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再読。第二部のほうに数ヶ所自分でつけた頁の折込あり。雑多な手記の集積という形式であるため物語的カタルシスは皆無だが、かといってなんの連関もない雑文の寄せ集めとも異なるため一定の心情や思想は犇々と伝わってくる。その重さ。暗さ。希望の見えない振り返りと展望。恋愛のような感情すらもここでは冷え冷えと乾き切っている。
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第一部の退廃的な死のイメージを主観的な口調で記されているのに、第二部は物語的な物語的な俯瞰した視点で記す箇所が多く、通して読むと強い違和感を感じるかもしれない。文体は秀逸。表現は精微で鮮烈。一部、二部が一環した物語として表現されれば素晴らしいものとなると個人的に思うのですが、これが手記の手記たる所以なんでしょう。
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パリで詩人を目指す青年の日記体で描かれた話。リルケ自身、パリで孤独な時間をおくっている時期があったとのこと。
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マルテの手記が好きって人は、ちょっとヤバい。
何故なら、孤独者の視点が身に浸みてしまうから。
悲しみや苦しみ、そして孤独や不安、影や暗闇、そういったものたちに美しさや豊かさを見出してしまうから。
だけどもリルケが好きって人はそれでいいんです。
少しずつ読んで、隣にマルテがいるような感覚を覚えるまで、じっくり付き合っていくのも良いと思います。
私も実は五年くらい読んでるけど、まだ、終わりません。
リルケ自身も書きあげるのにものすごく時間がかかりました。そういう小説です。
何か面白いことを期待して読み始めると、きっと、面白くないと感じて投げ出してしまう人も多いと思います。
だけど、これらをじっと見つめてきたリルケのことを思うと胸が痛くなるのです。
そういうリルケ自身が詰まった一冊です。
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孤独・死についての青年詩人の独白のような小説。
哀しくて陰気だけど何故だかとても優しい。
孤独に生きる人間達への愛に満ちている。
ベン・シャーンの描いた挿絵も併せてお勧めです。
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断片的に甦る、過去の記憶。
着飾ったまま舞踏会を抜けて、急病の自分を抱き締めてくれた母。
あるとき母は精密なレースを何枚も広げて見せてくれた。
その中に神秘的な風景が見える。
今、窓から見える舞踏病の老人。
人間は押し流されて、どこへ行ってしまうのか。
美しい過去の思い出は、全てを失ってからも人生のもやい綱になりうるのだろうか。
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マルテ・ラウリツ・ブリッゲの手記。マルテという若い詩人の様々な種類の断片を集めた「手記」、という形式を取った、リルケ唯一の長編小説。「詩人リルケの沈痛なる魂の告白の書」(カヴァーより)であることに、疑問の余地はありません。だけど、ここに記された絶望や敗北を作者自身と重ね合わせるだけではなく、その底にある純粋や、細部に宿る叙情を存分に味わいたい、と、私は思います。「死」や「恐怖」「孤独」に怯えることができるのも、また敏なる感性です。決して悲惨なだけの作品ではない、そう信じます。
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中学生の頃のピアノの楽譜入れだった母の手作りのお洒落な鞄がひょっこり出てきて、中を開けるとこの本がひっそりと息づいていました。
『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』の作者は、134年前の1875年12月4日にオーストリアのプラハに生まれた詩人で小説家のライナー・マリア・リルケ、スイスに移り住み薔薇の棘の傷がもとで白血病によって51歳で死去。
これは、孤独な生活を送りながらパリの街で出会った人々や芸術や自分自身の思い出などについて、デンマーク生まれの青年詩人マルテが思いついたことを断片的に書き綴っていくというスタイルで書かれた彼のたったひとつの長編小説です。
この本は中1と中2のときに4度読んだのですが、読んだ後の1、2カ月はまるで何かにとりつかれたかのように、普段の自分じゃないような落ち込みようで、当時の私の心情にもっともフィットする雰囲気の小説でした。
パリの町を京都の町に置き換えマルテになりきって孤独と赤貧を自らのものとし、生死の不安に苛まれて苦悩するという時間を持ちました。
初めはその中に沈潜してペシミスティックに埋没して、絶望のどん底という風でしたが、そのうちにそれらを覆すような内心の声に導かれて、今まで断定的に語られていた、あるいは疑問形で問いかけられていたことに対して、違う視点で発想して、行き詰った結論をもういちど洗い直していこうとするような風に変わっていきました。
ちょうど同じような世紀末のいわれのない絶望感や虚無感を共有していたのでしょうか、私は奇しくも頽廃の一歩手前で踏みとどまって生還しましたけれど。
あの頃の読書は、今から考えると、意図した分けでもないのにどこかで繫がっていたようですが、彫刻に手を染めるきっかけの『考える人』のロダン、ドストエフスキーを深刻に読む以前の親しみやすいロシア文学だった『はつ恋』のツルゲーネフや『アンナ・カレーニナ』のトルストイ、『悪の華』のボードレールや『狭き門』のアンドレ・ジイド、『魅せられたる魂』のロマン・ロランや『テスト氏』のヴァレリーなどなど、リルケが影響されたとか交流があった人たちは皆、私にとっても親しみ深く何がしかの影響を受けた間柄でした。
※3行追加しただけで2009年に書いたものがすべて消えてしまって、全部2012年4月24日に登録したことになってしまいました。私のように推敲して書き改めることもあるというスタイルに適合しない機能のようです。
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” 彼らはいずれも自分だけの「死」を待っていた。(中略)子供たちも、いとけない幼な子すら、ありあわせの「子供の死」を死んだのではなかった。心を必死に張りつめて────すでに成長してきた自分とこれから成長するはずだった自分を合わせたような幽邃な死をとげたのだ。”(p23)
私はふと、東日本大震災の津波で亡くなった子供たちを思った。
自然災害の死は戦争の空襲での死に似ている。理不尽で不条理な死。
突然に、誰彼構わず、いっぺんに死に追いやってしまう。
リルケが言うような「死」が彼らにはない。不慮の唐突な死に襲われた人たちを思うと私は胸が痛くなる。
想像力が逞しすぎると笑われるかも知れないが、私は時々亡くなった子供たちの叫びが見える。感じるように心に伝わってくるように見えてしまう。それは私をひどく混乱させる。私は現実から乖離していき、自己が消失してしまう。
『マルテの手記』は、私にはとても合っていた。
あまりにもしっくりとぴったりとし過ぎて本の中からうまく戻って来れなくなった。
どの文章(文章という形の感覚や感情が)も、すごく、とても、よく分かる。
言葉ではなく感覚として私の体の中にすうーっと入ってきて、あっさりと私を「僕」の住む世界へ引きずり込んでしまう。
文章なんだけれど文章ではなく、それはもうそのまま感覚として在る。
つまり、たとえば、私がどうしようもない淋しさというのを表そうとすると絵が生まれるように、言葉が感情を表すのではなく、感情が文章に成っている。
うまく説明ができなくてもどかしいのだが、そこに書かれたことは「心」であって、文章の意味が感覚として伝わるのである。
リルケの言葉を借りるならば、
『言葉の意味が彼の血にしみとおり、細かく分かれてゆくような気持ちがするのだ』
『事物の諸印象は血液の中に溶け、何か得体のしれぬものと一つになり、すっかり形をうしなってゆくみたいだ。たとえば、植物の吸収の仕方がきっといちばんこれに近いだろう』
そういうふうにこの本の文章は私の心に溶けてゆく。
これは素晴しい傑作だと私は思う(とはいえ、恥ずかしくなるくらい仰々しい大袈裟な感があるのは否めないが...)。
『マルテの手記』は『山のパンセ』のように短い話の連続で、物語というのとはちょっと違う。日記、断片的感想、過去の追想などが雑然と並んでいる。無秩序にその断片は並んでいるようなのに、しっかりとマルテという人物の物語として成立している。
リルケはこの構成についてこのように言っている。
『今度の小説は抜きさしならぬ厳格な散文を目ざしている。』
『どの程度まで読者がこれらの断章からまとまった一人の人間生活を考えてくれるか、僕は知らない。僕がつくり出したマルテという青年作家の内部の体験は途方もない大きなひろがりを持っているのだ。彼の手記は根気よく探したらどれくらいあるかちょっと見当もつかない。ここで僕が一冊の書物にまとめたのは、わずか全体の幾割かにすぎぬだろう。机の引出しをさがしてみるとどうや���これだけ見つけることができた、まず差しあたって、ただいまはこれだけでまあ我慢しておこうというぐあいの小説なのだ。こんな小説は芸術的にみれば大へんまずいでたらめな構成にちがいないが、直接人間的な面からみて結構ゆるされる形式だとおもっている』(訳者あとがきより引用)
主題は「死」と「愛」と「自己の存在」にある。
一部では、死を軸にした「大都市で今を生きるということ」(リルケの書いた現代は100年前だけれど、100年後の現代でも生や死の問題というのは変わらないものである)。そして、そのなかで生まれてくる「孤独」や「不安」や「恐怖」。
二部では、死を軸にした「愛」。
『マルテの手記』は自分の心を自分でうまくコントロールできない、常に不安と恐怖を抱えている、今を生きることに馴染めていない人でないと分かりにくく、ちっとも共感するところのないつまらない作品かもしれない。
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リルケ自身がこの小説について語った言葉の一部を掲載させていただきます。
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ぼくは『マルテの手記』という小説を
凹型の鋳型か写真のネガティブだと考えている。
悲しみや絶望や痛ましい想念などがここでは一つ一つ
深い窪みや条線をなしているのだ。しかし、もしこの鋳型から
ほんとうの作品を鋳造することが出来るとすれば
(たとえばブロンズをながしてポジティブな立像をつくるように)、
たぶん大変素晴らしい祝福と肯定の小説が出来てくるにちがいない。
~~~
何かしらちょっとでも感じるものがあったなら読んだ方がいい。
リルケは読み手に静かに一つの方角を教えてくれているんだ。
余談。リルケは薔薇の棘に刺された傷がもとで急性白血症となり死去したらしい。生と死に苦悩し続けたリルケ、些細な出来事が死に繋がってしまったとはなんと儚く、彼らしい…と思ってしまうのは失礼かな。
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事件は起きない。あらすじも伏線もない。パリに来たデンマーク人というフィクショナルな設定があるだけ(リルケはドイツ人)。
そのマルテが、自由な形式で、パリで見る景色を語ったり、かと思うと過去を語る。詩や音楽を語り、そんな連関性のない話を重ねていくが、読者はそれにつれて自分の心の奥底を覗き込むように誘われる。
リルケはこの小説を、散文というよりは詩として書いたという。それほど長い小説ではないが、6年ぐらいの歳月をかけて、文章を練りに練って書いたので、密度は非常に濃く、読み進むのにもエネルギーがいる。数行読んだだけで本を閉じて物思いに耽ってしまう、僕はそんな読み方をした。そんな感じである年のひと夏ぐらいかけて読んだ記憶がある。
マルテは英雄でも聖者でも有名人でもなんでもない、ただの異邦人の若者。そんな若者の内省の話。それが、特別の価値を持つ世界文学の古典になっているという事実。
それが世界的詩人の実力なんだろうな。
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文章が良いのだろうな、とは思ったが正直読むのが辛くなり途中で辞めた。文学は見ることに始まり、書くことに終わると。坂口安吾は文学とは生きること、見ることでは無いと言っていた。安吾もマルテの手記をよく読んだらしい。
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あるグループの歌にリルケという詩人の名が出てきて頭の隅にしばらく残っていた。
その矢先、ふと観に行った貴婦人と一角獣のタペストリーの紹介でこの本の引用がなされていた。
こういう同時性で作家に引き寄せられるのもありだと思う。
マルテという作家(実在のモデルあり)を主人公に描かれている話であるが、
貴婦人と一角獣の様に様々な引用がなされており、
そこから感じられる心象風景からリルケ自身の姿が見えてくるメタ的な感覚を受けた。
手記というだけあって、日常の景色が様々に移り変わっていくため、
難解ではあるが、これは印象派の絵画の様に言葉の流れを感じ取っていくものなのだろう。
冒頭で詩人というのは人生の積み重ねという趣旨の内容があった。複雑な人生が深みを生み出していく。
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生きる不安と孤独を感じさせる。118ページで読むのを止めてしまった。別の日に改めて読んだときに新たな発見があるのかもしれない。
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数年に及ぶ苦しい読書だった。本を開けど開けど進まない。言いたいことがわからない。そんな苦しさがあった。終盤は少し面白い話が出てくるが、それまではどうでもいい話に溢れていて、リズムも掴めず、わからない文章をただガリガリと引きずりながら我慢して読み進めるという感覚で大変辛かった。しかしこれでひと通り読みおおせたので、心置きなく他の作品に移れる。すっきりした。