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西川美和さんの「名作はいつもアイマイ」がきっかけで、ほぼ三十数年ぶりに再読。
書かれている内容はほぼ記憶通り。
日本人の、主人公の、考えの根拠、良心のありどころ、信仰のありどころ、判断基準のありどころの不確かさ、を描き出す、遠藤周作さんの生涯の主題が、描き出された代表作だと思っていた。
しかし、今回読んだ際、医師が捕虜を生体実験し、殺害した、という題材に、若いころ感じた違和感をほぼ感じなかったことに、その自分の変化に少し違和感を感じた。
福岡で捕虜となった米兵。ボタン一つで、当時日本が守ることができなかった上空から、非戦闘員である人々を、火だるまにして殺戮することを意図してやってきて、実際に殺戮に参加した米兵を、人体実験で殺して一体何が悪いのか、そこのところがよく分からなかった。
正直、主人公である人体実験に関わった病院関係者はなんら悩む必要はないのではないか、と感じてしまった。
この新装版の解説を「神様のカルテ」で著名な夏川草介さんが書いている。
「かつて本書が社会に与えた衝撃の本態は、『生体解剖という『絶対的な悪』に対してすら、明確な判断基準を持ちえない日本人』という構図があって初めて成り立つものであった。だが、読者がその絶対悪を認識できない時、本書はその威力を一挙に失うことになる。
戦争ではたくさんの人間が理不尽に殺されていく。本書においても少なからず空襲の場面が描かれる。その空襲による殺戮と生体解剖による殺害とをー本来まったく異質であるはずのこの二つの行為をー戦争という一点において単純化し、平板化して解釈してしまえば、(中略)残虐な戦争の一風景に埋没してしまうことになる。
言い換えれば、かつて遠藤氏が、良心(神)を持たない日本人を描くことで衝撃を与えた本書は、読み手の多くが良心(神)を持たなくなった時、まるでありふれた戦時の一風景を描くような平易な印象すら与えてしまうのである。
(中略)
ここに、かつて遠藤氏が警鐘を鳴らした『良心(神)を持たない日本人』の行き着く『精神的悲惨』を見る思いがするのである。」
中高生の頃感じたような気がする衝撃を、今感じなくなっていること。
これについて、もう少し考える必要があるような気もした。
しかし。
空襲と人体実験が「本来まったく異質であるはず」という指摘は、やはり独善的で、良心(神)を持たないのは、日本人も、そうでない人も変わりないが、良心(神)を持たないことに不気味さを感じる、ということであれば、それが本書の切り口なのかもしれない。
この感想を書いているうちに、そんな気がしてきた。
本書においては、遠藤周作さんは、日本人の特質を描くのではなく、人間全般を描いているのかもしれない。
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沈黙に続き、これも言葉を失う
一気に読んでしまった
やっていることは恐ろしいことで、当然人を殺したこともこのような事態に巻き込まれたこともない。
それでも、すべての関わる人の考え方、決断が理解できてしまう。俺もその人だったらそうするかも、の連続。
そこに戸田ではないが、恐怖を感じる。
“俺たちはいつまでも同じことやろか”
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海という表現やポプラの樹、おばはんという名前を持たない患者などの隠喩が散りばめられている。解説では日本人にとっての良心や神をテーマとした作品であるとしているが、隠喩であるとか二章では視点が変わり群像劇のような描写となるなどの細かな表現の工夫も興味深い。
まだ成長しているのに掘り起こされようとしているポプラの樹は患者や勝呂の心のメタファーと読めるし、勝呂にとってのおばはんの存在は、海に対する防波堤のような役割を果たしていたようにも読める。そもそも本書での海とはどういうものなのか、戦時中ではなくとも海は我々のすぐ近くにもあるのかもしれないと、示唆的であることが本書が長く読まれている理由なのではないだろうか。
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実在の米軍捕虜生体解剖事件。
これは読者である僕を含め、誰しもが起こしうるもの。
「やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ」
これからどう生きるべきか。
昭和33年の小説から学びました。
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重いテーマだと聞いて構えていたけれど、意外と読みやすく一気に読めた。「人間失格」で共感した人たちは、この作品を読んでも共感するのだろうか。
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戦後、日本はアメリカの捕虜を使い、非人道的な人体実験を実施した。その内容は非常に残酷で、グロテスクで理解に苦しむものだった。しかも実験を行うのは軍人ではなく医師。実験を行う側の者に選ばれ、実際に実験を行った医師のリアルな葛藤を描いている。
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ひとまず読み終えて言葉が出ません。
ある程度覚悟して読み始めたけれど、それでも重くのしかかってきます。
コロナ禍で命の倫理について考えさせられる機会が増えたのもあり、間接的に、でも直接刺さってくるような。
それぞれの背景からひとつのことを見ていく感じ。
特に戸田には太宰治の人間失格に似たエッセンスを感じました。読み比べてみたいな。
登場人物の心情や考えがわりと明確に記されているなという印象ですが、タイトルの意味や繋がりを考えた途端に深く連れて行かれるような作品。
これからも何度も読み返すことになりそうです。
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新装版だけど、初読みはバブルの頃だったような気がする。それから少しおいて、奥田瑛二主演で映画がでたんじゃなかったっけ。曖昧だけど。
まだ私は若くて、世の中のことを少しずつ知りだした頃なので、これが事実だとは俄には信じられなかった。ショックだった。
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70年程前に出版されたとは思えない。現代の日本人が皆当時の人間と感情を共有しながら読み進められると思う。
題材となっている九州大学病院の事件こそ今では考えられない残酷で過激な内容だが、その事件を通し描かれている、多くの信仰を持たない日本人にとっての良心とは何か、これは今の時期こそ特に考えさせられるテーマだった。
3人の視点から捕虜を生きたまま実験台に乗せることについての見方が描かれていたが、一番このことについて真摯に向き合ったのは、勝呂でもなく看護師でもなく戸田だろうと感じた。
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「海と毒薬」というタイトルと遠藤周作の名前に期待を込めて手に取りました。文化や常識は人が後悔しないように発達して人々を教育してきたけど、「誰からも社会からも罰せられない」と言われた時、人の本質は昔から変わらない。とても動物的だなぁ、と改めてきづく。
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一回読んだことがあったけど、時間があったのでもう一度読んでみました。
医者は人を救うこともできるし、極端なことを言えば殺すことだってできる。それも合法的に。でもわざわざ人を殺そうとはしない。いや、本来ならできない。それはなぜか。もちろん金銭や地位といった外的要因もあると思うが、究極的には良心があるからだと思う。
しかし、その良心という最大のストッパーさえも軽々しく乗り越えてしまう、「戦争」というものの怖さはそこにあるのかもしれない。神風特攻隊、集団自決、、戦争は単純な人の命だけではなく、人の良心さえも簡単にひっくり返してしまう。
そして戦争が終わったとしても、人を殺したという事実は決してリセットされるわけではない。それを全て背負って生きていかなければいけない。冒頭のガソリンスタンドの店主、洋服屋の店主、作中では描かれなかったが、彼らは何を感じ、そしてそれにどう折り合いをつけたのか。描かれていない箇所も気になるところである。
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善良で良心的で正義を持ってる人でも周りに流される事がある。
それは仕方がないことだと思う。
私は強くないから、正しさを最後まで貫くことは出来ないことが多い。
場に流されるのは自分を守るため。
けれど勝呂は流されたことによってとんでもないことをしてしまった。(してはないか?)
やらない後悔よりやる後悔
とかいう言葉を考えさせられました。
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何が罪なのか何が償いなのか、自分に委ねられている
戸田にも、心のどこかで勝呂のように純粋に苦しみたい思いがありそう
罪を罪と理性的に判断する力はありながらも、罪に対して一瞬で言い訳をする癖がついてる
神がない、何が罪なのかは良心が決める
悩んでる話を「聞いたほうが良いだろうか、そっとしておいたほうがいいだろうか」と悩み、そっとしておいた人
「こういうのはほっておいたほうがいいもの」と放置した人
結果は同じ
前者はその後も悩むでしょう。それでよかったのか
後者はそれが当たり前になり、悩んでいる人がいたことも忘れるでしょう
一つ一つの選択の場面で揺れること。
答えはいつも一つじゃない。
しなやかな良心を持っていたい
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戦時下、アメリカ人捕虜の人体実験に意図せず巻き込まれた若手医師の戸田と勝呂。
良心の呵責に苛まれる勝呂と良心に少しの痛みも感じないことに悩む戸田。戸田は、自身が痛みを感じるのは自身の良心に基づくものではなく、ことが露呈し社会的に罰せられることだと知っている。自身の価値基準が内ではなく外にあることを恥じる戸田は、勝呂をバカにしつつも妬ましく思う。本作の主人公は勝呂ではなく戸田だ。
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タイトルと背表紙の解説で気になり、手に取りました。
医学生には「高瀬舟」と並んで読むことを推奨される本だとか。高瀬舟は確か授業で読んだ覚えがありますが、こちらは初めて読みます。
他の方も言っているのですが、「解説」を読むとより一層、このお話を深く見つめることができると感じました。
どちらかと言うと、本編を読んでから解説を読んだ方がいいかな……?
戦時中に九州大学附属病院で実際に起こった、「米軍捕虜を麻酔下で解剖する」という事件をもとにフィクションを織り交ぜて構成されたお話です。
キーとなる登場人物は、「勝呂」「戸田」「看護師」「ヒルダ」でしょうか。それぞれ対照的な人物として描かれており、この三人を対比させながら読むと理解が進むと思います。
解説の文中で夏川氏が述べられているところを紹介すると、これは「神(良心)を持たない日本人」が主題で、作中に出てくる「ヒルダ」と「それ以外」という人物の分け方ができます。それから、個人的には「医師(看護婦)たち」「病人・捕虜:病院側に命を握られた弱者」「軍人」という分類の仕方もできると思います。
解説にも記載がありましたが、本作は「難解だから」という理由で敬遠されているきらいがあるようです。
考えることなしに生きていたら、いつか自分の犯した間違いが取り返しのつかないことだったと気付いたとき、どんな思いがするのでしょうか。
私は出来る限り自分の脳で考えながら、これからも生きていきたいと強く感じました。
また、これは覚書にもなるのですが、作中の「太陽光」「ポプラの木」「海」それから題名である「海と毒薬」についても、もう少し掘り下げて考えてみたいなと思いました。
*****以下、少しネタバレを交えた考察です******************
「医師」「病人・捕虜」「軍人」という分け方についてもう少し解説すると、医師たちは病院の中で権力闘争をしているわけですが、それを置いておくとすれば、病院内では何でも可能な「全能者」とも見れると考えました。対して「病人・捕虜」には何の自由もない。医師が決定したことを甘んじて受け入れるしかない。それがただ自分を苦しめた挙句、殺すためだけだったとしても、彼らには選択肢がない。かたや「軍人」は病院内で誰に干渉されることもなく、違う意味で好き放題している存在で、生体解剖を見世物のように見物したり、果ては捕虜の肝を食べてみたい、という悪乗りまで展開する始末。
しかし、「良心」という観点から彼らをみたとき、その構造は全く違うものに変わってきます。
生体解剖をしているときの軍人の動揺した素振り。あんなに敵国で兵隊を殺しているはずの軍人たちが顔を真っ青にして震えている様は、やはりこの“行為”が異常であることを物語っているのではないでしょうか。
医師たちの中でも、勝呂と戸川の反応は対照的でした。「良心の呵責を得られない自分の奇妙さ」に違和感を覚えていた戸川が平気で生体解剖に加わるのに対し、勝呂は実際に生体解剖が眼の前で行われると知って初めて、「自分にはできない」と拒絶する。
これは心優しい、良心をもった青年として描かれているわけではなく、
――悪いことだと知っていても断り切れずに片棒を担ぎ、果ては自分は悪いことをしていない、自分は直接には手を下していない――
と考える(大半の)日本人を描いています。
一方で看護師上田はヒルダや大場看護部長に対しての「恨み・嫉妬」を心に溜め、それの復讐のためだけに生体解剖に加担している。この女性の心の動きようは、作中の男性医師や軍人たちとは全く異なっている。単なる私情。自分が男性と結びつくことを定めによって拒否された女性の苦しみからくる復讐が、そこに詰まっています。
作中で感じたのはそれ以外に、ヒルダを見る上田の視点と彼女に下す評価です。西洋人の女性は否応なしに目立つものですが、彼女の一本芯の通った性格は、病院内の誰にも理解されていないようです。それどころか見た目で「男みたいに」大きい背丈や、歩く姿などを奇妙なものを見る眼で見つめている描写がいくつかあります。
「死ぬことが決まっても、殺す権利はだれにもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」(p118)と叱責されたときの上田も、その時に考えていたことは自分の過ちについてではなく、当時自分たちが使えなかった石鹸の香りがヒルダから漂うことや、ヒルダの腕に生えた金色の体毛、石鹸によって荒れたガサガサの肌についてのことでした。
「自分の罪」を意識することから目を背け、自分と相手との違いに嫌悪感を剥き出しにして、果てはその相手が苦しめば良いのにと願う。それはこの女性の屈折した人間観を表しています。
この物語を通して、私は決してこれは過去の話ではないなと感じています。確かにこの話は戦時中の生体解剖についての本ですが、現代でもこの話の登場人物と同じ精神構造が、(そうとは知らないうちに)日本人には脈々と語り継がれている気がしてならないのです。
確かめもせずに誰かを非難したり、損得勘定だけで付き合う相手をころころ変えて自分さえよければいいと考えている人たち。
自分の正義感だけを振りかざして、それによって傷つく人たちがいることを微塵も感じ取れない人。
自分と他者との間の「違い」や「距離」に鈍感で、それらを意識できない人たちは「友達だから」「同性だから」という理由で相手が傷ついているのも感じずにプライベートなことを次々に質問してみたり、自分の価値観とは違う人を総攻撃したりを繰り返す人たち……。
一つの基準(たとえば神仏や信条など)があれば良い、というものではないでしょうが、「自分が直接手を下していないから無罪」と言えるのでしょうか。
いじめ問題などでも往々にしてこのようなことは話されていますが、誰も止めようとしないことに否を唱えない限り、何も変わっていかないように思います。
この物語の作中でも、止めようとする者はだれ一人いませんでした。もし仮にヒルダが知っていたとしたら、全力で止めようとしたかもしれません。結果としてヒルダはこのことを知���ないままになってしまいましたが、知っていたら実際に解剖が行われたとしても、彼女は必ず止めに入る人間なのだろうなと思います。
今、かつてない疫病で世界中が翻弄されている中、この作中のように流れに身を任せて生きる人はどのくらいいるのでしょうか。
そして自分はどうあるべきなのか。
様々なことに想いを巡らせた作品でした。