投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
日本の近現代史を振り返ったとき、天皇は、伝統、宗教、土着、愛国心などを表象し、アメリカは、近代、合理主義、外来文化などの代名詞であったことがわかる。
しかし、両極端であるはずのこれら二つのキーワード―「日本的なものの象徴・天皇」と「帝国・アメリカ」は、複合的に絡み合いながら日本と東アジアの二〇世紀に関与し続けてきた。
時に、天皇こそ近代であり、アメリカこそ宗教であるという矛盾の中から、果たしてどのような歴史像が浮かび上がってくるのか?
二つの奇妙な力の場を拠点に、歴史的想像力の可能性を切り開く。
[ 目次 ]
序章 天皇とアメリカの二〇世紀(天皇とアメリカは均等ではない;転換期―そして帝国の終焉? ほか)
第1章 近代(天皇は近代的であり、アメリカは宗教的である;なぜ近代化のなかで、天皇と神道が結びついたか ほか)
第2章 現代(平和天皇の復元;消えたマッカーサー ほか)
第3章 現在(「民主主義のアメリカ」と「帝国のアメリカ」;日本のオバマは沖縄から? ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
難しかった…。面白くないのではなくて俺の読解力不足…。
アメリカは天皇(制)を利用し、日本は国体維持のためそれを受認した。悪いことでは決してない。
投稿元:
レビューを見る
例えば鶴見俊輔の「天皇百話」などで戦後の象徴天皇制の歩みをたどると、薄ぼんやりと見えてくるものがある。それをアメリカの影ということもできるし、アジアとの関係で言えば戦前の大東亜帝国の残影ということもできるだろう。丸山政男の「顕教・密教」の例えにならえば戦後の天皇制の顕教は「平和を祈る天皇」であり、密教こそまさに「アメリカの影としての天皇」であった。
本書は天皇とアメリカの表裏一体・不即不離ともいえる関係をこれ以上ないというほど明晰に語りきって余すところがない。論文ではおそらく筆が鈍る部分もあったかもしれない。対談という形式が生きたと思う。
印象に残ったフレーズを少し紹介する。
「アメリカは、アメリカによって支配された国のナショナリズムを認めるだけでなくて、意図的にその推進、育成をした唯一の帝国である。(テッサ)」
「新米的な権威主義政権が、今度は植民地主義の忘却を支えていく複雑な構図が見えます。(中略)日本はそれらの国々と、みずからが侵略した過去には正面から向き合わないまま、戦後の関係を結ぶことができた。(吉見)」
「日本からオバマのようなリーダーが登場するとしたなら、それはきっと沖縄からではないでしょうか。
(テッサ)」
投稿元:
レビューを見る
天皇は英語では昔はpopeだった。
「天皇」という名称自体、幕末に至るまでほぼ900年にわたって使われてはいなかった。「院」と呼ばれた。1840年に没した光格天皇において、初めて「天皇」号が復活。1925年、政府は過去の「院」をすべて「天皇」とすると決定。廃仏毀釈の際、全国の小さな神社を統廃合することが進められ、20万から12万に激減。国家にとって不都合な伝統はつぶされていった。
森有礼は、キリスト教の思想を浴びた影響で、神と個というキリスト教的関係を「天皇と臣民」という国家的な関係に置き換えていった。
マッカーサーは天皇をキリスト教にしたかったが、GHQ諜報局長エリオット・ソープに反対された。なぜなら、カトリックにするならプロテスタントから反対され、逆もまたしかりだから。