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第一部までわりと度肝抜かれつつも面白く読めたのですが、長かったな。。。笑。
結構皮肉がきいていて、とくにラストなんかは秀悦。
このKも羽田さん自身がモデルという体なのかしら。(わたしは成功者Kのほうを先に読んでいます)
そもそもゾンビとかいう設定が苦手なのですがそのなかでは面白く読めました。
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現在の日本の言論などにおける画一的なコンテクスト(この場合文脈というより、その背景かな)に染まる人間がゾンビとなり、異端は排除されるということを批判した小説なのであろう。
ということは漱石のゾンビが出てくるのは、漱石のオリジナリティを批判しているものなのか?
途中読み飛ばし気味なので、作者の真意を理解していないのかもしれないが・・・
しかし話としてはいまひとつなのであった。
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同じ思考、同じ行動パターンの人ばかりだと、大きな危機を乗り越えられないっていうのは確かにそうだと思う。
面白いんだけど読み進めるのに疲れた。
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「文脈」(コンテクスト)に乗っかることによりオリジナル性を喪失した人々が次々とゾンビ化していく世界を舞台にした群像劇。
http://www.vagrantup.jp/entry/2016/12/19/152051
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何なんだこれは、と。一体何を読まされているんだ、と。
終盤辺りで困惑してしまった。
社会風刺のようでもあり、文学礼賛、または文学批判のようでもあり、政治批判のようにも読めて、パニックホラーかディストピアの様相も呈している。
あらゆる文脈を含んでいる、ということは、逆に言えばどの文脈にも(本当の意味では)沿っていない、ということなのか。
文脈、という言葉を使ってみたけれど、その正しい意味を私は実は分かっていない。
日常的な文脈で使うそれ(いわゆる「空気を読む」的な使われ方のそれ)は分かるけれど、
文学的な文脈で使われる、特に「コンテクスト」とルビを打たれるそれの意味はいまいちピンとこない。
「読書家」「本好き」を公言できるくらいには小説を、特に「純文学」に分類される小説を読んできたという自負はあるのだけれど。
「文脈に乗っかるのを過度に好む一部の人たちは、ゾンビに噛まれなくても、ゾンビになってしまう」
「読書経験なしの少年少女たちでも、無意識のうちに影響を受けてしまうなんらかの文脈がある」
「多様性を失うこと」、「思考の画一化への警告」
「今発した言葉は、本当に俺の発した言葉だったか?」
おそらくもうこの世には、描かれていない世界なんて存在しなくて、語られていない物語なんて存在しないのではないか? 文脈は河川のように、道路のように、幾筋にも分かれ、交わり、絡まり合って、もはや辿り着けない場所など存在しないのではないか。それくらい世の中には小説がありふれている。
それなのになぜ小説を書くの?
ここから先はもう、読む側からの「脱コンテクスト」に期待するしかないのだろうか(最終章のアレは、そういう意味での「読み手」批判とも取れなくはない)。
それは果たして書き手の衰退か、それとも読み手の成熟か。
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これは……タイトルから察せられるとおり「ゾンビ小説」と言っちゃっていいものでしょうか? ホラーかと思ったけれど、そうでもないなあ。
ゾンビ(らしきもの)がのっけから登場するものの、みんなやたらと危機感が薄く、悠長な態度(笑)。これほどまでにゾンビ文化が日本に馴染んでいたとは! みんな「お約束」をしっかり踏まえて行動してるんだよねえ。その結果、まったくと言っていいほどに感じられない緊迫感。これ、いったいどうなっちゃうの?
と思いきや。文学論にまで発展するゾンビ問題。そしてゾンビになってしまう人とそうでない人の差異って……何この超絶皮肉!!! 識者ではなくとも、本好きを自認している私としてもこれはちょっとぐさぐさ来ちゃう内容だなあ、と危惧を覚えてしまいました。ゾンビになっちゃうかしら。
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各地で「変質暴動者=ゾンビ」の出現が相次ぐ中、火葬されたはずの文豪たちまで甦り始めた…。ただのゾンビ小説で終わらない、今のこの世界にゾンビが出てきそうな、リアルな世界観です。ゾンビになる人間とならない人間。何が違うのか?!
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この小説、カバー画像のおどろおどろしい女子高生、冒頭の渋谷スクランブル交差点前でのゾンビ出現と、ホラー調で行くのかと思ったら。
始めは、ゾンビに襲われるとかゾンビを殺すとか赤黒い血が流れるとか、そんな描写に読むんじゃなかったと思いました。
でも、中盤から加速するように引き込まれていきました。不思議な小説。
怖いもの苦手な人も、途中で読むのを止めずに最後まで突っ走った方がいい。context(文脈)、これ大事なワードです。
小説の大筋とは全く関係ないですが、始めの方に、売れない作家のKが、編集者との打ち合わせのカフェでグランデサイズのソイラテにトッピングつけまくるとか、文壇バーのなんとも言えない内輪な空気とか、小説の体で内部事情を暴露してるんじゃ?と思ってしまいました。オイラ個人的にですが。
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「周囲の文脈」に無批判に迎合する態度をとり続ける大衆が、「文脈ゾンビ」となって巷にあふれる、というパニック小説。
出現当初は「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」「ゆっくり歩く」「青白い」などという共通の「文脈」通りの行動をとるゾンビだが、若者の間で「走るゾンビもいる」という理解が広まると、その通りのゾンビも出現するなど、しだいに危機感が高まってゆく。
ゾンビ化した人間と、周囲の人々の温度差や対応の仕方など、リアルな面もあって楽しめた部分もあるが、作品を創作する側の人間の葛藤(古典作品の焼き直しに過ぎないのではないか)や、どのように作品群を受容するか(世間の理解(文脈)との合一性はどうか)などの“文学論”的な要素も少なくなく、「読みにくさ」が生まれる原因となったように思います。
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羽田ワールド全開の不思議な小説。
交差点を渡りきり、騒ぎを覗こうと須賀が少し人をかき分けるとぽっかり空いた輪の内側へと躍り出た。そして、輪の中心にいるそれと目が合った。
・・・
彼がなにであるかを理解した。
「あれ、ゾンビじゃね?」
(本文より)
小説家や出版業界、編集者に対する痛烈なアンチテーゼ。
何故ゾンビ化した人達が大量に発生する中、バスが動いてたり、コンビにが開いてたり(その人達は働いてるって事)するのか、矛盾する事だらけだけど、
羽田くんの本。何冊か読んだけど結構きらいじゃないんだよね。
contextとは
(文章の)前後関係、文脈、脈絡、コンテキスト、状況、環境
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ある日、都内にゾンビが出現する。
そして、区役所のどっちかというと、さえない職員が、対応する。
そんなドラマを昔観た覚えがある。
だから本書は、その原作か、若しくはインスパイアされた作品なのかと思った。
だが、後半、なぜ人間がゾンビ化するのかという仕組みが露わになるにつれ、本書がモチーフにしていたのは、今の日本民族、そしてトランプに投票した多くのアメリカ人たちのことかもしれないと思いはじめた。
ただのゾンビものとして 読み始めて、途中からググッと方針転換される。
なかなか癖の強い物語だと思った。
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周囲の文脈に流される➡主体性がない➡自分の人生を生きていない➡生きる屍➡ゾンビという発想だろうか。
文脈➡文学とつながり、文学界あるあるとゾンビを組み合わせたらこうなったという感じか。
もっと深い思索がありそうな気もするのだが。
筒井康隆が書きそうな題材ではある。
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かなり独特なストーリー。
登場人物が多いのが苦手なので少し読み進めるのに苦労した。終盤になるにつれて目標が絞られていく感じで読みやすくなった。
読み始めから感じる違和感。
ゾンビとは一体なんなのか。
「人間」と「ゾンビ」の違いはなんなのか?
私たちは、本当に、生きているのか?
私たちの思考は、本当に、自分のものなのか?
これを読んでいる自分が
ずっと問いかけられているようだった。
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作品解説(帯)
編集者の須賀は作家と渋谷で打ち合わせ中、スクランブル交差点で女の子を襲うゾンビを目撃する。各地で変質暴動者=ゾンビの出現が相次ぐ中、火葬されたはずの文豪たちまで甦り始め……。
デビュー10年目の極貧作家K、久しぶりに小説を発表した美人作家の桃咲カヲル、家族で北へ逃げる小説家志望の南雲晶、区の福祉事務所でゾンビ対策に追われるケースワーカーの新垣、ゾンビに噛まれてしまった女子高生の青崎希。
この世界で生き残れるのは誰なのか!?
「あなた、まだ自分が生きていると思っているんですか?」
芥川賞受賞(『スクラップ・アンド・ビルド』)で話題を攫った羽田圭介が現代日本を撃つ
ゾンビ・サバイバル問題作!
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時代の波に乗れずに自己表現を貫く作風では食っていけない文士。売れっ子作家に寄生して甘い汁を吸う編集者。文壇の内幕を描くだけで面白そうなのに、どうしてゾンビが出てくるんだ?だってゾンビ小説だもの。それにしても、ゾンビの出現があまりに唐突で荒唐無稽でしょう。いや、そんなゾンビ小説だもの。と、脳内で葛藤と錯乱が広がりながら読み進める。終盤にようやく文壇とゾンビの繋がりが分かるのだけれど、やっぱり分かんないか。他者に同化し、自身を喪うは死者に同じってことだろうけれど、それにしても何もゾンビを持ち出さなくても。だから、これゾンビ小説なんだってば。