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インタビュー形式で柄谷行人のエッセンスをわかりやすく語っています。読んだら「トランスクリティーク」や「世界史の構造」が分かったような気分になれるよ。そんな意味でお得。
震災後のインタビューでは、特にデモの意味を再考し、その重要性を語っています。実践的な動きには心を揺さぶられたが、しかしそれがデモではちょっと共感できないよ、すいません。
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帯の通り「柄谷行人入門として最適な一冊」。
語り起こしなので、読む上での難易度が低い。
「反原発」。それだけを心情として決定してはいても、理的なよりどころのない自分には、骨を通してくれる一冊だった。
日本はなぜ原発を持つのか。
原子力の平和的利用、石油が枯渇する危機感、炭酸ガスによる温暖化……。
その理由が次々と変わってきた一連のあり方が、ブッシュ政権時のイラク戦争と同じであることを指摘したのち、
「真の動機は核兵器を作ることにあると思います」
と語っている。
また自然エネルギーへの転化、という「脱原発」側のお題目についても柄谷は手厳しい。
「……まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものを作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろその論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです」
原発を止めることは、無限に拡大する消費の欲を止めることと同義であること。漠然と気づいてはいたことに、言葉を与えてくれたように思う。
本書の主題は「思想」だから原発自体が主題になる部分は多くない。現在の「新自由主義」の時代が実は「自由主義」のではなく「帝国主義」の再来であると説くなど、近代の思想を語ることに主眼が置かれている。
が、「反原発」を貫こうとすれば、おのずと直面するこの国と世界の民主主義の状況が丁寧に描かれているから、自分の考えを補強するのに大いに役立つだろう。
橋下大阪市長が「自分は選挙によって付託されたのだから、自分の方針はすなわち市民の考えでもある」と事もなげに言うような不安定な現在。
原発事故後50年ぶりにデモに参加したという柄谷は、
「代議制とは、代表者を選ぶ寡頭制です。それは民衆が参加するデモクラシーではありません」
と語り、
「デモクラシーは、議会ではなく、議会の外の政治活動、たとえば、デモのようなかたちのみで実現されると思います」
と説く。
わかってはいたことだが、原発を止めるにせよ、政治の右傾化を阻むにせよ、結局誰でもない自分がデモクラシーに主体的に関わり続けるしかない。
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60年代の安保闘争に参加し、現在は脱原発のデモに参加する柄谷行人。本作は、インタビュー形式で、柄谷氏の思想と実践を紐解きつつ、日本のあるべき姿を考えている。
日本が専制国家である理由とは。
国民が主権者であるといっても、どこにも明確な個人は存在しない。正体不明の視聴率と支持率があるだけだ。与えられた候補者、政党から選ぶことは、本当に政治的な参加と言えるのか?モンテスキューは、代議制とは、貴族制ないし寡頭制だという。そして民主主義の本質は、くじ引きにある、と。つまり行政における実際上の権利において平等であるということだ。
そして、個人が主権をもった主体として存在するためには、直接行動、すなわちデモのようなかたちでのみ実現される。
この数が数万人から数百万人と規模が多くなり、長い闘争の後、新しい社会状況をもたらす。
なるほど。選挙権=くじ引きする機会、という意味では、平等であり、これこそが民主主義ということ。ただし、当たりとハズレがあることは承知の上で、と。
どこかの誰かが選挙で当選した事実を盾に、国民の意見を代弁しているかのような語り口に、近ごろ食傷気味な感情を、スッキリさせてくれた。
足尾銅山鉱毒問題の民衆による抵抗運動が20数年続いたことを考えれば、脱原発に対する行動は、さらに長く険しい戦いになるのだろうか。
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柄谷の文章はあまり好きじゃなかったが面白い本だった。ただ理解しても、共感はしない。カントの『永久平和のために』と話の向いている方向は似ているかなと思ったら、柄谷本人も踏まえて書いているみたい。
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批評者の知識はあまりにも深く、読者自信にその力を試すものであるが、たやすく読み進めていける文体と内容に感動した。
これまで固定概念としてあったやや忌避しがちな政治的な思想や活動についても、一般のものが超えやすいように論じている。
正直、現在の市民活動としてのデモなどに民主主義の危機や、陰謀的なシナリオというネガティブな恐ろしさを抱いていたが、デモと人々の繋がりであるアソシエーションという文脈を介して述べられる必要性については納得できた。
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結論はデモに行きたくなったということ。でも、何のデモに参加するのか。どんなデモに参加するのか。だれと参加するのか。いま、自分が世の中でおかしいと思っていることは何か。あまり腹が立たない方だし、それはおかしいと思っても、根に持つタイプではない。原発については、20年ほど前から一貫して、それは未完成のまちがった技術である、即刻やめるべきである、ということを授業の中では言ってきた。だからいまさらという気もする。私自身は過去にデモと呼べそうなものは一度しか参加したことがない。と言っても、学生寮の自治を守るためだか何だかで、学内をうろついただけなのだけれど。みんなで集まってワイワイするのは嫌いではない。歩くのも嫌でない。けれど、何を訴えるのか。50歳にも近い大人が、世の中に言いたい事の一つもないのかと、ちょっと情けない気がしています。しかし、柄谷行人はかっこういい。「トランスクリティーク」も「世界史の構造」も結局途中で挫折したままです。ゴメンなさい。カントもマルクスも読んでいない。でも、なんとなく読んだような気にはさせてもらえる。帯にある「柄谷行人入門に最適な一冊」というのは、正しい。
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1960年から2011年までの日本の政治思想について柄谷氏とインタビュー形式で書かれた一冊。
お友達が柄谷氏を非常に高く評価されていたので、一度は読もうと、なるべく分かりやすい一冊を選んで読みました。
1960年代の安保の時代から始まる日本の政治やそれに対する市民の活動など、懐古しながら読み解き、60年代と70年代の活動の違いなどを読み解くには非常に分かりやすい解説がされている。
なぜデモが国民の集会や意思発信から消えていき、また2011年のあの震災から脱原発のなど自然発生的に始まった市民のデモが戻ってきたのかが大切な事だと解説され、そのデモがなければ本当の市民政治など日本に生まれないと話されている。
憲法で認められた集会の自由の中にデモは含まれており、規制されるものではないという考えを日本国民は持つべきで、デモをしなければ日本はダメになっていくし本物にはなれないと言われいている。
歴史の周期で60年周期120年周期で起こる事象についての考察など興味深く、その節で行くともう少ししたら戦争がやってきて新たな世界秩序が生まれる歴史的な時期が来ているのではないかという記述が非常に印象に残った。
日本がこれからどうなるかを一度考えたり、政治という物や市民活動という物を根本から考えるには読んでおくべき一冊かと思った。
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16
世代論 60年代人
60年=多様性と近代日本の問題(普遍性、グローバル)から70=ただの学生運動(世界的共通性がない)
24
〈六〇年には、グローバルな問題があると同時に、「昭和」という言葉ががはらむような、日本に固有の問題がある。〉
30
〈文学は「文学的」ではない。文学には、才能と時に労働が必要だ。才能と同時に、こつこつやる必要がある。〉
37
50
修論
61
フランス現代思想
世界の解釈を変える→世界は変わる
テクストをどう読むか→テクスト的観念論
67
デリダの脱構築、冷戦構造を反映
75
考えずコミット
80
交換様式
109
歴史の反復
国家に固有の反復、資本に固有の反復
136
カント 帝国主義的
147
幽霊的存在
151
原子化する個人
159
201
集会とデモ、英語では含まれる
202
動く集会、遊動性
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デモについて考えるために手に取ったが、他の話題含めてとてもわかりやすく、マルクス周辺の思想やアナーキズム、日本の新左翼運動などはじめて触れることに対してなるほどと思うことがたくさんあっ。