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内田樹による 最終講義。
イタチの最後っぺ みたいに濃厚な臭さである。
長くニオイが残るような問題提起。
内田樹はエライ!
内田樹は アメリカ嫌いである。
アメリカは日本を属国にして、
その属国に迎合している日本。
アメリカのなすことに金魚の糞よろしく、
自衛隊まで海外に派兵する日本。
そのことに、怒っているのだ。
国家を株式会社にする。教育を株式会社的にする。
アメリカのグローバルスタンダードは、
とんでもないとおもっているのだ。
役所は 営利を追求するところでない。
学びの場は 教育を商品としてあつかうことではない。
効率的であること、目先の利益しか考えないこと
そのような 刹那主義に 怒っているのだ。
もっと、継続するための、
生き延びるための思想がいると言っているのだ。
いろんな先生がいて、いろんな価値観があって、
それを学ぶことで子供から 大人に変わる
その殻を破る瞬間を提供できることが、
教育のすばらしさなのだ。
アタマがいい人たちが アタマがいいとおもうのは、
問題はないが
そのアタマのいい人たちが、自分のためにしか
そのアタマをつかわないことに、嘆いているのだ。
なぜ フランスの現代思想をまなび 研究し、
なぜ ユダヤを学ぼうとするのか、
そのなかには アメリカに対抗できる何かが
あるかもしれないという
徹底した 一人の研究者のレジスタンスなのである。
そして、なぜ 武道に のめり込むのかは?
言葉の身体性 をつかみ取るためだ。
地に 足をつけて、闘うために。
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すっごく面白かった。脳がバシバシ刺激された。あとがきで赤坂真理さんが書かれているように、内田先生の倍音の効果かな??
以下、気になった箇所。
P63
「あなたは間違っている」とかは言わないんです。だって、僕が彼の前にいて、現にその言葉を発したという事実がある以上、それには何か意味があるはずだし、僕が間違ったことを言っていたとしても、「間違ったことを言っている男がここに存在する」という事実は否定できない。
P77
福沢諭吉の狂気じみた勉強法について。
「知性が最高速で運転しているときの、全身を貫く震えるような快感。」
「僕はこれはほとんど「知性の身体性」と呼んでよいものだと思います。お腹がすいたらご飯を食べる、眠くなったら眠る。それと同じように、何が何でも勉強せずにはいられない、勉強せずにはいられない、勉強しないと自分が苦しくて耐えられないという精神状態にまでどうやったら自分を追い込めるか。その手立てを具体的に考えるのが「知の現場」にいる人間のいわば「芸」ではないんですか。」
P84
僕は学校教育に市場原理を持ち込むことにずっと反対してきました。けれども、それは自分の中に、何か理想的な学校像や教育像があるから言っているのではありません。市場原理なんか持ち込まれたら、学校という場が全然「わくわくどきどき」しなくなるから、そういうのはやめてくれとお願いしているんです。「アカデミア」って、本質的に、そこに足を踏み入れたら胸が「わくわくどきどき」する場所でしょう。
P171~173
太宰治と村上春樹のこと。倍音のこと。面白い!
P199
日本の知的未来を豊かなものにするためには、どうしたって、学生たちひとりひとりが、私はこの場所にいていいのだ、いなければいけないのだ、ここで学ぶのは自分の宿命なのだという自覚がなければ立ちゆかない。大学は無数のピースで出来上がっている構造物で、そこに自分が「かちり」と収まらない限り、構造物は完成しない。そういう種類の帰属感と責任感がなければ、学びの場というのは機能しないのです。ここで自分が学ぶことによって、この学校は完全なものになるのだというふうに、自分がここにいることの必然性を強く感じられるような学生たちを一人でも増やしてゆくこと、それが学校の責務なんです。
P291
その頃の僕はひたすら「かっこいい欧米のインテリ」を追い求めておりました。その人が「欧米の文化なんて、全部ゴミだぜ」というのを聴きたかったからです。なにしろこちらは敗戦国民ですから。マッカーサーに「精神年齢は一二歳」の「四等国民」とレッテルを貼られた人間ですから、文化的には心底いじけ切っている。だから、この屈辱感を晴らすために、欧米の先進文化なんか「ゴミだぜ」ということを誰かに言って欲しかった。そういう「破壊者」探しの旅の果てに、ブランショ経由でエマニュエル・レヴィナスにたどりついた。そして、レヴィナスの本を読んだ瞬間、電撃に撃たれたように「これだ!」と。「これこそ私が師事すべき人だ!」と直感したわけです。
P337
僕たちが営んでいるすべての社会的活��は、つきつめてみれば、個人のものではありません。集団が主体となって行っているものです。そして、その集団は成員として、今ここで同時代に同じ集団を形成しているメンバーだけではなく、もういなくなってしまった人も、まだ加わっていない人も含んでいる。でも、そういうふうに社会制度や組織について考える習慣を僕たちは久しく忘れ去っていたのでした。
P341
アメリカは手つかずの自然と原住民を収奪して国家の基礎を築き、ただ同然の豊かなエネルギーを発見したことによって、今日の石油基盤社会の覇権国家になりました。別に国民たちの例外的な能力や努力のみによったのではなく、いくつかの歴史的偶然の連なりによって、今あるような国になった。世界の表面はいくつかの偶然によって変わるものです。けれども、アメリカ人たちは、自分たちの成功の理由を誰の支援も受けずに刻苦勉励した事実に求めました。その国民的幻想である「セルフメイドマン」という特殊アメリカ的なロールモデルが今やグローバルスタンダードとなり、全世界に強要されている。日本にはやはり日本固有の風土があり、日本固有のあるべき人物像があると思うんです。自然と親しみ、その恩恵を豊かに享受できることを感謝し、自然や他者たちによって生かされていることをデフォルトにするような人間の方が、この風土、この社会にはなじみがいいと僕は思っています。でも、それを捨てて、できあいの「グローバル人材」なる鋳型に自分たちをはめ込もうとしている。これがいかに愚かしいことかということを、僕は言葉を尽くして言っているのです。
P343~原発のこと。興味深い。
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2017/09/22
学術的な活動を通じて、公共的な利益をどう積み増しするか。
自分以外の「何か」を背負った方が効率的であるに決まっている
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相変わらずの内田節で読んでいて面白い。大学建築の話とか、異質な人が居た方が全体として生存確率が上がるとか、いずれもどこかで読んだことがある話な気もするけど、同じ話を色んな例えを入れつつアップデートしていくのがこの方の流儀だとは思う。
ただ、読んだことない話もあって、その部分は非常に興味深く読めた。誰が読んでも自分の話だと感じるという、複数の立場を同時に盛り込む文章(倍音)の話は、なるほどな、と思ったりした。個人的にも倍音のある文章を書いてみたいな、とそんなことを思った。
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ニチユ同祖論と安保闘争のところがとても面白い。
メンタリティは、敗戦国としてのルサンチマンだったのですね。
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2011年に長年勤めてきた神戸女学院大学を去った著者が、そのころにおこなった講演のうち、6本をまとめた本です。
最終講義ということもあって、著者がとくに力を入れて取り組んできた問題のひとつである教育問題について率直な議論が展開されています。講演がもとになっているということもあって、他の著書よりも若干「前のめり」で議論がなされているような印象を受けました。そのぶん、著者のエネルギーを感じます。
また、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)について著者みずから解説をおこなった、日本ユダヤ学会での講演も収録されています。こちらでは、レヴィナスと武道に打ち込んできた著者がみずからの内なる「反米」というモティーフをえぐり出す試みがなされており、もちろん講演ということで単純化して語っているところもあるのでしょうが、著者の思想を振り返って考えてみるうえで大事な視点を著者みずからが示しているように感じました。
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25歳の選択について60歳で語ってる
それが
痛いほど正直なとこが
強いなあ!
学ぶ意味
教える立場
わたしは新しい学びの後
これ程強くあれるかどうか
強くあれない理由を知るために
また本を読もう!
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2008年、2010年、2011年に行われた講演を収録したもの。
神戸女学院大学を退官するときの講義で、ヴォーリズ建築の特徴、自らの手でドアノブを回したものに贈り物は届けられる。世界内部的に存在しないものと関わることを主務としているのは文学部だけ。
対米従属を通じての対米自立というねじれた戦略。アメリカから見て日本は属国、衛星国、国際社会に対して発信すべき政治的メッセージを何ももっていない国。
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自分がいかに歴史的な文脈の中に生きているか、ある思想に囚われているかについて考えさせられました。
その考えはおかしい、という主張は、それが正しいかは置いておいて、自身を客観的に見つめ直すのに有用です。
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内田樹 最終講義 教育、大学、組織、日本が生き延びるための処方箋を語った講義録。良書だと思う
結論としては、共生原理による社会、直観の重要性とそれを引き出す組織づくり、ブリコラージュ(ありものの使い回しで急場をしのぐ)に生き延びる術を見出している。教育の市場原理を批判し、人文学の意味、教育者が負うリスク、子どもの成熟プロセスなどを論じている
一番強く否定していたのは 教育投資(教育にかかった費用より、その教育により得た賃金や地位が高ければ、教育は成功とする考え方)。教育を投資と考えるのは、教育の自殺であり、使用禁止用語にすべきという主張。その通りと思うが、親がお金を、子が時間を 投入して、その見返りを子が受ける行動を投資とされると 親が子にすることの大半が投資となってしまうのでは?
古典文学など 人文学の意味や効果(直観力〜存在しないものから何かを感じとる能力)をわかりやすく伝えた文章は素晴らしい。大学サイドの人たちも 学生や一般の人たちに文学の意味を積極的に伝えるべきだと思う
子どもを成熟させるために、大人たちの異なる価値観をわからせ、矛盾を経験させるという考えは 学校の先生では難しい。親が中心になると思う
組織力
*人間は自分のためでは力がでない〜自分の成功を共に喜び、自分の失敗を共に苦しむ人たちが多いほど〜知性のパフォーマンスは向上する
*人を見る目とは その人がその組織に置いた時、どのような働きをするか想像する力
*組織には メンバーが標準化しないように異物(違う視点、違う基準で良否を判断する人間)が必要
共生原理の社会
*ずらして、かぶらないようにする
*競争相手を押しのけて奪い取る生き方をしない
教育者が負うリスク
こちらが 人に教えたいと言って始めた以上〜誰かが扉を開けるまで、待っていなければならない
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いや驚いた。
本作はKindleセールで50%オフであったために、時間の慰み程度に購入しただけであった。しかしながら、読んでみるとこれまた自分が日頃疑問に思っていたことや考えているような内容について書かれており、非常に参考になった。
どう生きるか、自分も子供もどう教育するか、サラリーマンとして自分のコンディションをどうやって維持するか、自分の仕事と自分の組織をどう動かしていくか、等々です。
どう生きるかという点で響いたのは、小賢しい研究者批判をしていた箇所です。
筆者は研究者の功利的な研究態度(評価されやすい論文の作成、就職のための得点稼ぎとしての論文)を大いに批判しています。曰く全く心を動かされないと。そんな学会は面白くもなんともないので筆者はほとんどの学会をやめてしまったそうです。
これはあるよなあ、と思いました。自分も宙ぶらりんな大学院生活(興味があることを言語化できないまま卒業から就職へ)を送りましたが、なにもアカデミズムに限らない、あらゆる人にとって切実な問題だと思いました。つまり、どうしたいか・何をしたいか。
私もかつてそうでした。ただ組織に居るだけ。会社に居るだけ(仕事はするけど)。年が一回り下のメンターにもかつて言われました。「で、オヤジさんはこの業務、どうしたいんですか?」・・・全く答えられませんでした。まあミスなくこなしたいとか、しょうもない当たり障りのない意見しかありませんでした。でもそれではきっと伸びないのです。想いがないから。
今は違います。今いる拠点の収益額も収益性も伸ばしたいと思っているし、自分の業務をもっともっと効率化したいと思っている。制約沢山あるけど。そう思うと、日々の時間の使い方や計画も変わってきます。
もちろんそんなのしょっちゅう考えるのはシンドイのですが、上の方々や経営陣がこういうマインドを持ってなければ決して物事は進まないと思います。
まあ会社はまだそれでも組織が整っていて運営されていきますが、研究者はほぼ自営業者ですから、そうした想い・興味・好奇心は絶対条件だと思います。それをきちんと自己認知した上で生きるのならば、研究者でも社会人でもそこそこ納得のいく・そして評価される人間になれると思いました。少なくともその想いを見てくれている人や、手を差し伸べてくれる人が出てきます。だからやりたいことや好きな事・したい事を振り返ったりする作業は私は結構大事だ思います。就活の時の面接の準備の時だけ片手間で考えるのではなく、継続的に振り返っていいと思います。
氏の、教育を自由主義的・成果主義的にとらえるべきではないという意見がありました。これは主に教育を授ける側の評価についての話です。
教育の成果は5年や10年で分かるでしょうか? 否、時にはそれ以上時間がかかるのです。だから即時の評価はし辛いし評価に時間がとられることの方が非生産的です。
私も高校生のときはそれはもう先生や学校のことをクソミソに批判していました。でも卒業して20年以上あって、あの場であったからこそ学べたことがあ��と理解できますし、感謝もしています。それを例えば顧客満足度と言わんばかりに在校生からの評価で学校方針や教員の評価をつけたらどうなるのでしょうか。つまり必ずしもマーケットが正しいわけではない分野や評価が出るのに時間がでる分野があるのでは、と私も思うのです。或いはステークスホルダーをより広くとらえなければならない場合があるということですね。
もちろん高校であれば有名大学への進学率とか、大学ならば就職率とか短期的にとらえられる要素もあります。ただ、いい大学とかいい就職ができたのを学校のおかげだと思う人っていますかね。いないと思います。多くの人が自分の努力で成し遂げたと考えると思います。
教育の成果とはやはり学んだ人自身が、この学校でよかった、ここで学んだおかげで自分の人生は豊かになった、等と評価することにあると思います。
もちろん組織である以上、一定の評価体系が必要ですが、社会一般に普通に行われている評価だからと全ての業界に当てはめるのはおかしいと思いました。公共政策(年金設計、都市計画、その他もろもろの射程の長い政策)も一緒だと思います。
・・・
作品中で「人はテクストを自分が読みたいように読む」という意味の話がありました。その点で言うと、きっと私も自分の問題意識に応じて読んでしまっただけかもしれません。筆者はもっと広く(あるいは私が思う事とは違う意味で)大学や教育や社会について語っていたのかもしれません。
ほかにも沢山のためになる、そして面白い論点を含む本でした。組織の多様性の話とか、昼はレヴィナス夜は道場で稽古という生活を10年間ほど過ごした話もコンディショニング的には淡々と繰り返して成果を出すという点でためになりました。
誰が読めばためになるかと考えましたが、40代のおっさんは夢中になって読みました笑 学生や教師の方や公務員の方には手に取って読んでみてほしいと思いました。またお子さんのいる親御さんにも子育て・挙育という観点からためになる本かと思います。社会人の方にも組織論として読むと、日常の風景も少し異なった見え方になるのではと思います。講演集なので筋を見えない時もありますが、きっと参考になる考え方がみつかると思います。