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対象を捉えるのに、ヒトは、5感によって齎された情報を繋ぎ合わせてパッケージすることで体の中に情報としてインプットしている。反対に、それを取り出すときには、パッケージされた情報のただ一部に触れるだけでも、対象が自然と浮かび上がってきて、認識することができるようになる。ヒトが作り上げていく世界は、そうやって情報を蓄積していくことで、対象とその情報を適切に認識できるようになることで、生きるために必要な反応を起こし、対応を生み出すことができるこの体によって、表されていく。
自分と世界とがある。自分という側と世界という側があるということを知るために、大きく働いているのが「触れる」ということではないか。存在というものを見出すのに、触れることができるという反応を得ることで、実在するということの意味が分かるようになる。その感覚が「見える」ということと繋がり、ほかにも「聞こえる」や「味わう」、「匂いがする」ということがあることも知って、そのどれもが対象なんだと理解することで、情報がヒトの躰に蓄えられていく。
氷を見れば、その固さや冷たさ、触れたときの皮膚にくっついてくるイメージ、口にほうったときの舌の反応や、噛み砕いたときのこめかみに走るキーンとかだって、ヒンヤリとか、ガリガリとかの音だってまるで聞くことができる。それぞれの認識は繋がっているということだから、それを取り出すときには、検索するときには、全部を捉えなくても一部だけの情報から、引っ張り出すことができるという仕組みだ。ショートカットが出来上がるということだ。その効率性は、ヒトが安全に安心に世界と向き合うことができるようにし、生命的にもエネルギー的にも望む方向として合理的なシステムとして作り上げてきたものだろうけど、そこには省かれてしまうものが沢山あるのだということも、簡単に理解できるだろう。
ある機能が損なわれたときに、例えば視覚が失われたときに、ヒトは残された方法でそれを補おうとする。見えないことを、手を探り踏むことや、耳をすませることで、世界がどう広がっているのかをもう一度認識できるようにしていく。世界は再構築されるということで、ヒトの躰はそれができるのだ。そうしてみると、世界はまるでひとつの姿をしていないことに気づく。その当たり前のことを確認することができる。一つでなくていいということではなくて、一つなんかでは決してありえないということを理解できるということだ。僕たちがいま手に入れているこの世界に対して、そうではなく、それ以外として圧倒的に広がっていく世界の存在の仕方を想像できるということは、生きるということのためにこれからますます必要になってくることではないだろうか。
このようなヒトが世界を認識する仕組みにおいて、そのシステムを解読し、テクノロジーとして、損なわれたものを補う技術が作られたり、省かれてしまう情報をもう一度ヒトに振り戻して捉え直させることである範囲で認識の広がりや深さを拡張させて、捉え方を刷新させるような方法が研究されている。そのような先端の取り組みによらなくても、普段の中でだれでもが、感覚というものにちょっと意識を向け��だけで、世界が少しだけ広がるのだということも描かれている。見えるだけで分かった気になる。知っているだけでそれで十分だと思ってしまう。ただただ反応するだけで毎日を生きることが当たり前になってしまうけれど、そうではないこともあるのだと、そうではないことのほうが圧倒的で、それに意識を向けるだけで、簡単に「新しい世界」は表れてくるのだということこそ、常に自分のそばに置いておきたい「意識」だと思う。