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○ありのまま自分・全肯定
○のび太とドラえもん(団塊ジュニア〜)⇔うさぎとルナ(アラサー)
万能の他者を探す⇔自己変革・進化
魚を与える⇔釣り竿を与える
○かわいさや少女性に商品価値があることに気づいた上でかわいげをキープし続ける
○母娘共演の物語構造→母性感の獲得・博愛主義(敵も親友たちも彼氏も娘も)
○80年代のナウシカ、90年代のうさぎ
高潔×美少女×母性×神性
○女子の欲望すべて(⇔男受け)
egg,SPEED,プリクラ,ASAYAN
○同タイミングに3つの世代のシンボルとなった赤名リカ・森高千里・セーラームーン
○LGBTや多様な愛への寛容性
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…そんなに面白いものではなかったかな…。時代背景も語り世代論として機能しているけどなまじ自分が該当するからここで述べられている特徴に自分が合致しない、と思ってしまうとひっかかりを覚えてしまう。セーラームーン見てたのに。
p34
あるフィクション作品に置いて、何が「敵」と設定されているのかーー。これを考察することは、その物語に置いて何が”正義”と背てされているのかを探るのに等しい
p34-35
”敵”とはその物語が提唱する”正義”が打ちのめしたいs区の価値観素の者であり、世情や想定視聴者の気質がたぶんに影響される。
視聴者がブルーカラーなら”悪”とは富裕層であり、しちょうしゃが知識人なら”悪”とは衆愚ということになる。いずれにせよ、敵の主張の「逆」がすなわち、その物語が視聴者に同意を求めたい正義の主張である。
セーラームーンのこういう描写や構造、ないしセリフが当時の女児に影響を与え、いまはどんな価値観を彼女たちがもっているのか、という話。
筆者曰く、女性性を捨てず肯定していく姿勢などは月野うさぎに影響されている…とあるけど、自分が子供の頃は女性性を嫌悪するタイプだったからひっかかる。女性性の嫌悪は世代問わず言及されるからそりゃあセーラームーン世代にもいるだろうさと言われたらそれまでなんですが。
6章の表題が「セーラームーン世代の恋とセックスとジェンダー」なんですが、仕方ない面はあるとはいえ紋切り型のフロイト理論で個人的にアレルギー反応がでました。
赤塚図書館 778
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セーラームーンを見てこなかった私に取ってはなかなか共感しづらいポイントも多くありましたが、一つのアニメをここまで掘り下げ、しかも社会情勢と結びつける筆者の想像力と洞察力には感服しました。
セーラームーンに限らず、私たちは幼少期に見ていたアニメ、読んでいたマンガなどから多大なる影響を受けていることを再認識させられる一冊でした。
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著者の所感ぽい感じは否めないけど、面白くはあり一気読み。
セーラームーンで培った、だけじゃなく、なぜセーラームーンが生まれたか、を語ったものも読みたい。
まだまだセーラームーンの謎は解けない。
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最近ウラネプソングにハマって、何度目かのセラムンブームが再燃しているので読了。もちろん「世代」で括られているので、無理があるものもあったが、私には当てはまるものが多かった。考察や分類の仕方に男性が書いた感を感じた。SPEEDもモーニングも好きだし、何より可愛さより強さ、カッコよさが前面に押し出されている所が好きだ。
特に6章のジェンダー論辺りで、自覚していないが、幼少期に多大な影響を受けていたんだろうなと感じた。ジェンダーに限らず。スターライツの設定は当時小学生の私には理解が難しかったが、今でもよくわからない。武内先生の意図や思いが書かれた本などもあれば読んでみたい。
このキャラが好きな人はこんな性格、といったキャラ占いのようなものがあったが、全然当てはまらなかった。ジュピター推しの理由は、長身でカッコいい女性への憧れである。だからウラヌスも好きだし、吉澤ひとみやシシド・カフカなど、子どもの頃から好みがブレないな、としみじみ。
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#本 #読書 #セーラームーン世代の社会論 #美少女戦士セーラームーン
発売当初、気になっていた本。内容はそれほど重くなく、サクッと読めました。
私はこの本のセーラームーン世代よりは少し上になりますが、いや、でも私だってセーラームーン世代……
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セーラームーン世代というのがあるらしい。「ある時代に熱狂的な人気を集めた作品は〜大人になってからも残り続ける」僕らが何かと「○○とは違うのだよ」とか「見せてもらおうか」とか言ってしまうようなものか。
セーラームーン世代の定義は現在のアラサー女子。しきい値は23歳から33歳。そんな女子身の周りにおりませぬ。書いてあることがウソでもホントでもわかんないぞ。
アシスタントやマスコットではない。自ら戦う。でもオンナノコを忘れない。
タキシード仮面はとどめをセーラームーンに譲る。互いの正体がバレるときも、セーラームーンは自ら変身し、タキシード仮面は敵に言われて止むを得ずバラす。女性の積極性が各所に描かれる。
けれど、本書の半分ぐらい、いやそれ以上が「セーラームーンあるある」とでも言おうか、セーラームーンの舞台を会社にしたら、みたいな感じで、「世代」「論」にはなかなかなりきれていない。
ようやくそれっぽくなるのは5章「セーラームーンの時代」6章「セーラームーン世代の恋とセックスとジェンダー」である。「彼氏」も「アイコン」でしかない、と。おお怖。
だが、冒頭にも書いたように、僕にはそこら辺のリアルな感覚がない。著者はセーラームーン世代との交流で多くの刺激や気づきがもたらされ、人生が豊かになったと語る。
結論。セーラームーン世代の女子と交流したい。アイコンにさえなれないだろうけど。
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1198
稲田豊史
編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランスとなる。「サイゾー」「アニメビジエンス」ほかで執筆中。映画、藤子・F・不二雄、90年代文化、女子論が得意
それまでに存在した魔法少女アニメ(『魔法使いサリー』『魔法のプリンセスミンキーモモ』等)とも、単独ヒロインによるバトルアクションアニメ(『キューティーハニー』等)とも異なる、「女子だけのチーム戦闘もの」というジャンルを新しく生み出した功績は、 50 年以上の歴史を誇る日本のテレビアニメ史に 燦然 と刻まれている。
歌い出しは「どんなピンチのときも 絶対あきらめない そうよそれが カレンな乙女のポリシー」。恋のために恋するのではなく、まず「カレンな乙女」として、カッコいい自分になるために努力するという主旨の、溌溂とした自己啓発ソングだ。大変なことも、泣くこともあるけど、私は果敢にチャレンジするんだという決意が全編に込められている。「女の子は男に守ってもらう、か弱い存在ではない。人生も運命も自ら切り拓くのが本当に魅力的な女の子だ」。
『セーラームーン』という作品の魅力のなかで、もっとも大きいものは何かと問われれば、「女の子の日常が描かれている点」と即答したい。〈通常運転〉が魅力的であるとは、つまり日常が魅力的ということと同義である。だからこそ『セーラームーン』というアニメは、バトル要素が強いにもかかわらず、等身大の女の子として楽しく溌溂と毎日を送っているセーラーチームの描写に、たくさんの尺を割いている。 セーラーチームの5人は3つの中学から集まった 14 歳の女の子たちだ(最終的にレイ以外の4人は同じ高校に進学し、 16 歳となる)。世界や宇宙の破滅を防ぐために戦う一方、メンバーの部屋やたまり場のパーラーでガールズトークに花を咲かせる。恋バナから食べ物の話、進学や将来の夢の話まで。のろけたり、ふざけたり。おちゃらけたり、からかったり。時に反目しあって、険悪にもなるが、励ましあい、認めあい、リスペクトしあう。バカもやるし、泣き言も言う。 しかし、ここ一番の正念場では、不退転の覚悟をもって、鉄の結束で巨悪と戦う。セーラームーン世代にとって、セーラーチームの友情は理想型に近い。
では改めて、「ドジで泣き虫、勉強と運動が苦手」な月野うさぎの性格的特徴を列記してみよう。 うさぎは楽天主義で物怖じや人見知りをしない、〈町内の世話焼きおばさん〉気質だ。結果より過程を大切にし、友人を大切にする仲間主義者。戦いで勝利するよりも融和を望む平和主義であるが、しばしば他のセーラー戦士たちと意見衝突する。超がつく博愛主義者であり、「世界を救うより、みんなを傷つけてしまうほうが嫌」といっては、倒すべき敵すら哀れみと慈愛で包み込もうとする傾向にある。 これらは本章の後段で解説するセーラームーンの「母性」にほぼ直結するものばかりだが、実はもっとも忘れてはならない、うさぎのパーソナリティの根幹をなす長所は別にある。
「ドジで泣き虫な中二、勉強も運動もあまりできない」というのが、『セーラームーン』放映開始当初からの月���うさぎのプロフィールだ。あまねくすべての女児に最大公約数的な親近感を持ってもらうためのこの設定は、ベタではあるが大変有効である。かつデフォルトのパーソナリティが「できない子」のほうが成長物語を描きやすいという、作劇上の利点もあるのだ。
これはもう、メインタイトルで答えが出ている。「月(ムーン)」が象徴する「母性の獲得」だ。改めて言うまでもない。『美少女戦士セーラームーン』とは、少女である月野うさぎが、強固な母性を獲得するまでのプロセスを描いた作品なのだ。
なお、母との相克を『R』で解消したちびうさはその後、4年目の『SuperS』で実質的な主役となり、うさぎは母親的・保護者的なふるまいが目立つようになる。ここでのちびうさは『無印』時代のうさぎを彷彿とさせるが、第140話「ミニが大好き! おしゃれな戦士達」でちびうさは、「自分の理想は母」であることを明言するに至るのだ。これは自分の母がコンプレックスの対象ではなく、ロールモデルであると口に出して認めた瞬間であり、実に感慨深いシーンだ。 母への反目・葛藤・和解をちびうさで疑似体験したセーラームーン世代は、自らが母になったとき、一体何を想うのだろうか。
しかし1990年代の日本において、LGBTおよび彼らの嗜好性は、まだまだ色物扱いされる存在だった。当時は「LGBT」という用語自体、日本ではほとんど浸透していなかったと思われる。要は一部のリベラルかつハイカルチャーな言論空間を除き、彼らはテレビ、雑誌といったマスコミなどにおいて、興味本位で取り扱われる〈異常者〉以外の何物でもなかったのだ。
ところが1990年代半ば、土曜日夜7時というゴールデンタイムに「女児向け」として放映されていた『セーラームーン』は、驚くべき先進性を有していた。 たとえば『無印』の中間管理職幹部、ダーク・キングダム四天王の1人であるゾイサイトは、オネエ言葉をしゃべる男だ。ここまでなら、類型的なキャラ設定を施された「変なオカマキャラ」で消化されて終わりである。 ところが、彼はなんと別の男性幹部であるクンツァイトと相思相愛の恋仲にある。同性愛カップルなのだ。ちなみに、クンツァイトはおネエではない。しかも、作中における恋仲描写には茶化しも異常性アピールもない。かなり公平かつシリアスに2人の絆を描いている。
また、『SuperS』のアマゾン・トリオは3人とも男性だが、〈性別的〉にもなかなか込み入ったキャラクターぶりを発揮している。3人ともオネエ言葉であり、コスチュームの露出度が高く、見た目はユニセックス。イヤリングなどのアクセサリーもつけている。とはいえ、同性愛者なのはフィッシュ・アイの1人だけであり、タイガーズ・アイとホークス・アイはそれぞれ、少女を含む若い女性好み、年増女性好みと、普通のノンケ(異性愛者)だ。 フィッシュ・アイは見た目にもっともフェミニンであり、作戦時に完全な女装を行う。彼が現在で言うところの「男の娘」※2 並みの志向を持っているのは興味深い。フィッシュ・アイ役の男性声優(石田彰)がほとんど女性のようなハイキーボイスで演じていた点も、彼のトランスジェンダー性にリアリティを与えていた。 フィッシュ・アイはうさぎのフィアンセである地場衛に恋心を抱き、うさぎと一時的に恋敵となるが、自分が人間ではないことを知って落ち込んでいるところをうさぎに慰められ……といった「反目していた女の子同士が心を通わせあう」という美しいドラマを、性別を越えて展開させる。ドラマ自体の美しさが、LGBTという〈(1990年代当時の)異常性〉を、遥かに凌駕していたのだ。 クンツァイトとゾイサイトにせよ、アマゾン・トリオにせよ、1990年代という時点で、敵を安直な「オネエ言葉のオカマ」にせず、多様な性の形・性的嗜好をトリオのキャラクター設定に込め、1人ひとりのパーソナリティを丁寧に描いた功績は大きい。 そして、ここが大切なところだが、セーラームーンたちは敵の行為や目的を憎むことこそすれ、セクシャリティ自体に嫌悪感を表したことは一度もない。
第2章で言及した、うさぎの親友なるちゃんと敵キャラ・ネフライトの純愛もそうだが、立場だけでなく、性別や性的指向を越えた愛を極限まで許容する姿勢こそが、セーラームーンのセーラームーンたるゆえんなのだ。
しかし、もっとも大きいのはゼロ年代後半以降、欧米諸国などを中心としたLGBTに関する人権意識の高まりが、ネットメディアを中心に報じられたことではなかっただろうか。
〈本来は女性〉なので、声優は3人とも女性が担当しているが、星野光(セーラー・スター・ファイター)はうさぎに恋心があるという設定であり、これをまとめると、セーラースターライツの星野光は、 「生物学的には女性」 「しかし男性として女性に恋心を抱く」 「男装・女装ともに違和感なく行う」 といった、LGBT分類上は少し複雑な存在であると言えよう。
『S』から登場する天王はるか(セーラーウラヌス)は完全に男装の麗人であり、言葉遣いも服装もふるまいも完全に男性。その天王はるかと海王みちる(セーラーネプチューン)とのアダルトな関係は、番組終了後も語り草になるほどの人気を博した。
「フェミニズム」という単語から受け取る印象は各人各様ではあるが、「デジタル大辞泉」によれば「フェミニズム」とは、 1 女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動。女権拡張論。女性解放論 2 女性尊重主義
しかし、とにかくパスを回してシュートを決めるのは女子であるセーラーチームの面々であって、男であるタキシード仮面ではない。少なくとも、窮地でタキシード仮面が投げるバラは実効攻撃力のある武器ではない。敵の行動に横槍を入れるためだけの、急場しのぎの代用武器である。 タキシード仮面はファイターではない。攻撃や浄化に特化した武器や技を個々に所有するセーラーチームとは、根本的に異なった存在なのである。