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熱烈な絶賛評をいくつも目にしたが、わたしはちょっと…。どうしても一人称の語りに違和感がぬぐえず、最後まで気持ちがのらなかった。その語り口を評価する声も多いようだが、ノンフィクションとしてどうなのか。
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一流のアスリートがなにを考えているか知ることができる本
ただ過激な言動が興味本位で綴られているわけではない
アスリートのなんと知的なことか
一流
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懐かしかった 高校の陸上部監督を思い出した。 やりが私の目の前に後ろから掠めて落ちた、いま思い出しても気持ち悪くなる想いでと共に
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本当にやり投げに命を賭けてる。練習が過酷すぎる。毎日限界に挑んでいる。やり投げで良い記録が出せたら体なんてどうなってもいい。誰になんて言われても気にならない。味方なんていらない。そんな感じ。本を読むとたいていその本に出てきたことをやってみたくなるけど、これは全くならなかった。なんかもう、一線を超えている。やり投げを引退した後パチプロになったというのも面白い。
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筆者が溝口氏から話を聴くこと・会話すること20年近く。
中間時点での書籍も出ているが、集大成として、本人が執筆している形態を採ることが出来るまでに至った著作。
暫く小説ばかり読んでいたらノンフィクションを読みたくなったので手にしてみたが、思った以上の迫力。
小説以上に想像を絶する現実を、自らの意志で生きて来た、その内容には圧倒される。
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1人称で語られる自伝的ルポルタージュ。タイトルに無頼とあるが、頼っていたのは自分自身だったというメッセージがズドンと伝わってくる。
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陸上競技 やり投げ界のレジェンド、溝口和洋の競技人生を綴ったノンフィクション。
1989年、アメリカ、西海岸サンノゼ、幻の世界記録を出した日本人がいた。その記録は日本記録となり、未だ破られてはいない。
独自の投法、常軌を逸したトレーニング、破天荒な性格、酒は飲む、タバコは吸う、試合の朝まで女を抱く、記者へ暴力は振るう•••等の多くのエピソードを持つ伝説の無頼派アスリートは、その競技人生で何を考えていたのか?
マスコミ嫌い故に語られることのなかった心情を、作者は18年にも及ぶ取材によって、一人称ノンフィクションに仕上げた。
屈託がなく、ストイックで強烈な目的意識を持つ人間像が描かれている。
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30年以上もやり投げの日本記録保持者である溝口についてのドキュメント。とにかくすごい。圧倒されたというか、呆然としてブログを書いた。http://bullcat.cocolog-nifty.com/takaspo/2019/11/post-ef9eb8.html
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自己ベストとは、己の本当の意味での限界のことである
海外にでると必ずマクドナルドを探すようにしていた。これだとおじはそう変わらないからだ。お腹をこわすリスクも減らせる。海外遠征のときは贅沢を言っていられない。旨い飯を食うために来たのではないのだ。ここには、自分の一生を賭けて闘うために来たのだ。
WGPシリーズ 第一戦 サンノゼ 87.68m 世界新は再計測で87.60
「やり投げ屋」は、どこへ行こうが、どんな条件でも投げなければならない。そしてその記録は、受け止めなければならない
連戦が続くWGPの場合、試合が終わったからといって、その日の練習を休むわけにはいかない
日本記録なんか、どうでもいい。記録には2つしかない。世界記録と自己ベストだ。
日本記録など、外国ではだれも知らない
DNガラン戦 わたしのやりだけ届かなかった。私はソウルで一度、終わった男なのだ。人のせいにしたくもないし、やりのせいにしたくない。すべて自分の責任だ。
とはいえ、投げるやりがなくては試合にならない。仕方がないので、どこの国の選手だったか、日本語で「ちっと貸してくれんか」と声を掛けて、やりを借りることにした。みな2,3本のやりを持ち込んでいるのだから、一本くらい借りたってどうってことはない
こういうとき、人は「運が良い」と言うかもしれない。しかし、運も結局は、そのトウニンが引き寄せているのだ
世界記録はもちろん最大の目標ではあった。しかしそれ以上に、私はそこに至る過程を大事にhしたかった
それもこれも、誰より膨大なトレーニング量と、世界成功の技術を追究している自信からくるのだ
ただ己を向き合い、自己ベストを狙って投げるだけだ。そうすれば勝利は向こうからやってくるはずだ
精神面の才能とは、やる気があるとか、そんな基本的な話でない。スポーツ選手にも、考える感性やセンスと言ったものが必要となる。それは簡単にいえば、「自分で考える力」があるかどうか、その考える方向があっているのか、とうことだ。
私についてはもう、多くのひとが私の存在を忘れているようだ。私はそれで良いと思っている。一投にすべてを賭け、それにおおむね勝つことができたのだから。私には堂々と誇れる過程と結果がある。だから人々から忘れられても、私はなんとも思わない
あとがき
しかし、私は思った。忘れらたと思っているのは、実はあなただけだ。陸上関係者は今もまだ、あなたの鮮烈な投擲を覚えている。忘れようとしても、忘れられないのだ。今年のインターハイがちょっとした騒ぎになったのは、それを象徴しているのではないか。あの、鮮烈な、フォーム。誰よりも遠く飛んだやり。私もまた「溝口のやり」をわすれられない一人だった。
彼の原動力であった「馬鹿にされたら絶対に忘れない蛇のような執念」だろう
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新年一冊目。
こちらの本、どなたかが薦められていた本であったが、全く忘れてしまっていて、ちょうど図書館で予約できたので、軽い気持ちで読んでみたが、思わぬ深さにたじろぐ。
「槍投げ」という競技は、この本を読まなければ、おそらく人生で関わることはなかっただろう。しかし、槍投げという競技を通じて語られる、溝口さんのトップアスリートの流儀は、どの競技、いや人生において通じるものがあると感じた。
特に、溝口さんは、徹底的に「現実主義者」であり、感覚的な身体の動きを、言葉で表現できるという、文学的な才能も持ち合わせているように思えた。
トップアスリートの繊細な感覚に、言葉が加わると、力強く刺さる。イチローさんや武井壮さんが、技術について語る時と同じように、トップの世界で生きる人は、決して常識の積み重ねから生まれてこない言葉を持っている。
私が、特に印象に残っているのは、リラックスについてだ。今までは、全身の筋肉を緩めることだと思っていたが、溝口さんによれば、真のリラックスとは、「力は入っているのだが、自分では意識していない状態」のことを指すという。
この、いつでも切り替えられる状態にしておくことが、「リラックス」というものなのだろう。
そして、それは集中にもつながってくる。
『ずっと集中していてうまくいかない。ポイントだけ集中すれば、後はおしゃべりをしていても大丈夫なのだ。(P97)』スポーツ、とくに一瞬の集中力の積み重ねである、槍投げであるが故に、緩急が必要なのだが、実はその法則はそこにとどまらない。全てに応用がきく。
溝口さんはまた、他の競技で身についたものを、応用できないか、常に考えていたそうだ。
今では、技術を他の分野で応用することは、当たり前のように思えるが、おそらくそうでなかった時代に既にやっていたということが、すごいを通り越して恐ろしさすら感じた。
一年の始まりからこれほどにも力強く響いてくる本に出会えてよかった。
これだから読書は、やめられないのだ。