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・鳥と霊長類では視力が進化した。五感のなかで視力は対象との距離が遠い。一望が可能なので不肝臓がつくりやすい。ただし、視力は原理的に外界を平面増として捉える。広く淡い感覚情報である。そのことは、弁別の命名の作業には有利である。
・人は文字文化が描き出すイメージとして外界を認知する。それが雰囲気として新たな第二の境界となる。いかも文字文化はデジタルであるから、雰囲気というアナログとの間の細かな不一致は常である。「理解とは誤解の一種である」は真理である。
誤解の程度を修正したりより生きやすい誤解に変えたりするのが、認知行動療法の作業の核である。そこから、新たなアナログとの出会いを導き、自然治癒力を発動させるのが治療機序である。
他方、人の環界のうち、文字文化を介して取り込まれ新たな雰囲気となっている部分すなわち誤解に基づく第二の環界を、命名作業によって元の文字文化というデジタルに戻し、ヒトとしてのいのちになじんでいる雰囲気としての第一の環界との出会いの体験部分、すなわち命の「素の体験」と第二の環界との闘争図を作成するのが精神分析治療であり、その手段が自由連想法である。
・いま一つ、遺伝子の積極性を仮説するならば、適合する臨界期ではいのち全体が輝くはずである。ある年齢での幼児の水遊びでの高揚はその例であり、あの高揚の雰囲気が数多く出現するような子育てをしたいし、治療にもこの雰囲気を持ち込みたい。宮崎県の都井岬の野生の子馬が母馬の乳を探って甘える様子は生き生きと愛らしい。他方、北海道の日高牧場のサラブレッドの子馬は生後すぐに飛び跳ねる。
・いのちの学習を導くのは、いのちの近くから列挙すると「雰囲気」⇒「イメージ」⇒「音声言語」⇒「文字言語」⇒「文字文化」の順である。この学習の流れは、感性の後は必要に応じて逆流する。つまり、矢印が逆向きになる。たとえば、文字言語は「内言語」を介して「疑似音声言語」としていのちの学習につながる。他の矢印についても、実例を想像すると感性訓練になるはずである。
精神分析治療で意識化していいのは音声言語以降である。
・抑圧とは、そのままでは葛藤の関係となる精神活動の片方を、意識から遠ざけるコーピングである。
・精神分析概念の多くと同様、投影も当人の表象界における事象であり、結果として生じた認識が先入見となり外界認知を歪めるのが過程の内実である。
そう考えると思考が柔らかになり、治療者側の認知も投影による認知の歪みという先入見の影響下にあるとの影響下であるとの連想が生まれる。
この連想から先入見を排除した認知を志向するのは誤りである。
先入見は全学習の成果である。学習を排した認知とはアメーバの外界認知のレベルへの退行であり、訓練の一環として取り入れることは有用でも、現場でそればかりに徹するのは手間がかかり過ぎるだけでなく危険ですらある。