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日本の経済と社会を覆う閉塞感の正体。相次ぐ食品企業の「不祥事」、メディアスクラム、年金記録「改ざん」問題、裁判員制度…コンプライアンス問題の第一人者が、あらゆる分野の問題に斬り込み再生への処方箋を示す。(「BOOK」データベースより)
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書評は
http://www.algorism.jp/review/20090315212903.html
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「検察の正義」の著者でもある、
元東京地検特捜部検事の郷原信郎さんの本。
最近の経済事件を題材に日本の司法が経済に弱い点と
「遵守」する事が目的化する弊害を指摘。
村上ファンド事件やブルドックの買収防衛策の事件で、
司法の「起きることを想定してそれに対して規制をかける」というスタンスが、最早現状に即していない、かつそれが経済を阻害するにも関わらず、遵守することが目的になっている事を丁寧に解説。
経済と司法用語という一見とっつきにくいジャンルであるにも関わらず、わかりやすい読ませ方だと感じた。
確かに僕がバイトしてた法律事務所の先生も、経済事件は弁護士だけに扱わせるべきじゃないみたいなこと言ってた事を思い出した。
「正しさ」の難しさを簡単伝えられるのは凄いと思う。
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食の安全の問題がまたとりあげられるようになったのでこの本を手に取ってみた。
世間では食中毒事件と実際に食の安全を脅かす出来事が起きた。その被害が起きてしまったという点ではこの本に書かれている食の問題とは違うかもしれない。
ただこの本にも書かれている重要なこととは本当にそれが消費者にとって利益になっているのか?ということである。隠蔽=悪、という図式がなりたっていては真実は見えてこない。公にしなかったのはそれが企業にとって利益が生じ、消費者にとって不利益が生じるからだったのだろうか。安全に関する情報をすべて提示していればそれは消費者にとって大きな誤解を生じさせ得ない。
とかくそれが本当に消費者の利益になっているのか?この視点を忘れてはいけない。
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日本社会に蔓延る「法令遵守」そのものの自己目的化、絶対化の影響について論じた本。当書では不二家など食品会社の不祥事、耐震偽装、ライブドア事件などの経済司法、裁判員制度、社会保険庁の「宙に浮いた年金記録」、マスメディアの報道問題など多岐に渡ってこの問題を扱っている。
全体的に言えるのは、「法令違反だから」という理由で猛烈にバッシングしておきながら、真相が明らかになる頃には皆無関心を決め込む、バッシングのみに関心が集中して本来の問題が忘れられるという傾向が日本に見られることである。
それはマンションの耐震偽装については、1981年の建築基準法改正前に立てられた物件の中には、偽装物件より耐震性の低い物件が多くあったのに偽装叩きのみが盛り上がったことが例として挙げられる。
また、裁判員制度は官・民(日弁連)の間でろくに議論されないうちに「司法に『市民感覚』を採り入れないより採り入れた方がいい」という理由で導入された。このように著者は思考停止的に事件が国民に受容されている問題点を的確に抉り出す。
最も根深いと思ったのはマスメディアの問題。納豆ダイエット捏造による関西テレビの「あるある大事典」事件、みのもんた氏が不二家の単なる形式的会社基準違反(それでも社会的悪影響は大きいが)を執拗に(TBSでは1か月間、1日平均15分かけてこの事件を取り上げる)バッシングして経営困難に陥らせた「朝ズバッ」事件などが挙げられている。
著者はこうした事件が起こる根底に、単なる放送事業の過剰な営利追求姿勢の他にも、マスメディアが自らの虚偽を認めることが隠蔽するままよりも評価されず、不利益になることを指摘する。特に「あるある」の場合は捏造そのものは追及されたのですが、それだけという感じが以前からしたので、なるほどと思った。
このように「法令遵守」そのものが水戸黄門の印籠の如く扱われる日本の風潮について、著者は日本人にとって法令は「伝家の宝刀」であると説明(アメリカ人にとっての法令は「文化包丁」)しています。日本では法令が非日常的であり、社会の実態と法令の間にズレが生じているにも関わらず、単なる崇拝の対象として扱われる(アメリカでは、法令は日常的であり、社会的要請に答えるための道具、手段)。
この状態から脱却するためには、法令の趣旨、目的、基本的解釈を各々が自分の頭で理解し、「印籠」に頭を上げて直視することが求められる。そのようにして法令を媒介として、上命下服ではなくルールとして互いに尊重する関係を築いていくべきであることを著者は主張する。
単にルールに従うことを有り難がり、はみ出し者を親の仇の如くバッシングし、後は野となれ山となれという態度を決め込む日本社会の側面を炙り出した素晴らしい一冊だと思う。
ルールに従うことでマゾヒズム、はみ出し者を叩くことでサディズムを満たしているということだろうか。マスメディアの報道のやり方や、ネット上でのニュースの反応を見ていると、本書の内容に思い当たる節は枚挙に暇がない。
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耐震偽装、賞味期限といった世間を賑わせた社会問題から、「法令遵守」の皮をかぶった「思考停止」に対する警鐘を鳴らす。実例が豊富でわかりやすい。思考停止は法律に限らず、学校や企業などどこでも起こりうることだと私は思う。問題なのは、「思考停止」自体ではなく、「思考停止」を自覚できているかということな気がする。
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法令遵守の御旗の下で繰り返されるマスコミのバッシング、マスコミ自体の虚偽報道、その他。
年金改ざんの問題の実態をきくと、じゃあどうすればいいのか、という気になる。役人が良心に基づき良かれと思ってやっていることなので、目をつぶるべきなのか。その前提で着服、使い込みをしたのがそもそものきっかけではなかったのか。
賢者による善政が敷かれたのは、奴隷によって市民が労働から解放されていた古代ギリシャぐらいだろう。不信感の充満した現在の日本で、ガス抜きバッシングが頻発するのは当然とも思える。
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「遵守」に蝕まれる日本、という副題の通り、形式的な法令遵守に囚われすぎて、本質を見誤っているのではないか、という内容。扱われている話題としては、不二家、伊藤ハムの偽装事件、耐震強度偽装事件、村上ファンド、ライブドア事件、裁判員制度、年金記録改ざん問題がある。日本の法律制度の根本思想として、「普通の人はバカか幼稚だ」ということがあるが、これはこれでうまく働いていたのだという。世の中の変化に伴い、法が実態と合わなくなることに対してどう対処すべきか。法を柔軟に変更しようというのが米国のスタイルで、日本は慣行や話し合いという形で問題解決を行なってきた。刑事事件のような特殊な事件、あるいは民事裁判に持ち込まれるような普通の人があまり起こさない事件、社会の周辺部分のみが法の対象となってきた。が、近年では、法令遵守の名のもとに、社会の中央部分にも法が入り込んできたために、閉塞感が強まっているのだという。全く卓見で、著者のいう通りだと思うが、これは常識がある人にだけ通用する理論なのかもしれない。一部の非常識な人たちや確信犯的に利益を追求する人たちが、社会の中心付近で、プレゼンスを増していることこそが、法の規制が日常に及ばざるをえなくなった原因ではないかとも思う。色々と考えさせられるところの多い本ではある。
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メディアが報じていることに騙されず、問題の本質をつかみ自分でしっかり考えよう、というのが本の趣旨。しかし、筆者は専門家であり、普通の人では入手できな情報を持っている。知る由がないことを判断することはできない。
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情報を見極める目を養う必要がある。
iPS細胞の臨床応用問題の新聞報道もそうであるが、
報道されると、ありえないことも、真実だと思わされてしまう。
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法令を守ることだけを主眼としてしまって、その奥にある真の目的を守れなくなっている現状を、元検事の視点から解き明かした本。
具体例としては、食料品の偽装、建築の構造計算、経済司法の問題、裁判員制度の問題、厚生年金の問題、マスメディアの問題点を挙げている。
思考停止になることの問題点を考えるならば、ぜひ一読すべき本だと思う。
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一部の情報だけですべてを知った気になり、
批判や非難をしてしまう事によって
どれだけの損失がうまれるのか。
情報に踊らされちゃいけないな。
今、みんな読んだ方がいいよ。うん。
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「思考停止社会」。特に、現代日本の問題点を象徴する言葉だと思う。
思考停止に陥っていることさえ認識できず、ただただ一方的に流される情報に受身。本質を隠す隠蔽体質、それに対して懐疑心を持続するパワーに欠け、見抜く手段さえ麻痺してしまった国民。
法律も時代に即応できるような組織体制ではなく、事なかれ主義。踏襲社会が歪みを生む悪循環システムのようだ。
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読み終わって、タイトル通りだな、と実感した。膝も何回も打った。そんな当然のことも分からなかった、自身の不勉強と意識の欠如を恥じる。
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単に揚げ足を取るだけのようなことをもって「コンプライアンス」を論じる風潮に対して明確に否定しています。
思考停止とは非常に的を得た表現だと思います。
なぜ法令が守れないのか、守っていない方を単なる法令違反なのに重罪犯罪者の如く一方的な論調で「断罪」していくさま、またその行動を批判することになく受け入れる姿はまさに「思考停止」だと思います。