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昨日の東京電力の株主総会は、「エアー謝罪」あるいは「つもり謝罪」をして、株主からの経営合理化などの提案ははねつけて、1兆円の公的資金注入を了承という虫の良い提案のみ賛成。独占企業の姿が良く分かる。しかも辞める会長は、関連会社にちゃっかり再就職。甘ちゃん(あるいはアマチュアという意味でのアマちゃん)経営の見本。
電車が何らかの理由で遅延した際にも「お詫び申し上げます」と何度も繰り返しアナウンスされる。中には、昨日のことなのに「ご迷惑をおかけしてお詫び申し上げます」とアナウンスが流れることもある。まさに「すみませんの国」だ。
さまざまな場面で聞く「すみません」。著者曰く、すみませんには、相手に対する思いやりがこめられていて、「すみません」を言うと、「空気」が良くなる。さらに、「すみません」を言った人に対して、必要以上に攻め立てるのは良くないという感覚が日本文化にはあり、「すみません」と言われることで、相手の怒りが和らぐ効果がある。おもわず、「すみません」は魔法の言葉かと思った。複雑だな。
謝罪会見で見られる胡散臭さについて言及されている。「自己呈示としての謝罪」と著者は述べている。では自己呈示とは何かといえば以下のように説明している。
自己呈示とは、他者に対して特定の印象を与えるために、自分に関する情報を調整して示す行動をさす。こう見られたいという意図のもと、提供する情報を操作する。いわば印象操作の一種である。
本心とは違う謝罪を行なう会見が目立つのはそのためか。著者は、責任の所在が特定の個人ではなく、「場の責任」にするために弊害が出ていると指摘している。ニュースで高校野球部員が不祥事を起こした際、起こした個人のみではなく、部員全体で責任を取ることがよくある。責任があいまいになって、本当に教育上よいのか疑問だ。
「タテマエ」には要求をコントロールする効果があるという指摘があり、意外に思った。利己的な心を抑制する役割があり、タテマエがなくなると利己的な心が表に出て、社会が混乱すると述べている。タテマエとハサミは使いようか。タテマエは、使いこなすのが難しい道具だな。
「すみません」にもと場の重みが感じられなくなっている。ポテトチップス並みの軽さといえば、「政治生命を賭けます」も同じだ。歌舞伎の大見得じゃあるまいし、そんなことを言われて感激する人がいるのか。今まで、何人もの政治家が使っては、姿を消していった危険な言葉。それにもかかわらず「政治生命」を使うとは、「政治生命」に魅力があるのか。疑問がふつふつとわいてくる今日この頃だ。
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■日本文化
「共感性が高い」のが、日本文化の大きな特徴の1つといってよい。「みっともないことを嫌う」のもの日本文化の特徴の1つだ。このような事情によって、日本人はすぐに謝る事になる。つまり、非を認めてあやまる潔さをよしとする美学があり、非を認めて謝るものを責め立てて責任を追及するようなことはしない文化であるために謝りやすい。加えて、相手の立場への共感性が高いために、すぐに謝る。
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日本は状況依存社会。すみませんと言われることでそれ以上攻め立てるのは無粋だという場の雰囲気を作り出す。
悪者探しをしないためにすいませんと言う。
日本社会に適応するためには言葉の背後にある思いを察することが求められる。
良好な雰囲気の場が形成されればお互いに相手が困る要求を突きつけることが出来なくなる。日本のコミュニケーションは意思を伝える手段ではない。
相手の出方を伺いそれにあわせて自分の出方を決める。相手の思いと自分の思いをいかに調査させるかに腐心する。
日本では言語によるコミュニケーションがそれほど重要視されてこなかった。
正論を言う人は嫌われる。何を言ったかよりも誰が言ったかが重要。
米国では自分の考えを相手にしっかりと伝え友達を説得して自分のしたいことを通すことが良い子。
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考え方一つで、日本人の曖昧さも悪いことではないと感じる。でも結局、バランス感覚が一番必要なんだろうな…
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非常に面白い日本人的コミュニケーション論。
■状況依存
■言語化されないものをいかに理解するか
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気が付くとうんうん頷きながら読んでいた。
「わかりました」と「はい」の使い方については、的確すぎて思わず笑ってしまった。
どうしてもっと効率よく出来ないのだろう、というような無駄な話し合いには "満足感を与えて一体感を醸し出す" 意味があるらしい。足並みそろえてというわけか。
アメリカ式のコミュニケーションを "良いもの" として取り入れようとするのも日本らしさなのだろう。
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日本的コミュニケーションはわかりにくい。が、奥ゆかしい。
良くも悪くも思慮深い、日本人の国民性が私は好きですが。
私もこれまでに一体何回「すみません」を口にしてきたのだろか。
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日本のコミュニケーションの特徴を、すみません、に代表されるようなホンネとタテマエを切り口にして考えてく。
具体的な話を例に挙げながら進めるわけだが、あるある話ばっかりな印象になってしまった感も否めない。
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日本社会は「ホンネ」と「タテマエ」の二重構造でできており、この構造を理解していないと、コミュニケーションに支障をきたすという話。海外との比較で、この手の二重構造は悪く言われることが多いけれども、社会から争いを減らす意味で、むしろ上手く機能している側面を特に強調している。また、近年の日本では、タテマエを軽んじる風潮から社会がギスギスしている面が見受けられるとしつつ、現代の若者も、ホンネとタテマエの狭間で細心の注意を払いながらコミュニケーションをしている実態を明らかにしている。
私も、人の発言において、言外の意図や真意を読み取るのは非常に苦手だし、逆に自分が話す場面でも、どこまでの範囲を、どの程度まで正直に話していいのか今でも基準を測りかねているので、コミュニケーションは大の苦手である。特に、事前に準備ができないような突発的な場面では、コミュニケーションを上手くこなすことはまずできない。自分が責任を持てないことについて言質を取られるわけにはいかないし…。どうしてこんなに悩まなくてはいけないのか、背後にある社会構造を本書が明快に示してくれた意義は、私にとって非常に大きい。これからもバイブルとして時折り参照したい本。
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欧米をはじめとした諸外国人との比較において、日本人は「場」の雰囲気や他人の反応を考慮した上で「意見」「考え」を言う傾向にあるということを述べている。
日本人の歴史や、教育、親子関係等幅広い点からこのような気質、風土が出来上がったということのようだ。
今まで政治を中心に、諸外国と日本との考えの違いが言われてきて、なんとなくそのことはわかっているつもりであり、それをどう論理的に説明をするのか、という視点で読んだが、どうしても筆者の一方的な感覚論でしかないのではないかという印象が残った。
自らの思いではなく、周囲の評価を気にする人が多いのは事実であるが、さりとて日常生活において欧米人がそこに無頓着であるとも思えない。そこを外交関係での欧米の原理原則論を主張する姿を強調し、日本人とは違うと断定する内容に違和感を覚えた。
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世間でよく聞く「日本人は自己主張がなさすぎる」というマイナスな意見。
確かに諸外国と見比べるとそうなのかもしれないけれど、そこには日本独自の「文化」と「社会」に深く根付いた然るべき理由がありました。
別に自己主張が苦手でも、やたらめったら自己嫌悪する必要はないというわけですね。
読み終えてから改めて眺めるタイトルの『すみません』に、これは日本の姿を本当に如実に表した言葉なんだなぁ~と、えらい納得してしまいました。
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日本は状況依存社会。原理原則より、お互いの立場に共感し曖昧でよしとする。言葉は意思を伝えるのではなく、場の雰囲気を保つためのもの。
だからダメ、ではなく、国際社会に対して日本的論理の良さへの理解を求めていこう。
より難しい、高度なコミュニケーションなのだと。
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(推薦者コメント)
日本人はなにかとすぐ「すみません」と言いたがる。その場凌ぎでなんとなく場を繋ごうとする。日本人の考え方、行動パターンはどうしてこうなのか。それを解き明かしてくれる本。
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昨今、タテマエを悪しきものとして思ったことをそのまんま発語する風潮が幅をきかせている。が、タテマエには利己的な心を抑制する大きな効用があることを自覚する必要がある。社会的存在にふさわしい振る舞いには自己にブレーキをかけるタテマエが間違いなく必須。自分たちの深層に宿る日本的なものをしっかり直視し良いものは自信をもって堅持しグローバル時代を生きていかなければならない。
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アメリカ人に対して「相手の立場を理解する能力が無いため、あのような日本人にとって利己的とも思える主張が出来る」
と言っていて、これに対し日本は「物事に寛容で多様な見方があると分かっているため、意見を表明しづらい」
とある。
そしてこの理屈が日本の「すみません文化」を肯定する一因になっている。
が、それは大きな間違いだと思う。
自己の意見を通そう、通せるというのは「相手の立場、メリット、デメリット」が十分に理解できているからこそ、そのメリットを弱めたりデメリットを強調したりできるわけだし、当然自分達の長短所が理解できているから、「何が自分達にとって良いか」も理解できる。
「あまりにも利己的と思える」というのは、裏を返せば「自国に都合が悪いためそう思う」に過ぎないし、利己的と判断する基準が利己的。
そしてそのような主張が出来るのは「相手の立場を考えられないから」、とあるが向こうの人も「そんなこと分かった上で言っている」わけで、それこそ向こうの建前を日本人が理解できてない、つまり察することが出来ていない証拠だと思う。
また、前半のほうで飲み会の場において「今日は無礼講でと言っても誰も本音を出していないと分かる」と書きながら、後半においては「非公式なコミュニケーションである飲み会の場で本音を出す」という趣旨があるが、これは矛盾しているような。
日常生活においてこのような察する、ということは良い面多いと思うが、仕事では止めたほうがメリットが多いと。