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「人の気持ちを考える」ことへの著者の幼い頃からの疑問から始まる。アンドロイド、ロボットの技術的な話ではなく、哲学的な話であったり、相手が人間であるよりもロボットのほうが心を許して接しやすくなることが中心。
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ペッパーくんが20万ほど(月額使用料を入れると約120万)で手に入る現在。
ロボットが身近にいる時代がもう来てます。
個人的には近い将来ロペットが「コンバインOKコンバインOK」って言うてる時代が来るように思います(笑)
「技術への偏見は時間と共に解消する」
これは至言やと思います。
いかにテクノフォビア(科学技術恐怖症)の人であっても便利さには勝てないんやと思います。
おそらくマイナンバーも過渡期でこれからの少子高齢化で労働力不足問題に直面する中において手作業で名寄せしたり突合させたりするのが正義という人は減ってくるんやと思います。
AI時代になったらますますブラックボックス化が進んで誰もその結果に説明をつけることが出来ない時代が来るんですから。
そういった意味でも今こそ正しい科学技術に対する理解を深めて隣にいるテクノフォビアな人たちに説明することが必要なんやろなあと思います。
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アンドロイドロボット研究の第1人者である石黒先生がご自身のロボット研究について語っている。
石黒先生のことは知っていたが、本を読んだのは初めて。
一言一言がかなり強烈だが、うなづける。
先生の考えが、途中でカギかっこでくくられてバーンと訴えかけてくる。
「人の気持ちを考える」という言葉を理解するためにロボット研究をしている、という。ロボット研究にのめりこめばのめりこむほど、ロボットではなく「人間」とはどのような存在なのかを考えずにはいられない、という。
ロボットの研究は哲学なのだ、という言葉にとても納得がいった。
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図書館でふと気になっで読んでみた。脳科学的なアンドロイドの有用性が述べられていて面白い。石黒先生的な人生や科学に対する哲学も興味深い。
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読み始めるまであの、イシグロイドやマツコロイドを作った石黒さんによる本だということに気付いていなかった。
さすが石黒さん、こんなこと考えながらロボットやアンドロイドを作っているんだなあ。少し前に読んだAIは心を持てるか、という本よりだいぶ分かりやすい。言ってることはわりとラディカルだけど。
石黒さんの思い描く社会が早く実現するといいな。楽しそうだ。
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著者は阪大の先生らしい。僕もオーケストラの方で阪大とは縁があるので勝手に親近感笑。たまたま友達に貸してもらった本だったのだけどめっちゃ面白かった。ロボット、アンドロイドをどのように作っていくかの紹介と同時に、アンドロイドがこれから果たすであろう社会的な役割、人間の心とは何か?という所まで話を広げていて刺激になった。シンギュラリティが来てアンドロイドが人間の能力を凌駕すると嫌悪感を感じるみたいだけど、「何となく嫌」ではなくて何故そう感じるのか、本当に嫌なことなのか?と理詰めでどんどん切り込んでいくスタイルはさすが研究者だと思った。タブーとされていてみんなの中で暗黙のうちに、曖昧に把握している世界にズバっと踏み込んでいける姿勢は真似したいなぁ。僕も肉体がもう一つあって、頭脳もついていけるならこんな研究してみたいなぁ...。
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著者がいう「ロボット作製とは人間とは何か、心とは何かを探求すること」という意味が良く分かりました。人は自分の外に「心、気持ち」を感じるんですね。二つの知覚の組み合わせで「わかった」という気分になるとのこと。ロボットに対する方が人間は素直になれる、という事実。人間が生み出した技術を外部化して突き詰めていったのがロボット。であれば人間とロボットとの境目はない。何故石黒さんが話題の人になっているか、理解できました。更に先を知りたくなりました。
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特に亡くなった人を墓ではなくアンドロイドにして遺すと言う話が面白かった。
確かに形式化した墓参りよりも亡くなった両親に自分の近況を報告しに行くような状況、そしてそれに生きていた時のように応えてくれる両親のアンドロイドという構図はとてもいいなと思ってしまった。
考えること、をやめない限り人間としての価値を残せるのは、間違いないと感じるし、今後も考えることのできる人間になりない。
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精巧なアンドロイドのトップクラスの研究者 石黒浩によるヒトとアンドロイドの違いについて
むしろ、違いはないのではないか?という哲学的な問いかけになっている
目次だけ読んでもある程度の内容は推測できる
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プロローグ
「人の気持ちを考える」
第1章 不気味なのに愛されるロボット──テレノイド
誰もが気味悪がるロボット
高齢者の話し相手として大人気
人間らしさと「不気味の谷」
落ち着きのない子が一瞬で静かに!
第2章 アンドロイド演劇
人間よりも人間らしい
アンドロイド演劇が映し出す「心」の正体
第3章 対話できるロボット──コミューとソータ
ロボットが家庭教師になる日
ロボットと赤ちゃんは同じ
第4章 美人すぎるアンドロイド──ジェミノイドF
生身の人間よりアンドロイドに夢中な男たち
ロボットが変える家族
第5章 名人芸を永久保存する──米朝アンドロイド
ロボットと宗教
ロボットが死生観を変える
第6章 人間より成績優秀な接客アンドロイド──ミナミ
ミナミの接客テクニック
第7章 マツコロイドが教えてくれたこと
マツコロイドにキスするとどうなったか
もう一人の自分
第8章 人はアンドロイドと生活できるか
ロボットは人間の敵なのか?
ロボットは当たり前の隣人になる
第9章 アンドロイド的人生論
「自分らしさ」など探すな
エピローグ
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世間の度肝を抜く斬新な発想で注目を集めてきた鬼才・石黒は、子どもの頃、「人の気持ち」がわからない子どもだったという。
大人になった今でもその正体がわからず、「人の気持ち」の謎を知りたいという思いから人工知能の研究、そしてアンドロイド開発・研究へと足を踏み入れた──。
アンドロイドが教えてくれる「人の気持ち」や「人間らしさ」の正体とは? 今まで常識と信じて疑わなかったことが次々と覆されていく様は鳥肌が立つほど面白く、またちょっと不気味でもある。
アンドロイドやロボットは、近い将来、必ずあなたの隣人となる。手塚治虫やSFが描いた未来はすぐそこまで来ている。最先端の場所に常に身を置く石黒浩の見ている未来をお見せしようではないか。
人間存在の本質に迫る興奮の知的アドベンチャー。これはもはや哲学だ!
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アンドロイドに心はあるか?という問いの実証として
実在するアンドロイドに対して、周囲の人がそれに心の存在を意識すれば心があるとみなしても良いという定義
チューリングテストの心バージョンということなんだろうけど
あまりにも暴論ではなかろうか?
この理屈で言えば、まったく動きもしないモノに対しても周囲の人が認めれば心があるという事になってしまう
宗教は正にこれなんだろうけど、やはり哲学的な問題になってしまうので、科学として扱うには「心」の定義が難しい
・ジェミノイド:見た目の人間らしさを追求したアン���ロイド
・テレノイド:人の個性を削ぎ落とし、人の存在を感じる最小限の要素を持ったロボットト
・ハグビー:テレノイドよりもさらに個性をそぎ落とし、最低限想像を喚起させるロボット。携帯電話をホルダに挿して、抱きしめながら通話ができるガジェット
人の存在を感じるためには、二つのモダリティ(知覚)があればいいらしい
二つのモダリティ(知覚)とは、例えば「声」と「触感」など
五感全てでわかっていなくても、二つの表現がつながった瞬間に「わかった」と、人は言うらしい
面白いアプローチとしては、人間をプログラミングするというところ
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「ロボットをプログラミングする」のではなく「人間をプログラミングする」ことが可能かを実験しているんです。具体的には、大学の学生を実験対象にして、授業に出席し論文を読み書きするといった学生生活を送るように逐一スマホから人間に指示を出しす実験を行ったのだそうです。その結果、プログラミングを導入した学生の方がそうでない学生に比べて効率良く勉強を進めることができたと記されています。
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これに近しい事は既に実用化されているなぁ
コンビニの仕組みもそうだし、マニュアル化できるような業務は既に人間はある種の単なるオブジェクトに過ぎないのかもしれない
ジェミノイドを利用した会議には人件費を払えないという主張に対する反論
人が出席する事の定義
評価されるべきは結果や成果であり、生身の身体が必要というのは何を盛って本人とするのか?
また、センサーは信用するのに、ロボットを信用しないのはおかしいという主張
当時とは違って今やテレワークなど、物理的に直接顔を合わせなくとも済む会議が増えている中
画像を共有せずに本人らしい声で出席した会議はもしかしたらフェイクの可能性もあるわけで
すべての責任はその人という取り決めがされているのであれば求められるのは成果というのは理解できる
となると、「本人」という属性が必要になるのは何なんですかね?
本人を模したAIが同様の仕事をこなす未来が容易に想像できるけど、その際にもまた議論される事になると思う
技術に対して信用をしない人達
「技術への偏見は時間と共に解消する」という言葉がしっくりくる
今や技術を利用せずに生きている人間がほぼいない
導入当初は嫌悪の要素があったかもしれない技術も普通に許容されているわけで
アンドロイドに対する嫌悪も社会に浸透していくに連れて解消していくというのも納得
アンドロイドの進歩に感情的な拒絶を示す人間に対する言葉
「人間はアンドロイドのスイッチを切ることができます」
しかし、アンドロイドのスイッチの切れない場合もあるのではなかろうか?
アンドロイドの運用がブラックボックス化していくのが容易に想像できる昨今
一部に問題があるからと言ってすべてのシステムを止めるわけにもいかない
また、システムが様々な方法で冗長化されている場合なんかも、スイッチを切りたくとも切れないケースが想像できる
そんな危うさはあるあもしれない
タイトルの問題として、「人間とはなにか?」という定義が必要になる
それこそ、人間っぽく振る舞うアンドロイドというのはいずれ作られるし
この本でもアンドロイドに心はあると感じる人もいる
しかし、そこにクオリアはあるのか?というのはどうしても検証できないのではなかろうか?
クオリアを全く持たない哲学的ゾンビが正にアンドロイドなのだとしても、それを私達は確認する術がない
やはり、「人間とはなにか?」という哲学的な問題に帰結してしまう気がする