紙の本
光秀の死命を制するほどの切羽詰った事情があった
2008/05/27 00:25
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:MtVictory - この投稿者のレビュー一覧を見る
序章で国学院大学の二木教授の話を引用している。これまでの「本能寺の変の真相を探る」と題する類の出版物の多くはあくまで「推理」だと。実証をこととする歴史学としてはそれらは学問的な価値はない、と言っている。説を唱えるのであればそこには歴史学の発展に寄与する合理性が不可欠なのだ。良心的な歴史学者であるほど、そうした場に首を突っ込もうとはしないそうだ。私も様々な説をこれまでも読んできたのだが、そこまで言われると身も蓋もない。真実を証明できないだけに面白い説を唱えることで本が売れれば彼らにはそれで良かったのだ。著者自身も信長をテーマにした本を書いている物書きだからその辺りは十分認識しているだろう。
本書も「真相を探る」類の本には違いないが、著者はそうした背景を踏まえた上で、ここで奇説ではなく「歴史学者に刺激を与え」るような検討を加えようとしている。
光秀謀叛のきっかけの一つとも思われる信長の性格。彼の精神状態について私も興味があったが、著者は彼が朝倉・浅井氏を滅ぼし、黄金色の髑髏を作らせた頃から「正常な神経が冒され始めていたのではないか」と考えている。戦国という過酷な時代が正常な精神を破壊することは容易に考えられる。
更に信長の狂気は暴走する。「最大の難敵・本願寺を制圧し、心の重荷が取り除かれたことで、気が高ぶり、平静を失った」。佐久間信盛父子、林通勝父子、安藤守就父子らを追放するなど彼の「性格の暗黒部分が制御を失い表に現れてきた」。
また武田家を滅亡させた後、家康らが安土を訪問したときも梅若太夫の能の出来が悪いと来客の前で自制を失い、太夫を折檻したという。次第に光秀はそんな信長を野放しにしておけないと考えるようになったのではないか?良かれと考え自分を納得させて謀叛したのではないかと私は思う。
「信長は叛乱を起こさせるまで光秀を追い込んでしまうほど凡庸ではなく、軽率でもない。人使いは残忍過酷の一方で十分に気配りもし緻密である」。「まだまだ光秀を用いる局面はあると考えていた」。「まだまだ使えるとその能力を依然買っていたはず」、「自分の将来構想を理解し、働いてくれるはず」とのワンマンの独りよがりが油断を生んだ。
光秀とすればこの先もギリギリまでこき使われることが見えてしまったのではないか?ボロボロになる前に自分の夢(天下取り)に挑んだのかも知れない。目の前に千載一遇のチャンスが訪れたのだから。
第六章には精神医学の専門家による光秀の精神分析が書かれていて興味深い。著者は謀叛の原因の一つとして光秀のノイローゼ説に注目している。「信長と気質が合わず、長年の軋轢により心を病み、怒りが爆発した」というもの。しかし神経症にかかった場合、外部の人間は当人の言動の異常に容易に察知できるという。光秀が異常な行動をとったという記録はないようだ。従って「神経症という重篤な段階まではいっていない」が、「思い極めていて一時的に脳がほかの情報を一切拒否して受け付けない状態」にあった可能性はある。怒りや不安、恐怖、様々な思いが重なり、思い詰めてしまったのだろう。
さて本書で著者の狙いは果たせただろうか?私は本書を殺す側・殺される側の精神分析書と受け取った。
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これだけ読後にがっかりした本も珍しい・・・
振りだけが長くて結局結論が希薄すぎ。
歴史の勉強にはちょうど良かったけど。
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[ 内容 ]
明智光秀には黒幕がいた!?
ついに論争に終止符をうつ。
[ 目次 ]
序章 いまなぜ「本能寺の変」なのか
第1章 信長を囲む軍事・政治情勢
第2章 織田信長という個性
第3章 秀吉の勃興と光秀
第4章 敵は本能寺にあり
第5章 黒幕は果たしていたか
第6章 本能寺の変の真実
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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有名なクーデター事件とされている本能寺の変ですが、歴史小説を多く書かれていることで有名な津本氏による、信長暗殺の真相に迫った本です。
最近明智家の方が本を出版されたり多くの新事実が出てきたりしているようですが、いつまでも決定的な証拠がでてこないで、楽しく読み続けられると良いと個人的には思っています。個人的な思いはさておき、明智光秀は本能寺の変においては、損な役回りをさせられたとは思います。
信長が亡くなった事で得したのは、明らかに豊臣秀吉、徳川家康であり、何人かの商人も同じ思いだったことでしょうし、天皇を始めとした公家もそうだったことでしょう。多くの謎がいまだに残っているので、このテーマはいつまでも楽しめそうです。
以下は気になったポイントです。
・本能寺直前の天正10年(1582)3月には、信長は武田勝頼・信勝を天目山にて破り、東国征服の目処を立て、関東8州の警護(関東管領)を滝川一益に任せた、旧武田領は甲斐22万石が河尻秀隆、信濃20万石が森長可といった信長配下の武将に与えられた(p22)
・信長は後北条氏と連携しているので、武田を滅ぼしたことで、織田と敵対しているのは中国の毛利と越後の上杉のみであった(p23)
・長宗我部征伐のための主将を、三男信孝、副将に丹羽長秀に任じたことで、それまで仲介役をしてきた光秀の立場、感情は微妙なものになった(p26)
・本能寺の変までに滅ぼされた、美濃斎藤・近江六角・浅井・朝倉など、信長を滅ぼそうとしていた勢力はあった(p27)
・1570年9月末の浅井、朝倉連合軍との戦いで信長は窮地にたち、弟の信興、信治や重臣である森可成、坂井政尚を失っている(p29)
・武力は持っていなかったが信長と敵対していた権力として、15代将軍の足利義昭、正親町天皇を頂点とする朝廷がある(p46)
・信長は、足利義昭から三管領の一つである斯波氏の家督や5畿内での領国管理を断って、泉州堺・近江大津・近江草津(商業都市)を直轄市として代官を置くことを認めさせ、貿易による利益を優先させている(p68)
・信長が父の信秀から家督を継いだときには、それまで従っていた国人、土豪たちは離反して、動員兵力は800程度(父の時代には5000)に激減した(p73)
・佐久間信盛が失脚すると、彼の配下にいた、大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、中川清秀、高山重友らが光秀の与力に転じた、しかし摂津衆は組下ではなかったとも言われる、丹波平定後に、細川藤孝、一色義有を加えて、近畿管領の立場にあった(p99)
・1556年に光秀は加賀一向一揆において手柄を立てて500貫文の知行を与えられたが、これを石高に直すと、6000石程度になる(p100)
・本能寺の変直前において、精強とされた信長馬廻り衆の殆どがいなかったのは、中国出陣のために自領へ帰っていたため(p129)
・二条御所では、長男の信忠のみでなく、弟の長利、5男勝長や名だたる信長馬廻り衆が討ち��にしている(p139)
・仮に、摂津衆(池田、中川、高山)が光秀につけば、縁故の深い細川、筒井は迷うことなく光秀側となったはず(p164)
・信長は死後に、朝廷から太政大臣を追贈されている、征夷大将軍ではなく太政大臣で朝廷との問題は解決していた可能性もある(p169)
・光秀は本能寺の変後に、秀吉の長浜城を攻めて占領、斎藤利三を入れている、これにより正妻のねねは脱出していることから、秀吉共謀説も考えにくい(p183)
・光秀が勅旨に対して禁裏や京都5山に銀子500枚を計上しているが、現在の価格で3000万円程度(p185)
・光秀の丹波没収についても、柴田勝家(近江から越前)、秀吉(長浜から播磨・但馬)らが前線に近い遠国に配置されたのと同様の処置と考えられる(p191)
・細川藤孝は、毛利と秀吉のあいだで講和が近いという情報を事前に手に入れていたので光秀に組しなかったと考えられる(p203)
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津本 陽氏の作品なので期待していたが、
あっさりしすぎである。
同氏の著作である「下天は夢か」を読んで、
それから各々で推測する方がよほど楽しい。
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「下天は夢か」の津本陽氏が、本能寺の変について研究・分析した著。本能寺の変については様々な人たちが、様々な見解を示しているが、それらを詳細に分析し、それらの見解に対し意見を述べるとともに、自分の考えを述べている。最終的な著者本人の考えは、従来の一般的なものとあまり違わないと思うが、詳細な調査に基づき、多くの人の本を批判しているところは説得力があり、参考となった。
「信長政権下では独立した権限はほとんどなく、日々、信長から指示命令を受ける立場にあった。彼らには信長から、必ず目付が付けられていた。信長は絶対権力者以外の何物でもなかった」p23
「殺す側の光秀以上に、殺された側の信長という人物の個性を十分に理解しておく必要がある。光秀のような能吏で秀才型の個性は、現在でも少なくないのに対して、信長はまず我が国の古今において例を見ないスケールの大きさをもった、それゆえ狂気の如く破壊的で、かつ一方では実に創造的で建設的でもある、天才と考えられるからである」p60
「(母親である)土田御前は荒々しい気性の信長を嫌い、膝下で育てたこともあって、折り目正しい弟の勘十郎信之を偏愛した」p61
「戦乱の世を生き抜いてきた父信秀は、24人いる子女の中でも、嫡子信長の才幹をひときわ高く評価し、後継者として期待をかけていた」p61
「(信長の布告した「一銭斬り」)たとえ一銭でも盗んだ者は、情状のいかんにかかわらず、かならず斬罪に処する峻厳きわまりない規則だが、信長はこれを断固実行に移した。これにより京都の治安は守られた。背後には、自分の出した布令を遵守しない者は自分を蔑視するものであり、敵以外の何物でもないという論理があったのだろう」p62
「信長は自分の目で見、見たことのみを信じ、そこから深く考え込んで真実に近づいていく。優れた科学者のような合理的思考法の持ち主、それが信長だった」p63
「「楽市楽座」などの革新的商業政策や、「天下布武」という大胆な政策立案、安土築城に見る城郭建築の斬新さなどなど、信長の天才的頭脳なしに生まれなかったことがらは数多い」p64
「父 信秀と舅 道三こそが、若き日の信長最大の理解者であったと言ってよかろう。人はその人の有する器量で相手の器量を理解するというが、まさにそのとおりであった」p71
「佐久間信盛と柴田勝家が、信長麾下武将の頂点におり、惟任光秀、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀らがこれに次ぐ地位にいたようである」p86
「佐久間信盛父子追放時、信長の覚え第一の地位にあった惟任日向守光秀と、第二位の羽柴藤吉郎秀吉との順位が逆転したのである」p92
「(本能寺の変の秀吉や家康の黒幕説)これらの人たちの手になる「労作」は歴史研究の書としては、まったくといっていいほど評価の対象にならない(国学院大二木教授)」p158
「秀吉の、信長譲りの「拙速こそ第一」とする戦略観が、この最大の危機のときに存分に発揮され、光秀との決戦を前に、絶対優位な態勢をつくりあげたのである」p165
「(本能寺の変前後の光秀)決意するまでのぐずぐずしている光秀と、決意以後のてきぱきと動く光秀、この差はどうして生まれ��のだろうか。そこに本能寺の変がなぜ起きたかを理解するひとつの鍵があると、私は考える」p190