紙の本
全ての方に読んでいただきたい作品です
2017/04/09 00:07
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投稿者:よっしっしー - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔、外国語からの日本語訳で当事者が書いた本を読んだことがありますが、翻訳過程で「本人が表現したい本来の意味とは違うものになっている」ように思えていました。
まだ小学校篇しか読めていませんが、日本語を母国語にする人が書いただけあって、彼女の世界観がよく解ります。
自分と重なる要素もたくさんあり、彼女に親近感を持ちました。実は昨年、私はアラフォーにして発達障害(ADHD)と診断されました。
現在、二次障害の治療中ですが…。症状は複雑に絡み合っており、二次障害の症状なのか、本来持ち合わせている特性による(一次障害の)症状なのか自分でもよく解りません。
自分とよく似ている所もあるし、(もちろん)違うと思う所もあります。でも、パニックを起こす心境は似ている気がしました。
誰からも理解されずに過ごした時間が彼女を蝕んでいく過程が見事に描かれています。本当にスゴイ記憶力です。きっと泣きながら、叫びながら文章を紡いだのでしょう。
自分の世界観を他の人に解るように説明するのはとても難しい作業です。(診断・治療のために主治医に伝える必要があり、毎度苦労しています。)
この本を書くにあたり、相当なエネルギーを費やしたであろうことは私にもよく解りました。思い出すのもつらい体験を敢えて世の中に曝す事を選んだ勇気に盛大な拍手を贈りたいです。
多くの人に知ってもらうことで、「二次障害を抱えて生きなければならない人」が減って欲しいという願いから、この本が書かれたのだと思います。
保育や教育に関わる方、医療に携わる方、子育て中の方、これからお父さん・お母さんになる方、全ての方に読んでいただきたい作品です。
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主人公の思いに身に覚えがある。自分はたまたまASDなどという診断を下されていなくて,今でも下されることはないだろうと思うが,一貫性のない大人たちのことが理解できないというか,ほとほと苦しめられた。第3章では涙が滲んだ。
ASDという考え方が確立されてきたにも関わらず,教育界は「アクティブ・ラーニング」へ舵を切ろうとしている。沈思黙考する学びだってあっていいはずなのに…。口八丁手八丁の有害な健常者の環境に戦々恐々とする子どもたちが増える。予言でもなんでもなく,学校不適応は否応なしに増えるだろう。
*****
私は『大きくて嫌いな音(声)を出す』ものを『父』,『あの大きいのよりは小さくて,突然怒鳴りだす甲高い音(声)』のものを『母』,『背中が丸まって,ガサガサした音(声)で眼鏡をかけている』ものを『祖母』だと判断していた。顔が分かっていたわけではなく,それ以外の特徴で見分けていたのだ。
私にはそれ以外,人を見分ける方法はなかった。なぜみんなには人の顔が分かるのか,何か秘密の暗号でもあるのかと思い,それを私だけ教えてもらっていないような疎外感を感じていた。大人になって,普通の子供はみんあ顔や名前が分かっていた“らしい”と知り,驚かされたものだった。(p.30)
なにより,口の中に入ってくる,食材ごとに違う感触が,私は恐ろしかった。薄気味悪い感覚。まるで,画鋲や紙屑でも口の中に放り込まれたようだ。もともとお腹が減ったとも感じていないのに,無理矢理食べさせられる理由が分からず,私はいつも理由もなく放り込まれた『異物たち』に混乱する。(p.32)
さんざん怒鳴り散らして私を押し出すと,父は玄関の鍵をかけた。
誰もいない夜,外には私一人きり。怖くて仕方がなかった。でもそんなことをされても食事を食べきることはできないのに,なぜ外に出すのか不思議でしょうがなかった。私は必死に『おばけなんてないさ』を歌った。
小さな私は暗闇の中に棲んでいる,おばけが大嫌いだったから。
一時間ぐらいすると,何とか家に入れてもらえる。だけど,家に入るのも,本当は怖くて仕方がないのだ。どうせ,また食事の時間になったら同じことが起こる。恐ろしい怒鳴り声を聞かなければならなくなる。食べられないものを口に押し込まれ,食べきれなければ追い出される。家に入ったら,明日もまた同じ思いをするかもしれないのだ。私はいつも思っていた。どこか遠くへ言ってしまいたい。ここから,いなくなってしまいたい。
食事のたび,給食のたび,『ものを食べる』こと,『食べきれない』ということが,怖くて怖くて,たまらなかった。そんなに恐ろしいものが一日,三回もやってくるのだ。そのたびにご飯を食べるのが,恐ろしくてたまらなかった。
今度食べきれなかったら,何をされるんだろう。
そんな恐怖心で,いつもいっぱいだった。(pp.33-34)
生活リズムの違いにも馴染めず,集団行動もできず,“先生”の言う事に忠実である事もできず,『人と同じ』であるよう迫られて,私はただつらくて仕方がなかった。
時間割で時間が仕切られる事さえ,私は自分の体を真っ二つにされる事のように感じた。
なんでみんなと一緒の行動をしなければいけないの? 私には私のペースがあるのに,なんでみんなと同じようにしなきゃいけないの?
なぜ,絵を描きたい時に描いてはいけないのか,なぜ歌いたい時に歌ってはいけないのか,席を立ちたい時に立ってはいけないのかが,分からない。
その時の私は全身に拘束具をつけられたような気分で,しょっちゅうパニックを起こし,周りには,癇癪持ちと言われるようになってしまっていたんだ。(pp.48-49)
そして,それを少しでも受け入れようとする努力が「なぜなぜ」攻撃だったのだ。
なぜこんな形をしているのか,なぜ音がするのか,なぜこんな感触なのか,なぜこんな色なのか,いつからあるのか,どうしてこれを使わなければいけないのか,それによって自分がどういう影響を受けるのか……そういうことを私は知りたがった。なぜなら,未知のものが怖くて仕方がなかったから。だけど,私の切実な欲求は,教員や他の園児から見れば,「執着に近い自分勝手」としか映らなかったようだ。(p.51)
だって,ねぇ,なんでみんなは,簡単に受け入れられるの?
与えられたものを,そういうものなんだって,そうすればいいんだって,なんで簡単に受け入れられる? なんで,私はそうできないの?(p.52)
ある日,先生が「ほら,ここらちゃん,みんなと遊んだら?」と私に声をかけてきた。
……なんでだろう? その言葉が不思議だった。私はいつもみんなと遊んでいるのに……いつも同じ場所にいて,私が遊んでいる隣で他の子も遊んでいる。ちゃんとみんなと遊んでいるじゃない。
私にとっては,それが『みんなで遊ぶ』ということ。同じ空間で,まったく別々にであっても,同じ『遊び』に分類されることをやっている人がいれば,それは『一緒に』やっていると言えるんだと思っていた。もちろん,普通の感覚で考えれば,それは違う。園の先生もそういうことが言いたかったのだが,私はそんなことすら,分かっていない。(pp.53-54)
いつの間にか私の中で,『幼稚園』という,他人と関わらなければいけない空間が苦痛でたまらなくなってしまった。憧れていたはずの『幼稚園生』という偶像のメッキもあっという間に剥がれ,見苦しい現実だけが横たわっていた。――どこまで行っても問題児だという現実だけが。
そしてこの頃には先生の制止も聞かず,勝手に園庭に出たり,みんなと同じ行動をとらなくなっていた。
私は誰もいない園の運動場をフラフラと歩いては,わずかに生えた雑草を眺めたり,遊具の塗料が錆びてはがれてできた,無作為で魅力的な模様を,ずーっと眺めたり,して物思いに耽る。そうするととても気持ちが落ち着いて,ようやく喧騒から離れてホッとできるのだ。
ぼんやりしていて外の世界の理屈はてんで分かっていないクセに,小難しく物事の理論や成り立ちや,あり方を考えることは,私の大好きな『遊び』の一つだった。
覚えることじゃなく,私は,考えたり発想したりすることがしたかった。そういうことのほうが好きだった。だから一人でずっと考え事をしていることが多くなった。考えることが,楽しかった。月はなんで落ちてこないのか��風邪はどこから吹くのか,そんなことばかり考えていた。そして,風と話ができたらいいのにとか,水たまりの中に魚が住んでいればいいのにとか,魔法が使えればいいのにとか,いろんなことを想像して,一人で遊ぶようになっていった。頭の中では,私は自由だ。どこにでも行ける。何でも,できる。
一人でいろんな空想をしたり,その中にどっぷりと浸って遊ぶ。それが私の中で『一番楽しい遊び』になり,外の世界と私とを隔てる大きな囲いになった。
私は一人でいる時にニコニコ笑っている事が多くなり,そういう時だけ静かに穏やかに過ごすようになった。
『囲い』の中は,私の平安。私の安らぎ。その中には私と『私にとってのリアルな世界』が果てしなく広がっている。風も歌うし,水も歌う。火は遊び,虹が香る。
外の冷たく,見せかけだけの思わせぶりな世界に対して,私の世界は豊満で柔らかく鮮やかで,私のすべてを包み込んでくれていたのだ。(pp.58-60)
――先生,この間ね,テレビで言ってたの。「生き物は死んだら土に還る」って。死んだら,みんな土になるんだよ。だからね,土はね,死んだ生き物からできてるんだって。木も草も牛も猫もヒヨコも,死んだらみんな,土になるんだよ。足元はね。死んだ生き物たちでいっぱいなの。
死んだ生き物は,下にいてね。でも,下から,私たちを支えてくれているんだよ。死んだ生き物が,生きている人たちを支えているの。死んだ人たちが支えてくれているから,私たち,今,生きていけるんだよ。
だから,そんなこと言っちゃいけないの。
――死んでいても,生きていても,命は,とても,尊いんだよ――
不思議な感覚に包まれていた。目の前には相変わらずたくさんの死体の山が見えていたが,薄ら暗いものは感じず,ただ,命は命の上に成り立っているんだと感じた。私がこうして今生きているのは昔,死んだ人が,生き物が,今,確かに私を支えてくれているからなんだと,確信に近いものを感じていた。うまく言葉にはできないが,感謝や感動に近いものが静かに胸の中に流れていた。(pp.65-66)
ここから,私の長い長い六年が始まったのだ。長い長い,六年間の『収容所』生活が。(p.72)
鈴本の使う言葉は,瞬く間に子供たちに感染する。私はクラスメイトから常に「バカ,キチガイ,あたまのおかしいやつ,ていのう(低能)」と言われるようになり,「しばざきとはなすとバカがうつる」からと,誰からも,口をきいてもらえなくなった。(p.96)
幼い時から食が細く,口に入ってくる食べ物の異物感が苦手で偏食な私は,とにかくいろんなものが食べられない。特に当時の小学校低学年は,「好き嫌いなく,残さず食べるように!」と否応なく言われたものだが,感覚異常で,普通の人の半分の量も食べられない私にとって,給食の時間は地獄そのものだった。鈴本は,子供たちが食事の量を減らすことを許さない。食べられる量はみんな違うのだから,嫌いなものもちゃんと食べるというルールの下,全体的な量を減らすことは別に悪いことではないはずなのに,鈴本はアホの一つ覚えで「残さずしっかり食べること!」と連呼し続けていて,それが私に余計なプレッシャーを与えていた。(p.109)
『もし,普通の脳を持っていたら』
だけど,私にはなかったのだ。『普通じゃない脳』で,この世界と戦うしかなかった。他に方法はなかった。与えられた武器だけで戦うのがこの世界のルールなら,私は何一つ間違ったことはしていなかったはずだ。
だけど,許せないという人間がいる。『なんで普通じゃないんだ』と責める人間がいる。『普通であること』を与えられなかったことに,人と違うことに,どれだけ恐怖を感じているかも知らず,まるで悪魔祓いと称して人を鞭打つように,教育という名の正当化された武器を手に,何度も何度も,振り上げた腕で私を打つ。『お前が普通じゃないからいけないんだ』と叫びながら。(pp.125-126)
もし願いが叶うなら,今後,同じようなことが,学校という社会性を学ぶべき場所で,起こらないでほしいと心から願う。おかしな人間はどこの世界にもいる。そうした人間が淘汰されつつある教育現場でも,それでもまだ,息をひそめて隠れている。すべての教師を疑えとは言わないけれど,おかしな人間がいるのは事実だ。
誰にも味方してもらえない子供は不幸だ。居場所がない。過敏になる必要はないが,子供の話を最後まで聞いてあげてほしい。冷静な判断力を持って,それが事実かどうか,見極めてほしいのだ。今はICレコーダーやビデオカメラなど,便利な道具もいっぱいある。その気になれば確かめる方法は,いくらでもあるのだ。いい先生もたくさんいるのだから冤罪は困るが,自分と子供の身を守るためにも,おかしいと思った時には行動する勇気を持っていてほしい。(pp.137-138)
その機関では主に箱庭療法やプレイセラピーなどを受けていたが,学校での状況がよくなったわけではなかっった。何が変わるわけでもない。セラピーは,本と同じ。一瞬だけ現実を忘れる時間が,週に一時間というわずかな時間,増えただけ。(p.153)
『正義の味方』たちが味方していたのは,人間。だけど,人間って『正義』なのだろうか?(p.185)
受け入れないぞ,お前が悪いんだから。なんだと,お前が悪いんだ,お前が消えろ! そう言い合って大きな争いになって,結局,お互いが傷ついて,守りたかったものや大事なものを,失ってしまったのよ。
……
それは全部,分かりあったり,お互いを思いやったり,許し合うことができなかった結果。だから,『否定する』って,怖いことなの。みんな,悲しい思いをするから。(pp.188-189)
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It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives.
It is not the one that is most adaptable to change.
It is the one of next generation that is most tolerant in a variable species
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主人公ここらの小学校卒業までの話で、その後思春期編に続くのだけど、「壮絶」としか言いようがない日々を綴ってある。
自閉症スペクトラムの人が、世の中をどう見ているかがとてもよく伝わってきて、恐ろしくなります。
祖母や両親のここらに対する態度が、ここらの成長するためのに土台を不安定な物にし、小1の担任スズモトが更にここらを歪めていく。
だけど…
周りで接する人たちの戸惑う気持ちも分かります。ここらのような子と、どう接していけばいいか
身近にいる自閉症の人も、付き合いづらいところがあり、コミニュケーションで嫌な思いをしたくない為に、最近ではあまり関わらないようにしてしまっている
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発達障害に対する認知度は年代によってかなり変わるので
年齢は書いておくべきでは?
周りの状況を理解するのが苦手な病気だけに本人には見えてない事が色々あったのではと思いました
当人の気持ちや感じ方の部分は良いけど周りの人の事は第三者のドキュメンタリー作家に頼めなかったのかなと
母親が急に手を強く引っ張る等を意地悪な事と書かれているけれども
もしかしたらお年寄りや、ベビーカーが来ているのに直進していってたのかもしれない
躾のつもりが疲弊していてあたりが強くなっていったのかもしれない
只々、言うことを聞かない子供に意地悪する親達という登場人物に違和感を感じました
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発達障害を抱え、人とは違う感覚に幼い頃から生きづらさを感じてきた女性の体験が書かれている。理解無く、頭ごなしに怒る両親、問題児と決めつけ、教育という名の虐待を行う信じられない女性教諭。自らの気持ちをうまく言葉で表せずただ耐えてきた女性の辛さが伝わる。その中でも、彼女を愛し心からの笑顔を向ける教師との出会い、保健室、センターでのまったりとした時間。光のあたる時間もあったようだが、障害理解が乏しい時代。幼い頃から特性に合った子育て、教育をうけていたら彼女の人生は変わっていただろうにとはがゆく、切なく思う
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読了せず。
自閉症を生きた少女である心良さんの自伝。
実に生々しい描写で、読んでいて途中で心が折れた。
まるっきり当てはまらない人は、こういうことがあるんだなぁと思えるのかもしれないけれども、引っかかるところがあり、なおかつ心が弱っているときに読める本じゃなかった。いつか読みたい。
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昭和時代、自閉症に理解がまだなかった時代だということが大きいのかもしれないが、それにしても壮絶な虐待行為に気分が重くなる。
しかし、情報もなく本人ですら自分の中で起こっていることを説明できない状況では先生や親も対応に困ることはあっただろう。
大声で喚いたり、(本人には理由があったとしても)人に暴力を振るったりする子供は問題視されるのは当然と言えば当然だ。
現在、「なんでもかんでも病名を付ければ良いってもんじゃない」という程様々な症状に病名が付いていると感じることがある。しかし、他者にその症状を分かりやすく理解してもらうことが重要な自閉症などに関しては、カテゴライズして名前を付けるということは意味のあることだと思った。
顔に靄がかかり、表情が読み取れない・知覚異常・抽象的な言い回しでは伝わらないといったことは私には想像することすらできない。
また、小学校での教師の存在の大きさに驚かされた。
「スズモト」という最悪な先生に対して「堀田先生・桜田先生」といった素晴らしい先生たちがこの本には登場するが、対比されることにより、子どもたちにとっての教師の存在の大きさが余計際立つ。教師によって、クラスの雰囲気がこれほどまでに違ってくるのか。
堀田先生の子どもを理解しようと努力すること、桜田先生の自主性の尊重。
障害がある・なしに関わらず、きっとこのようなことを大切にしてくれる教師のクラスはとても良い環境になるのだと思う。
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苦しい、辛い...。自身の存在価値すら感じられない。無知≒裸足の私...。未知≒無知なるが故の非道。ドナ・ウィリアムズの著作を思い出した。当事者理解を自分だけでなく、他者に広めていくには?地道な対話しかないことは理解しているが、その徒労感に負けいないモチベーションを維持する何かが欲しい...。
「死んだ生き物たち、汚いとかいうんやったら、もう、地面踏まんかったらいいねん。」
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とにかく苦しい。
読み進めたい気持ちがあってもなかなかページをめくれないほど苦しい本。
でも是非読んでほしい。
こんな風な気持ちなんだ、だからそういう行動をするんだ、って分かるし、苦しさを少しでも、読まないよりは理解できるんじゃないかと思う。
私は読むのに体力を要したので、
心が比較的元気な時に読むことをお勧めします…
しんどい時に読むともっとしんどいかも
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ASDの当事者の世界の見方がリアルに伝わってくる。パニックが多く、黒に近いグレーだった子が、担任が変わり対応が変わると、落ち着いて白っぽいグレーになる。環境要因でここまで変わることに驚く。教職や学童保育に携わる方々にぜひ読んで頂きたい。主観的な描写だけでなく、所々客観的な解説も入れてあるので読みやすい。