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ずっと前から「死の棘」を読もうと思いつつ未読で、この本が出た時、やはり先に「死の棘」だろうと思い、しばらく読みたい気持ちを抑えていたが、結局先に読んでしまった。「死の棘」のあらすじが巻末についている。「死の棘」は読もうと思いつつ、いつまでも読めないような気がする。
島尾敏雄とミホさんのことは十分知ったような気になる。もういいかなというほどの力作だった。
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恥ずかしながら、死の棘を読むのを挫折したのちにこちらを読みました。
この時代の作家の作品をあまり読んだことがないので、「太宰治って自分のこと書いてるんだな」くらいの知識しかなかったんだけど、こんなに自分の身を削って作品を生み出してる人が他にもいることを知って、まず驚いてしまった。
あらすじを知ってるだけじゃわからない、そして多分私の読解力で死の棘を読んでもわからない背景が見えてきて、結局はそれ自体も真実かはわからないんだけど…
今の時代もSNSとかで自己演出するというか「こうみられたい自分」みたいな人に良く見られたい欲求が蔓延してて、劇場型というか。それの究極の世界な感じもしたかな。。。覚悟が違いすぎるけど(^_^;)
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渾身の労作であり、評伝として傑作の部類であることは間違いない。
しかし。。。
20歳前後の頃に「死の棘」を読み、なんて嫌な話だろうと思い、大嫌いだった。こんな恋愛もこんな結婚も絶対にしない、こんな男に当たったら全力で逃げる!と心に堅く誓って、その通りにした。「死の棘」も二度と読むことはなかった。
たぶん今読んでも、やっぱり嫌いだと思う。
ただ、夫婦の共有する時間や事柄は、夫サイド妻サイドでそれぞれに見ているもの、見えるものが違うものだなと思う。最近も『運命と復讐』を読んでその意を強くした。
それで、ミホ側からはどう見えるのだろうと思ったのだった。
しかし読めば読むほどやっぱり「嫌な話」で、読むのがしんどかった。やっぱり『死の棘』には共感出来そうもないし、島尾敏雄が作家としてとった立場も創作の方法も、嫌悪ばかりを感じる。
そして、それを祭り上げた批評家たちはなんなんだ。
都会からやって来たインテリ隊長と、土着で神秘的でピュアで美しい少女との恋?
批評家たちは、なぜそんな図式にあてはめて賛辞を送ったのか。男性批評家たちの勘違い願望としか思えない。やっぱり嫌だ。
評伝としてはとてもよく出来ている。
1人の男を(それがどんな男であれ)愛し抜いたミホはすごいな、と思う。それは鬼気迫るまでで、確かに尋常ならざるまでの希有な愛だ。それは賞賛に値するかもしれない。
しかし、人を愛するとはかくも恐ろしい。
もう1人の当事者である川瀬さんサイドからも見てみたかった。
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『死の棘』の作者島尾敏雄の妻、島尾ミホの評伝である。敏雄とミホの関係についてはよく知られている。終戦間際、水上特攻部隊震洋の隊長として奄美群島に赴任した敏雄が、島の娘ミホと恋に落ち逢瀬を重ねる。敏雄が出撃したあと、ミホはあとを追って自害する気でいた。そして、いざ出撃となったときに終戦を迎えるという話である。そんな激しい恋をした二人であったが、結婚後敏雄の浮気を知ったミホは狂い、敏雄に生涯自分に服従することを誓わせ、敏雄もそれに従ってミホのために書き、ミホのために献身的な生涯をおくる。これだけだと、一つの激しい恋の物語になるが、この裏にはいろんな物語があった。それを一つ一つ解き明かしていったのが梯久美子さんである。梯さんが解き明かしていったのは、一つには晩年のミホに何度かインタビューする機会があったことと、敏雄たちの息子伸三氏から、敏雄やミホの残したおびただしい文書の山を自由に見ることができる許可を与えられたからである(ぼくは実は敏雄自身よりもマカオかなにかの写真集を奥さんと出した伸三氏の方を先に知っていた)。敏雄は浮気がばれてミホの狂気を引き起こすのだが、実はもともと女癖が悪く、敏雄を追いかけ神戸にやってきて、ようやく結婚したときも梅毒にかかっていてそれをミホに移したりしている。その後も、女に対する欲望は持ち続けていたようで、ミホは敏雄の日記で愛人のことを知る以前から、敏雄の女関係では心を痛めていたのである。問題はミホがたまたま敏雄の日記を見たように思われているがそうでないと言う文学仲間もいた。梯さんも、敏雄はわざと日記をミホに見せたのではないかという。なぜか。それはそのことによって引き起こされる事態を敏雄は文学として書きたかったからである。梯さんはその愛人のその後を追い続け、また、敏雄とミホがのちに奄美に帰ったあとのことを書き続ける。敏雄にとって、奄美は戦争末期に特攻隊として赴任した空気をとどめてはいなかった。敏雄にとって奄美時代は一見平和そうで、心の中はミホを義父から奪った罪悪感で苦しんでいたのである。ミホは敏雄が死んだあと、公の場ではいつも喪服を着ていたという。それは、敏雄が死んでからも敏雄は自分のものであるという独占欲のもたらすものであった(おお、怖い)。そして、敏雄の日記を公刊する際も実はミホはそれにかなりの手を加えていた。それはつまり、敏雄は自分にふさわしい夫であったことを証明するためでもあった。二人の物語は、実はドラマチックですでに映画も撮られているが、ぼくはそれより、この二人の間で育った二人の子ども、伸三とマヤのことが気にかかる。父の不倫とそれを連日連夜問い詰める狂った母の家庭で育つと子どもはどうなるのか。それを探ってみたい。
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毎日少しずつ読んでやっと読み終わった。死の棘に出てくるミホさんも怖かったが、この評伝を読んでまた少し違う角度からも怖いと思った。夢に出て来そう。ページ数含め、すごい評伝だった。
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「死の棘」の島尾敏雄の妻であるミホの評伝。あの小説はそのままの事実を書いたものか。それとも脚色されたものか。愛人とは誰か。ミホの狂気は強調されているのか。ありのままか。膨大な手紙、メモ、ノート、日記からミホと敏雄の人生をあぶりだす。
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現実がある。小説を書く。現実をなぞって書くのが「私小説」の方法。作家が現実を小説のように生きるとしたら、それは倒錯だろうか。小説に描かれる妻が、作品の主人公として現実を生きるとしたら、それは狂気だろうか。
戦後文学の、私小説の、ビッグ・ネーム島尾敏雄とその妻の本当の生活はどこにあったのか。
よくぞここまで踏み込んだものだ。梯久美子の力技に拍手。
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「図書」2019年6月号で梯久美子さんの対談を読んで興味を持った。今自分のテーマになっている「聞き書き」の流れで。
しかし怖かった…。
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「死の棘」本体を読んだとき、「おぞましい自己愛」「夫婦のプレイ」「共依存」などと感想を書いたが、その印象が決して外れていないことを本書で確信した。他者の吐しゃ物をひろげて見せつけられているような嫌悪感には根拠があったのだ。こうした私小説を愛だの宿命だのと賛美する神経が知れないが、梯さんはさすがに冷静だと思う。
トシオがかつての教え子(遠藤さん)に吐露したという、「夫婦だからってここまで束縛していいものか」という心情がすべてを物語っている。そうした事態をみずから仕掛けなければ小説を書けなかった人間の性があまりに哀しい。
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900ページの大作。とにかく凄まじいの一言。文字で記録することに固執し続けた作家と、見たものを記憶することに特別な感覚を持っていたその妻。二人の死後残された遺品、日記、手紙、書きかけの原稿など、段ボール箱数百個の膨大な資料を網羅し、生き残った関係者へヒアリングを重ね、辻褄を合わせ、高く評価された「死の棘」がどのように作られたのか、本当は何かあったのかを読み解くノンフィクション。この積み重ねの結果の一冊として、とても価値あるものだし、「作家の仕事」の極みだと思う。ただ、個人的には「死の棘」を読みたいとは思わないなあ。
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身につまされる夫婦関係とその実情。
冒頭の手紙が人の気持ちが入り過ぎていて、本当に恐ろしい。
島尾敏雄の死後からのパートは読み応えがないが、その間にミホが喪服で過ごしていたことの理由をもっと深掘りして欲しかった。
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梯さんによる終始冷静な視点がいい。ミホさんに実際にお会いして、その独特に存在感を認識しながら決して流されることなく、「事実」を見つけようと考察している。死の棘で言われた「究極の夫婦愛」という理想化された視点ではなくて、なぜそう解釈されたのか、では実際は、と順序だって探っていく姿勢がすごい。ミホさんが生きていた当時に評伝を書かれていたら、きっとここまでの客観性は保てなかったのではないかな
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併読している本が多いことを差し置いても、読了まで一年半もかかった本はこれが初めてかもしれない。
読み進めていると、みぞおちが痛むような暗い気持ちになって、なかなか進まなかった。島尾敏雄の「死の棘」を読んでいるときもそうだったが、「目の前を過ぎて行くものを目のまえでとらえて記録する」接写的世界観の島尾の文体は、目眩や吐き気を覚える感覚がある。
物事を仔細に捉える「目」を持つ二人の、「知力も体力もある者同士の総力戦」(長男、島尾信三氏の言葉)を徹底的に掘り下げて、今まで言説されてこなかった真相。読む方も何かを差し出さなければならない気持ちになるような、身を削って書かれた名作「死の棘」と、その主軸となった妻、島尾ミホを巡るノンフィクション。
誰も検証すらしてこなかったミホを巡る巫女的な見方や夫婦愛の描かれ方に疑念を抱いて、丹念に取材を重ねて得られた新しい見方。そのプロセスをまた詳細に記録していく様。
「狂っていたのは妻か夫か」
帯に踊る見出しが、著者の梯氏にものりうつったかのような熱量の文章だった。
創作の犠牲になって狂っていった小説家の妻を描いた作品といえば、「HEROINES」(ケイト・ザンブレノ)を思い出すが、島尾敏雄とミホは、互いの血肉を貪り合ってるような凄まじい生き様を私達に見せつける。
作中、ミホの著作にも触れられていたが、断片的に引用されたそれを読むだけで、ミホもまた天才的な書く人でありまた見る人であったことがわかる。
「小舟に乗った漂流者」、そのようにしか生きられなかった二人。そう思われていた「死の棘」の世界だが、書くこと、書かれることを互いに繰り返しながら生き切った、凄まじい2人の生命の記録だったのだとも思えた。
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凄いものを読んだ。狂うことが「起死回生の道」とは。無私の愛も突き詰めると強烈なプライドの裏返しなのか、出逢ってはいけない男女が出逢ったのか、だとしたら他に・・・どうしようがあったのか。南島の巫女(少女)云々言ってる男性評論家陣の定説が覆っていく過程が実にカタストロフ。丹念な取材とそこから浮かび上がる事実を読み解く能力、いやいや梯久美子さんは恐るべき人。十一・十二章がまた見事で、一見冷徹なようで、掬い上げるところも忘れていない。もっともらしくまとめた定説にも実は裏があるかもよ、ということを学んだ。
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しかし書くことの業の深さよ。自分は書き文字の重さを信じる質なので、本文中に何度も言及される審きの日(十七文字)の下りとか、「あいつ」のモデルになった人がどれだけ生き地獄だったかはめちゃくちゃわかる。というわけで基本的にテキストベースのコミュニケーションであるSNSやメールなんぞを侮る無かれ、「大事な話は対面口頭で」。
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「死の棘」についても、島尾ミホというひとについても、何も知らなかったけれど、とても惹かれた本。
最初に加計呂麻島の地図が載っていて、離島もののミステリみたいだな…と思ったけれど、それほど間違いでもない気がしている。
島尾とミホは「島の守護者」と「島の巫女である少女」であり、だからふたりは惹かれあうのは必然、という「神話」が、定説になっている、らしい。著者はそれを疑問に思う。
なんていうか、男のひとが好みそうな「神話」だなあ、などと思ってしまったけれど、最後にはミホ自身がその「神話」を守ろうとしていたことが分かって、なんとも複雑な気持ちに…。
「小説のためなら何でもする」島尾。小説を書くほどの「業」が自分にはないと思っていた彼は、小説のために愛人をつくり、愛人について書いた日記を、わざとミホに読ませる…
そうして書かれたのが「死の棘」。
けれども、晩年にはその小説を否定している。
教え子には「あれはくだらないもの」とまで言っている。
島尾は何もかもを「書く」。書かずにはいられない。毎日日記をつける。ミホに見せない裏日記もあったらしい。
ミホとの関係も「書く」「書かれる」ことから始まる。
「死の棘」以降、ミホの望むようにミホを書き、疲弊する島尾。
「死の棘」は、「愛される妻の物語」だということにしたかったミホ。
正直に言うと、島尾に関しては自業自得では…という感想になってしまう。それでも書きたかったんだから仕方ないのでは…
そして「書く」ということで、ものごとは規定されてしまうのだなあ。
ほんとうのことは、言葉にはできない。でも言葉を尽くすということを諦めたくない。それはずっと私自身が思っていることなのだけれど、このふたりのかたちは、それを突き詰めた結果のひとつ、なのかもしれない、と思う。