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本書はNHK Eテレで『ニッポン戦後サブカルチャー史』として2014年8月から10月3日まで、全10回にシリーズとして放映したものをベースに構成したものである。
当然のことながら、毎週リアルタイムでボクは視聴した。
以前、宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』を読んだくらいで、人物像を知らなかったが、TV画面を通じてはじめて観た本著者の印象は、ボクがサブカルチャーに目覚めたときにすでに活躍していたYMOの細野晴臣や糸井重里、川﨑徹、浅田彰、中沢新一といった面々と同様、どこか巫山戯たような斜にかまえたような脱力感を滲ませており、案の定、いわゆるサブカルチャーの中で語られるクリエーターと同様のニオイを感じさせるものだった。
そんな『ニッポン戦後サブカルチャー史』がさっそく書籍化されるというので、脊髄反射でポチッとしたのである(笑)
『サブ』であるカルチャーは『本体』がなければ存在しない。
中心と周縁。上位と下位。体制と反体制。
すべては、ある時代の雰囲気の中で、またある舞台装置としての場所の中で、同時発生的な『逸脱』によりサブカルチャーというものが生まれてく。もはや戦後が終わったらしい50年代からのこうしたサブカルチャー創世記はこれまでまとめて触れたことがなかったので新鮮だ。
一方、本書で残念なのは昨今の『サブカル』全盛に至る直近の経緯である。
昨今、サブカルチャーは『サブカル』という言葉の方が一般に流通してしまっている。本書を読んでみてもらえれば明快だが、おそらく『サブカルチャー』と『サブカル』は違う。
サブカルチャーという枠組みの中の特定の分野としての『サブカル』ではないかとボクも感じているところだ。
このあたりのサブカルになっていく時代、これはまさに『おたく』が『オタク』に変容する時代の流れであり、現在に通ずる話になるのだが、この90年代の整理が多少に比べて浅いのである。
まぁ、でもこのあたりは東浩紀はじめ様々な人が批評し尽くしているから他書を読めってことなのかも(笑)
本書では1950年代から主に2000年まで、各時代におけるサブカルチャーとその時代における意味と次の時代への架け橋が述べられている。
サブカルチャーの時代の通史を読んでみて、やはり痛感したのはコレまで自分が触れてきたサブカルチャー。特に西武文化事業全盛時のPARCO文化というか、いわゆる80年代までのサブカルチャーとバブル崩壊以降、現在に至るサブカルとは断絶ではないにせよ、成り立ちが異なっているのだということ。
これまでのサブカルチャーには、『舞台装置』としての場所。
これは60年代の新宿から80年代の原宿〜渋谷に至る経路や、新宿から端を発した周辺文化圏となる下北沢、高円寺、吉祥寺といった中央線沿線文化圏の形成。
それと、舞台装置の誕生を裏付けする社会的な思想。政治的な思想から企業が提示する思想、クリエーターが独自の感覚で捉える思想。
さらに舞台装置の中の時代感覚を捉えて新たな逸脱を遂げるクリエーター、そこに集まる人々。
この、『場所』と『思想』と『人』が奇跡的に結びつくことでパワーのある『逸脱』が発揮���れ、文学、音楽、演劇といった身体的なサブカルチャーが花咲いては散りを繰り返してきたと思うのだ。
それが、特にパソコンとインターネットの発展により、もはや身体的なサブカルチャーの時代は過ぎ去り、「テクノ」以上に無機質的で0と1の羅列で創造されたデジタルな文化に移行している。
全ては細分化し、データベース化していくと看破したのは東浩樹だったと思うが、まさにサブカルとして定着した感のある現在のサブカルチャーはもはや舞台装置としての場所はない。
全てはネットの世界の中で大きな物語は失われ、クリエイトするという行為はデータベース化した素材を元に誰もが手がけられる世界となっている。
ボクが求めてきた『サブカルチャー』はもはや存在の余地はないのだろうか?
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多岐にわたるサブカルを一望することに成功している。要所は抑えた良書である。
10年ごとに区切ってその時代のトピックをまとめた前半、各年の主要なトピックをまとめた後半に分かれている。どちらも、思いの外広くポイントを押さえていると思う。筆者の目利きと知識の深さがモノを言う。
前半の記載は「俺知ってる」的な臭さがなく、淡々と書ききっているところに好感が持てる。後進の我々には伝わりにくいコンテキストを立ち上げることで、リアリティを持ってその次代を捉え直すことができるだろう。
後半を見て思ったのは、自分の調子の悪い時期と、サブカルへのコミットが小さいことがあまりに関連していることであった。つまり、自分にとってサブカルとどう向き合って行くかが、元気で活動的でいれるのかのバロメータなのだろう。
サブカルの発生をつぶさに観察することは、これからを占う上で役に立つ。サブカルの源泉はクリエイターの揺るがざる想いであり、相互に触発されることにより高まる。信念を持って行動し続ける、独特の視座で社会や事件に切り込み咀嚼する、そして、自分の得意な表現を使って新たな価値観を提示する。多かれ少なかれ表現者であれば、この部分に長けているのだと改めて思った。そして、この本で取り上げられた人々はその頂点の人々であり、他者を容易に真似ない自分らしさを貫いた人々なのだろう。
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サブカルチャーを、米国での誕生から説き始め、日本での変遷を10年刻みで、年代ごとにおっていく。詩、映画、ラジオの深夜放送、音楽、演劇、ファッション、企業のメセナ活動にいたるまで、著者の体験を交えて語られている。Eテレでの放送をほとんど見逃してしまっていたので、本書が出版されてよかった。著者が最後に述べた、中学2年生のクラス40人のうち、37~38人は同じ方向を向いているが、2~3人は他を見ている、そのことについて語りたかったというのが、印象にのこった。
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サブカルの歴史もさることながら、1945年から2014年までの詳しい年表が、面白い。1970年代頃からは、一年一年になつかしさがこみ上げる。
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サブカルチャーとは何か?きっと人によって答えは違う。YMOに代表される80年代テクノと主張する人もいるだろうし、近年はアニメ色が強い。筆者はその定義を「逸脱」と宣言。それは王道の文化が優れているという上下の概念ではなく別の見方を得て視点を広げること。驚異的な情報量の年表も面白い!
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【教育学部図書館リクエスト購入図書】☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB16851664
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『流』を読んだ時に、「サブカルは終わるんだな」という感想を持った。何故そう思ったのか、自分自身の頭の事ながら訳が分からない。
という訳で、ではまずサブカルについておさらいするかと買ってきた。
『ニッポン戦後サブカルチャー史』も同じ理由で購入した。年内に読めたらいいな。。。
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2015.12.14
後半にある年表を見ると、2000年以降ってカルチャーに全然触れてないなと思う。
やっぱり大学生の時と社会人になってすぐくらいのは大体わかる。
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NHKで放送されていたときに観ていたので本でも読んでみました。
「サブカルチャーとは逸脱」という。葉が印象的。
逸脱していてこそ面白い。
皆が好きになっちゃったらただの王道。
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序章 サブカルチャーとは何か
第1章 五〇年代にサブカルチャーの萌芽を見る
第2章 六〇年代の表現者たち―大島渚、新宿、『カムイ伝』
第3章 極私的、七〇年代雑誌・音楽変遷史
第4章 セゾンとYMOで八〇年代を語る
第5章 「サブカル」の出現と岡崎京子
第6章 それぞれのサブカルチャー
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サブカルチャーは下位の文化であり、そして逸脱でもある。こういうと怒る人もいるかもしれないが、サブであり、カウンターである以上、仕方ないだろう。
本書はNHKのEテレ(って、何かと思ったら教育テレビこう呼ぶのね)の番組を期に生まれた本らしい。
NHK教育でサブカルチャー。なんじゃそれは。
僕がテレビから離れている間に、呼び名は変わるは、サブカルチャーを番組として取り上げるはで、驚きが隠せない。その驚きに、NHKエンタープライズの人が前書きで答えている。あえて、選ぶ。選択こそが、生き方であり、思想であり、その細部にこそ命が宿る、と。
前半分は宮沢章夫がサブカルチャーの変遷を追い、後ろ半分は戦後サブカルチャー関係の年表である。なかなかのボリューム。年表もまったく読み応えがある。
言っておくけれど、サブカル本ではない。サブカルチャーの方である。おたくとオタクが違うように、いやそれ以上にサブカルとサブカルチャーは違う。そんなことにも触れられている。
僕が青春を過ごした場所や時間も登場する。
ただ、そのときの僕には、いろんなことを繋げて考える力がなかった。
選ぶ、ということに思想がなかった。なんだかすごくもったいない、損をした、取り返しがつかないことをしたような気分になった。まさかこんなに落ち込むとは思わなかった。当時の選択だけでなく、今の選択にも自信がないからか。
「サブカルチャーは単にサブカルチャーであって、処方薬ではありませんから。」まったくだ。「寄りかかるな!」まったくだ。
なんか、泣きそう。