投稿元:
レビューを見る
読みかけとなっていた本です、最後まで読みたいと思っておりますが、現在このような本に部屋が占領されてきており、苦渋の決断ながら処分することに至りました。近い将来、この本を読破できる機会が来ることを願っています。
2017.12.31作成
途中までですが気になったポイントです。
・信長に直接仕えて同時代を生きた大田牛一の「信長公記」では、義元がいたのは低地ではなく桶狭間山、信長は迂回ではなく正面攻撃である(p20)
・秀吉は、足軽の足が軍の移動の速さを決めるポイントであることを知っていた、足軽出身であるので(p36)
・賤ケ岳の戦いで秀吉が勝家に勝ったのは様々な要因があるが、その一つに秀吉軍の迅速な行動があった、52キロを5時間で移動している(p37)
・太閤記において、佐久間盛政の突出のせいにしているが、利家軍が勝手に離脱したので、佐久間軍が敵中に突出した形になり、本軍との連携ができなくなったので、個別に撃破された、これも情報操作に惑わされて今に至っている(p41)
・黒田如水は、関ケ原の戦い時において、多くの大名が留守部隊しか残していなかったとはいえ、島津以外の九州を制圧したのはすごい(p54)
・関東には、室町将軍家の派遣した、関東総督ともいうべき関東公方がいた、それを補佐する関東管領もいたが、関東公方が、古河・堀越公方に分かれて対立するようになり、関東管領上杉氏までが、山内・扇谷に分かれることになった(p57)
・モンゴル騎兵軍団がなぜ本物かといえば、最下級の兵士に至るまで馬に乗っていた、さらに10万人に対して、馬は30-50万頭いた、兵士一人が乗り換え用の馬を2,3頭連れていただろう(p85)
・戦国大名の動員できる兵のうち、武士(高級将校)は、ほんの1割程度、残りの9割は農民を徴兵した足軽である(p94)