の結論に感じてしまいます。でもこれはあくまで奈世の理性の結論です。一方でそんな奈世の感情の結論がどうなるか。そして、そんな感情の結論が勝つ結末をどう感じるか、この作品の好き嫌いが極端に分かれる一つの分岐点かな、と思いました。
『二人ともずっと一緒にいて幸せになりたいという思いは同じなのに、そこにたどり着くまでに歩みたい道がちがう』という二人の感情の微妙なズレが、最初から最後まで痛々しく伝わってくるこの作品。その両者の気持ちのズレを唯一知るのは読者である私たちだけです。でもそんな読者にはどうにもできないもどかしさに苛つく読書。第三者的立場から見た、主人公二人のある意味での面倒くささ、ある意味でのばからしさ、そして真面目に思い悩む二人のドタバタを一種のエンタメとして楽しむ読書。
「しょうがの味は熱い」、味を表現するのに『熱い』という形容詞を使う不思議感。そんな綿矢さんの絶妙な表現の数々と、主人公二人の痛々しさが同居する、そんな作品でした。
投稿元:
レビューを見る
奈世は同棲中の絃との結婚を望んで、日々相手の機嫌を損ねないようガマンの生活を送っている。神経質なところのある絃は、奈世の雑なところがイチイチ気になって、円形脱毛になりながらも一緒に暮らしていたが、ある日奈世が実家に戻る。3ヶ月経ってやっと奈世のいない暮らしが寂しいと感じて、プロポーズする。
二人はともに東京に戻ることにするが、奈世の両親に反対されたこともあり、結婚はしばらく様子を見てから、ということに。
ホントにこのまま結婚できるのか、どっちに転んでもおかしくない終わり方で、読者の解釈に委ねられているんだと思うが、個人的にはもう少し希望の持てる終わり方が好きだなぁ。
投稿元:
レビューを見る
同棲生活や結婚について不安を持っている人はとても話にのめり込めるかも。
私は奈世に共感できなかったです…
仕事もゆるっとだし、
愛に不安はあれど一応恋人という存在もあり、
困ったときに帰る故郷もあって…
悲劇のヒロインぶってるだけのように感じられました。
十分恵まれた環境にいるじゃないか!と。
対して弦の仕事の悩みなど、環境が
自分と似てて話がスッとはいってきました。
この本を読み、客観的に女が我儘すぎると思いました。
この本だけでなく、世の男女もそうなのかも。
大概女がことを大きくしている。。
まあ確かに男性は軽んじすぎなようにも思いますが…。
少なくとも弦はその辺の男性より大人だと思います。
投稿元:
レビューを見る
どこを切り取って、どう捉えたらいいのだろう。
上手く読み取れなかった。
二章目で奈世の口調が物語を語る第三者のように変化したことが薄気味悪かった。
投稿元:
レビューを見る
二篇の作品による連作短編です。
同棲から結婚へという、
ある意味で瞬間的でもあるだろう経過上で、
こじれてしまい間延びしたような状況が本小説の舞台。
あえてそこを書くのが小説らしく、著者らしいとも言えます。
小品を読んでいる感覚でしたが、
終いにはしっかり読み終えた満足感がありました。
そういった、話の締めくくり方の力というか技術というかは、見習いたい。
心理面もさることながら、
脳の構造的なぶぶんであろうところであって、
日常ではあまり意識したりしないような点にも注意を向けて書いている箇所があり、
レントゲンみたいに透過する、
作者の視線のつよさみたいなものが露わにする「人間の秘密」を目にする感覚もありました。
こういうところは、科学的な視線の種類だと思います。
冷徹さを持っていないと見えないところです。
たびたび、太い息がでる文章に出合いましたが、
P119の、
___
たしかにきゅうくつに感じていたけれど、
でもいまみたいに大人になってからの、
自分のことは自分で決めないとどんどんダメになっていくプレッシャーはなかった。
なにもかも自分で決められるゆえ、
その決断が間違っていれば他でもない自分が一番困る。
子どものころのように、
ルールを決めるかわりに自分を守ってくれる存在はもういない。
___
という一節を個人的な思索とからめて今回は取り上げます。
この一節をしゃべっている主人公の女性・奈世は、僕なんかからすると、
他律性から脱却して自律性を獲得する過渡期のようにも見えました。
でも、奈世はこうやって、自律性と他律性の狭間みたいな割り切れないところにいて、
そこは一般的にはたぶん居心地はあまりよくないはずですから、
すぐにどちらかに重心をうつしがちなのが通常だろうという状態だと思うのですけれども、
しっかりそんな状態・状況に身を置いてモノを見る、恋人や他者を見る、内面を見る、
そして言葉にしていくという態度は、
小説を書いていく人ならではの特性か、いや、というよりも覚悟なのかな、という気がしました。
きっと、そういった覚悟があると、居心地の悪い「狭間」が、
独特な「汽水域」へと特別に生まれ変わるのかもしれません。
よく見てみれば豊かで、気づくことができた人だけが獲得できるものがあります。