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醜い日本の私
中島義道著
新潮選書 2006年発行
(2002年~2005年「考える人」初出に大幅加筆)
*著者は哲学者、電気通信大学教授(現在は退官)。
なぜこの本を読もうと思ったのか覚えておりません。図書館から予約本が来たとの連絡があり、借りに行きました。おそらく新聞かなにかで引用紹介してあっり、興味を持ったのだろうと思います。
「嫌韓反中」などと言われる昨今、韓国や中国に対する悪口も気になるが、過剰なる自国礼賛の方もとても気になる。およそ20年前に我が身にふりかかってきた阪神・淡路大震災の時、こんな話が報道されていた。
被災地は物が不足し、生活必需品を買いに人々は壊れかけた商店へと詰めかけたが、店の人は必死に対応、地震で割れたショーウインドウに手を伸ばせばいくらでも商品を持って行けるのに、日本人はその横で行列を作ってじっとレジの順番を待っている。これを見た外国人が驚いた。
同じような話は東日本大震災でも数多くあった。しかし、20年前は、今日ほどこういう話を日本人として自慢げに語らなかったと思う。盗むこと自体が悪であり、並んで順番を待つことは偉いことでもなんでもない、当たり前ではないか、という考えがあったように思う。
ところが今は、外国人がそれを見て驚く、という以前に自国礼賛に走っているように思える。サッカーの国際試合で日本人サポーターだけがごみ袋持参でスタンドを汚さず、他国サポーターのエリアまでごみ拾いして帰っていった、という動画があっという間に広がった時、外国人が評価したという以上に、日本人による自画自賛ぶりを強く感じた。しかもそれが、「こういうことは中国人にはできないだろ」というような、言葉なき反中の響きさえ漂わせていた。
そんな自国礼賛に見るナショナリズムに目を向けた本かな、という期待も読む前に少しあったのですが、そういうのとは少し違っておりました。
著者は、明大前商店街などの実例を挙げつつ、不揃いで時に破れたような看板が乱立し、テープから勝手な呼び込み音声が高々と流れ、商品ワゴンが道にまではみ出し、電線がぐちゃぐちゃと空を汚している風景に我慢がならないと言っている。しかし、それを不快だと感じる人は今の日本には少なく、著者が批判をすると逆に批判される。
最近よく、多様性を認めろ、という言葉を聞く。世間で口癖のように言われる。お前の感性や価値観はあくまでお前自身のもの、世の中にはいろんな人や物があり、その良さが分からないのは、お前が悪い、ということだろうか。
そういう風潮に対し、著者が言いたいのは、マジョリティの感受性は受け入れられても、マイノリティのそれは押しつぶされる、という点。マジョリティが認めるものはOK、そこには、マジョリティが美しい、心地よいと感じるものはもちろん、そうは思わないけどそういうのもあっていい、というものも含まれる。しかし、マジョリティがノーというと、それはノーなのである(例えば、拉致被害者や家族に関する批判などをしたら袋叩きにあう)。それに対し、マイノリティがノーと言っても、それは我が儘だ、お前の感性がおかしい、と拒否されてしまう。
著者はそれを「感受性のファシズム」と呼び、一見、平和な日本にまかり通っているとしている。
全体を通して、著者の考えにはとても賛同できないという部分も結構あったし、アジテーター的な雰囲気も感じた本。でも、哲学者らしい思考手順が楽しめ、しかも中学生が読んでも理解できるようなほど分かりやすく書かれているので、借りた動機はさておいて、読んでよかったと思えた一冊でありました。
(短時間で読めます)