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タモリが生まれたのは1945年。タモリの足跡を通して戦後日本を語るとはなかなか面白い。昔のタモリは、嫌いな有名人の上位を占めていた時期もあったと言う今では信じられないこともあった。そういえば、本人いわく「江頭2:50」だったそうだ。だからと言って江頭が大化けして第2のタモリになるかというとそれは分からない。タモリの後に続く人は現れそうにないからなあ。
あの森繁久弥とタモリには共通点があるとしていくつか挙げていたのは印象的だ。詳細については本書を手に取って見ていただきたい。意外な点で共通しているのには驚いた。
SNSのある今の時代なら炎上を繰り返して、表舞台から姿を消さざるを得ないような「密室芸」を披露していたので、そういうものがなかった時代に芸能界デビューして活動していたのは良かった。
毒舌を売りにしていた頃からイメージチェンジして夜の顔から昼の顔へとなり、今も続くタモリ人気。昨日で70歳を迎えたタモリ。「ブラタモリ」、「ヨルタモリ(9月で終わると報道があったが)」、「タモリ倶楽部」、「ミュージックステーション」でそれぞれ持ち味を発揮してタモリワールドをこれからも見ることができる。道の高低差で番組が出来るのはタモリしかいないからなあ。
参考資料
大タモリ年表
http://matogrosso.jp/tamorigaku/tamorigaku-10.html
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<目次>
はじめに
序章 ”偽郷”としての満州
第1章 坂とラジオ、そしてジャズ~祖父母に育てられて
第2章 大学紛争とダンモ研狂騒曲~森田一義から「タモリ」へ
第3章 空白の七年間~ボウリングブームの中で
第4章 ニッポン最後の居候~タモリ出現
第5章 テレビ界「お笑い」革命~芸能人と文化人の合間で
第6章 ”変節”と”不変”~フジテレビの絶頂と『笑っていいとも!』
第7章 「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム~テレビは終わらない
終章 タモリと日本の”老後”
おわりに
<内容>
今まで出版された”タモリ本”の総まとめのようなもの。あとがきで著者が書くように、執筆が遅れたために先行本を参考に書けた感じが伝わる。
タモリが世に出るまでの部分が、戦後の日本史とリンクして面白かった。タモリが世に出てからは、芸能界やお笑い界の話で、先行本や世で言われていることと新しい情報はなかった。ただ、最後の部分で森繁久彌とタモリを比較したりして、「へえ」である。
著者の狙いはある程度成功したと思う。
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講談社現代新書の近藤正高著『タモリと戦後ニッポン』を読了。かみさんが買った本なのだけど、思わず読んでしまった。
タモリこと森田一義氏の生い立ちやデビュー、そして「笑っていいとも!」などの番組を通して戦後日本の大衆史、芸能テレビ史を俯瞰して見せた本なのだが、なんとも言えないもやっとした読後感が残る本だった。
密室芸から始まった彼の芸風が「笑っていいとも!」で「変化」した、というよくある話をぶっ飛ばし、実は大衆の感覚が「タモリ」化したこそに本質があるとする考え方は割合納得できたし、特に俺の世代(70年代後半から80年代前半くらい)においては「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」のタモリこそがタモリだと思っているものにとっては、本来彼をメジャー化させた「笑っていいとも!」は単なるマンネリの極地だったと見る人は多いと思う。
しかしこれは我々自身がかつてのタモリが持っていた密室芸という歴史をメタ的視点で捉えているからそう思うのであり、彼自身の変化は実はそこにないという視点も新しかった。そこは本書の終盤に見られる「タモリ=森繁」説で彼自身に見られる本当の変化というところで、なるほどと思った。
しかし、このもやっとした読後感を生み出す根本的理由は、恐らく本書を通じて垣間見えるタモリの「魍魎」ぶりだと思う。確かに存在しているのだけど、それは光と影の中間にあるもやっとした何かであり得体が知れず、その形自体がその時代、その社会状況に応じて自在に変化してしまうが、存在自体の変化は殆どないという不気味さ。
そして昨今に見られる「リスペクトフォータモリ」(ナンシー関、命名)の動きですら、70年代からタモリを中心にした動きの繰り返しの現在進行形であり、そうさせてしまう彼の戦略性と強かさ。
時代に迎合する人間と、時代が迎合する人間とでは、俺は後者のほうが遥かに恐ろしい。タモリという人は恐らく、後者なんだと思う。
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「タモリ」と「戦後ニッポン」
ミスマッチ(?)の妙でしょうか
大変 興味深く 読みました
TVは全く見ないので
タモリさんという人がどんな人なのかも
ほとんどよく知りません
ただ 山下洋輔さんのエッセイの中で
かなり興味深い人であることは
なんとなく思っていました
この本に登場する固有名詞は
なんとなくわかる程度です
それでも
いやはや 面白く
よませてもらいました
その固有名詞の人たちを
もうちょっと 知っていたら
もう少し深く味わえたのでしょうね
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著者のタモリ愛があふれた本.
タモリという存在を通して,日本の戦後をまとめている.
産業界でもなく,歴史の教科書でもない.
でも,日本の歴史のある一面ではあるけれど,人物を通して見た日本の昭和,平成史として面白い.
その人物が,またタモリという存在だから,とらえどころがあるような無いような,でもその視点がすごく面白い.
個人的にはタモリというタレントがテレビにいると安心感がある.ある意味,テレビタレントとしては最後のエンターテイナーのような気もする.
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2015年12月15日、図書館から借り出し。12月28日読了。買うまでもない本。図書館で借りて正解。最後の方、植草甚一との比較はまだいいとして、森繁久彌との比較の部分は思い入れというよりは著者の勝手な思い込みに過ぎない気がする。
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『いいとも!』が始まって二年後、84年の筑紫哲也との対談では、世間一般で自分の好感度が上がったことについて「征服したぞという感じですか」と問われ、次のように答えている。
《それはないです。はっきり言うと、オレの時代が来るんだと思ったことは、まずないんですよね。なんかやれば攻撃が来るし、いろんなことを言われるわけでしょう。それがだんだん少なくなって、一応好感度のほうになってきましたよね。それは、やったという気分よりも、むしろちょっと待てよ、社会のほうからオレはやられているんじゃないかという気分のほうが強いです。オレが、社会というかテレビを見ている人たちを克服したんじゃなくて、向こうがオレを克服したんじゃないかという感じがありますね》(pp.246-7)
(『いいとも!』の長寿の秘訣)
《反省をしない。計画を立てない。終わったものは仕方ないで気にしない。力まない。強いて長寿の秘訣をいえばこれだね》
《やる気がないことでしょう(笑)。いちいちやる気を出して、反省していたら二年でバテちゃいますよ。あなた任せでやる気なく、人が用意したものをやって、自ら何も発言しない。なぜなら責任をとらなくても済むから。後に引きずらない。やったことはすぐ忘れる。以上が長寿の秘訣。まあ、これがオレの性格でもある(笑)》
《僕はいつもこう答えているんですよ。秘訣はやる気を出さないことですって。(中略)いや、スタッフにはやる気は必要ですよ。でも、タレントはなくて大丈夫。いや、やる気はない方がいい。(中略)流されなきゃできないですよ。毎日今日の反省とかして、あそこが悪かったから明日はこうしよう、なんてやってたらこんなに何年も続かないでしょう》(pp.284-5)
タモリ自身は「やっぱりこの先もテレビが中心にあるんじゃないかと思っている」と反論し、さらにこんなことを語っている。
《テレビが面白くないと言っている人は、興味の範囲が狭いんでしょうね。範囲が広ければ、それに対応できる番組は無数にあると思うんです》(中略)タモリに言わせれば、面白さとは結局、テレビにせよ何にせよ受け取る側の問題なのだろう。(p.300)
日清戦争の起こった1894年、地理学者の志賀重昂は『日本風景論』で日本の風土の特徴の一つとして「水蒸気の多いこと」をあげ、それによって生み出される風景(たとえば富士山の頂が白雲の上に現れ、太平洋上から昇る太陽の光によってその雲がさまざまな色に移り変わる光景など)は欧米諸国では見られないものと賞賛した。(中略)
タモリは、日本の湿っぽく、ことさらに暗くて重たいものが持ち上げられる精神風土を笑いに包みながら批判した。だが、あれからまた40年が経ったいま、タモリは日本をかつてのように批判するでも、かといっていたずらに賛美するわけでもない。彼は行く先々で目にする地形や遺構などをただ淡々と観察し、自分が面白いと思えるものを見つけ出しているだけだ。そこで話が日本や日本人といった次元に敷衍されることはほとんどない。おそらく彼は、たとえほかの国へ行っても、やはり行く先々で独自の視点で驚くようなもの、面白いものを見つけてくるに違いない。(pp.337-8���
タモリにとって観察眼は、面白味のないものを面白くするための武器ともいえる。《タモリの出現はギャグの事件であったというばかりではなく、思想的事件だった》とは、平岡正明の『タモリだよ!』の一文だが、タモリが戦後ニッポンの思想史上にその名を刻むとするなら、やはりその観察眼であり、過剰な意味づけを拒むその姿勢によってであろう。(p.338)
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いいともの最終回は確かに事件だった。
もはや、事件なんて起きなさそうに見えるテレビのかつての面影を残す書籍だろうかと手にとった。
あぁ、こんなこともあったような気がする、だなんて昭和の空気を少し吸ったものの、
どうもおもしろくない。
タモリの個人史で十分に面白いはずだが、
歴史と絡めようとしている中でどうも予定調和で見たことあるような景色。
力作ではあります。
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関係する多くの人が登場し、芸能史の勉強になりました。大学を卒業してしばらくののち、福岡でサラリーマン時代があったことがいちばんの驚きでした。タモリさんの面白さを当初、山下洋輔、筒井康隆、赤塚不二夫と、文化人が支持してたことも当時の独自路線であったのかなと思いました。
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〇目次
序章:偽郷としての満州
第1章:坂とラジオ、そしてジャズ―祖父母に育てられて
第2章:大学紛争とダンモ研狂騒曲―森田一義から「タモリ」へ
第3章:空白の7年間―ボウリングブームのなかで
第4章:ニッポン最後の居候―タモリ出現
第5章:テレビ「お笑い」革命―芸能人と文化人のあいだで
第6章: “変節”と“不変”―フジテレビの絶頂と『笑っていいとも!』
第7章:「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム―テレビは終わらない
終章:タモリとニッポンの“老後”
タモリとその周りの環境や人々との関係を軸に戦後の日本の歩みを描いていく。そもそも、タモリはなぜドライに客観的に物を観察し面白く感じることができるのか。これはタモリを語る上でキーポイントであろう。
筆者はタモリの祖父家族の満州での生活体験、大陸での話を聞いて育ったタモリは冷めた見方を身につけていく。
ここに日本の農村社会的なものを馬鹿らしく思うタモリが現れることになった。タモリがテレビに登場するのは、奇しくも農村の村落共同体が終焉する高度経済成長末期の時期にあたる。時代がタモリ的な存在を欲していたのか。
タモリがテレビに登場し始めた時期から、タレントと文化人が混ざったタイプの「文化人タレント」が登場し始める。タモリが際物タレントから茶の間の人気者になっていくのも「文化人タレント」に乗っかったからという指摘は、近年のタモリが若いサブカル・ヲタク層から人気なことからも納得できる。
「文化人タレント」が受けるということは、都市化され洗練されていく国民の知的欲求の高まりから起きた現象という本書の見方は、これまた農村社会の崩壊と軌を一にする。
タモリから見た戦後日本の社会的な変化は、まさに高度経済成長期を境に農村社会的なものから都市的なものへの変化を描いている。
今後の日本社会とタモリは一体どのようになっていくのか、気になるところである。
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2016/09/09:読了
内容があって読むのは時間がかかった。
80年代からの時代を雰囲気の変化が、タモリを通して分かってくる本だった。
面白かった!
高崎図書館にあり
2016/04/30:一回借りたが読む時間なく返却
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とても面白く読めた。ただタイトルからイメージされるほど戦後のニッポンの歴史と密接に関わっている訳ではないと思う。みんなが同じように時代や社会の影響を受けているので、ちょっと大げさなタイトルだと感じた。ただ、内容はとても良くて、タモリという芸人を多角的に分析していて面白かった。昔の夜のタモリをもう一度見たいな。
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よく調べたなぁと感心するものの、いいとものあたりからくどさを感じた。上京〜帰郷〜再上京のくだりはワクワクさせてもらった。タモさんが見出されるのはその必然性があったと。
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とても面白い戦後日本文化?史。
読後、記述にもあった、赤塚氏葬儀での氏の弔辞を思い出した。タモリと言えばジャズ、という印象だったが、懐かしの4か国語麻雀やらハナモゲラ(言葉だけ聞いたことがあった)の話を通じて、日本の大衆文化を記す、というのが面白かった。
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タイトルや「はじめに」からは、タモリを通して戦後日本を説明するもののように見えるが、実際の内容はタモリの活躍の歴史をつづったもの。
タモリのTVへの登場したころの話は赤塚不二夫の居候くらいしか知らなかったが、その前に山下洋輔たちとのかかわりからブレイクしていったというくだりが、読んでいてワクワクした。
ロックでも60年代とかのビートルズやストーンズが生まれてきて色々なバンド、色々なロックの形態ができてくるころ発展途上の文化において化学反応を起こしていく頃の話はワクワクするが、それに似ていると思う。
いわゆるJazzの持っているフリー感がタモリの芸に影響を及ぼしているのだなというのが発見んだった。山下洋輔の初期トリオの中村誠一という方がタモリと同様のインチキ外国語しゃべったり、フリー落語というものをやったり、音楽と同じように、フリージャズの奔放さを笑いにつなげるという、深遠さ。そういえば、現代アートのハプニングとかも、この少し前のころの話なんでしょう。
芸術が格式ばったものではなく、サブカルチャーとして生き生きと表現されていく生命感。そんな気配がする。
言葉がわからないこと、意味がわからないということが重要とか、ネクラネアカのことを根が明るいか暗いか、表面上の明るさ暗さではなく、あくまで根がどうなのかという点が重要とか、本質的な部分、タモリは冷静に、物事の核の部分に焦点を合てているのが、非常にアーティスティックだと思う。
もともと登場したてのタモリは毒いっぱいでインディーズスピリッツ満載だったのが、芸能界の表舞台にぱっと適用して洗練してしまうという器用さがあったことが凄いのでしょうね。
と、タモリのことに詳しくなれる本ですが、戦後のことはあまり関係ないので、タイトル通りではない点が物足りない。
西川きよしがタモリ、たけしとほぼ年齢が同じというのが驚きでした。(きよしは中卒、タモリ、たけしは大卒の違いから、きよしはタモリ、たけしの芸能界入り時点ですでに大御所だった)