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紙の本
穿ちすぎ?
2012/06/13 18:41
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
帯には、「丸山眞男」という思想の本質とあるが、彼の思想の本質とはかけ離れた枝葉末節に拘り、持論を述べているだけのように感じた。
読むに値する点は丸山眞男の思想の限界を述べていることだが、残念ながらこれだけのページが必要だったとは思われない。
日本では、知識人の「わからせようとする意志のなさ」と民衆の「わかろうとしなささ」の両方が進行しているため、高学歴化が進んでいるにもかかわらず、文化国家からは遠ざかっているように思う。
そのため、現在では『日本の思想』も『「文明論の概略」を読む』も大学生にさえ難しくなっている。だれかが、【『「文明論の概略」を読む』を読む】などという本を書く必要がでてきている。
紙の本
この「目線」の違いこそが、著者の丸山批判の主眼であると僕は理解した
2011/09/24 21:45
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くにたち蟄居日記 - この投稿者のレビュー一覧を見る
二回続けて読んだ。
著者は本書では丸山をかなり批判的に語っているが、そもそもの出発点では著者と丸山は共通する部分が多かったと僕は考える。両者ともに西欧近代思想に強く影響を受け、かつそれを肯定的に捉えるところでは一致していると読んだ。
但し、そこから先である。
長谷川という方は大学院を出た後、大学には残らず、学習塾を開いて生計を立てつつ、哲学の勉強を続けるという道を取った。学生運動等を経てきた結果、在野の哲学者という道を選ばれたのかもしれない。学習塾も単なる学習だけではなく、色々な催し物も行う等、非常にユニークなものであると聞く。
その経歴は、物理学者の山本義隆に重なるものがあるが、誤解を恐れずに言うと 敢えてアカデミズムからドロップアウトしたということだと思う。
一方本書で語られる丸山真男は、アカデミズムに留まり、そこから出てこなかったということになる。長谷川は繰り返し丸山が最後まで大衆との距離感を取り続けた点を指摘している。いまふうに言うと「上から目線」ということか。この「目線」の違いこそが、著者の丸山批判の主眼であると僕は理解した。スタート地点が近かったものの、社会に対するスタンスの違いが全く違うということが、長谷川と丸山の関係の最大の違いとなっているはずだ。
本書にて著者が一番やりたかったことは、丸山のスタンスを批判的に捉えることで、自身のスタンスを再確認するという作業ではなかったのだろうか。それが最後の読後感となった。
紙の本
2001/07/08朝刊
2001/07/12 18:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦後民主主義のあり方に多大な影響力を持った政治学者を平明な言葉で分析する。大学の哲学研究室を去り、学習塾を営みながらヘーゲルの翻訳に取り組んだ著者は、知的社会に生きた丸山と大衆との間にある距離に着目し、その言説を批判的に検証する。数ある丸山論の中でも視点がユニーク。
(C) 日本経済新聞社 1997-2001
紙の本
〈自由で、自主的で、自立した個人〉を探す旅
2001/07/06 13:55
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:小田中直樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
正直に告白しよう、僕は丸山真男さんが好きだ。これって、今じゃ、博多のラーメン屋で札幌味噌ラーメンを頼むのと同じ位恥ずかしいことらしい。それから、僕は長谷川宏さんも好きだ。哲学の素人なのに、長谷川さんが訳したヘーゲル『精神現象学』を買ったことだってある(途中で挫折したので、これもやっぱり恥ずかしい)。〈その〉長谷川さんが〈あの〉丸山さんを読解いた本が出た。期待度大でさっそく読むしかない。
丸山さんは、西洋をモデルにしながら福沢諭吉や本居宣長を読解いた人だ。だから、この本は〈ある人を読解いた人を読解く〉って複雑な構造になってる。僕なりに整理してみると、多分こんな感じだ。まず、縦軸に〈西洋〉と〈日本〉、横軸に〈大衆〉と〈エリート〉をとる。すると丸山さんは〈西洋、エリート〉、普通の人々は〈日本、大衆〉になる。この距離は大きい。じゃ丸山さんはどうしたか。今度は縦軸に〈近づく〉と〈離れる〉、横軸に〈放っとく〉と〈関わる〉をとる。ふつう丸山さんは〈近づく、関わる〉、つまり〈この距離を埋めるために活動した〉っていわれてる。それは、普通の人々を〈あるべき〉存在、つまり「自由で、自主的で、自立した個人」(七四ページ)にするためだった。でも、丸山さんの活動は失敗した。なぜか。長谷川さんによると、実は丸山さんには〈離れる、関わる〉って側面もあった。丸山さんの活動は〈エリートが大衆を啓蒙する〉っていう、エリートと大衆の距離を前提にしてたんだ。これじゃ丸山さんの声は届かない。
この本の丸山像は、実はそれほど目新しいものじゃない。これまでも丸山さんは〈西洋かぶれだ〉とか〈エリート主義だ〉とか〈ナショナリストだ〉とか批判されてきたし、〈「自由で、自主的で、自立した個人」は大切だ〉って弁護されてきた。この本が独自なのはその先、つまり「自由で、自主的で、自立した個人」を作ろうって志を丸山さんと共有し、でも丸山さんの限界と失敗を見据えた上で、〈じゃどうすればいいか〉を考えた点にある。そして、長谷川さんが行着くのは、なんと「ある種のユーモア感覚」(二二九ページ)なのだ(やられた)。丸山さんの失敗を繰返さないためには、「思想と表現を民衆の生活に近づける」(二一四ページ)ことが必要だ。「価値の基本」は「人びとの普通の暮らし」(二二五ページ)なんだから。こんな長谷川さんの処方箋は説得力がある。それは、学習塾の経営と哲学の研究という二足のわらじを三〇年以上もはき、「生活と哲学とのあいだを行ったり来たり」(二一五ページ)してきた経験に裏打ちされてるからだろう。
でも、僕には違和感もある。二つ挙げとこう。第一、長谷川さんは、丸山さんは「知的社会と民衆の生活の切断……に十分自覚的だったともいえない」(三九ページ)っていう。この点は長谷川さんの議論の土台だし、僕も〈そうだろう〉って思う。〈だから丸山さんの活動は失敗した〉し、〈だから別の方法が必要だ〉し、〈だから普通の暮らしが大切だ〉ってわけだ。でも、よく見ると、この点はほとんど長谷川さんの推測にもとづいてる。僕はそれが不満だ。なぜ敗戦直後に丸山さんが「広い反響」(四八ページ)を呼んだか、これじゃわかんないし。第二、〈啓蒙〉に傾いた丸山さんを批判するためか、長谷川さんは逆に〈近づく、放っとく〉に接近してる感じがする。つまり〈大衆は放っといてもエリートに近づいてくる〉って立場だ。でも、本当にそうだろうか。もちろん長谷川さんもわかってる。だから〈「行ったり来たり」が大切〉っていってるんだ。でも、エリートと大衆(思想や表現と生活)の往復運動の〈出発点〉がどこにあるか、結局この本は語ってない。長谷川さんの実践をもっと教えてくれたら、ヒントがみえたかもしれないけど。[小田中直樹]
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