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読んで良かった
2022/08/16 21:59
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投稿者:ミー - この投稿者のレビュー一覧を見る
差別されるマスカリータと文明人により失われつつあるマチゲンガ族の悲しさ辛さが伝わってきました。バルガス=リョサの作品は「緑の家」に続くに2作品目ですが、全く違う小説なので内容を知らずに読んで少々驚きました。個人的には、「緑の家」の方が好きです。
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「密林の語り部」(バルガス=リョサ)を読み終わりました。私は静かに目を閉じて密林に差し込む月の光を想い、密林に降る雨を想い、マスカリータを想い、そうして少しだけ悲しくなった。近代化という大きなうねりの中でしだいに失われていく神話や知恵について、痛みに似た喪失感を伴う静かな物語。
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密林の語り部
今日からリョサの「密林の語り部」を読み始め。序章のフィレンツェのギャラリーでの写真を経て、中身へ。迷宮(カフカ・サウル(登場人物の名)の足取り・贈り物のバクの骨の線模様)、自然界と人間社会の拮抗関係などが気になったところかな。リョサは構成は入り組んでいても、文そのものは平易だからまだ入りやすい…かな。フェンテス辺りと比べて。
8月中に読めるのかな。
(2012 08/10)
民族学と歴史学、そしてフィレンツェ
「密林の語り部」第2章の後半を読み終え。この小説は「私」がこの小説を書き進めているフィレンツェでの話(1、8章)の間に、2・4・6章の「私」が書いた語り部サウルの物語と、3・5・7章の「語り部」が語った(のか)?インディオ自身の物語が交互に積み重なっています。んで、その第2章はサウルと「私」が実際に交流していたリマの大学時代の話。サウルは顔に大きな痣みたいななのがあって、他の人々と交流するのを妨げ(と当人は思っていて)、それが同じく「虐げられている」「生活環境が脅かされている」インディオへの共感に結びつている、そう「私」は考えています。それが当たっているかはまだわかりません。
さて、標題・・・
サウルと「私」は、リマの大学でそれぞれ民族学と歴史学の教授のお手伝いのようなことをしていたのだが、その描写の中でこんな記述がある。
バレネチェアは、民族学や人類学を毛嫌いしていて、道具が人間に代わって文化の主役となり、スペイン語の散文の伝統(ついでに言うと、彼は素晴らしい文章を書いた)を壊してしまうものだとして、そうした研究には批判的だった(p44)
バレネチェアというのは「私」が師事していた歴史学の教授。彼と民族学の教授であるマトス・マルの対話の中でこういう表現があった。なんか今の自分にとっては民族学と歴史学って相互補完的な、よってまあ近隣の仲良しな?学問だという認識しかないのですが、こういう見方もされていたとは。ペルーという無文字社会がすぐ近くにあって、その社会を征服してきた文字文化社会ではそういう危機感が常にあったのだろう。でも、「道具」が「人間」にとって代わる、という箇所がどうしても引っかかる。民族学者のある人には人間不信(というか抽象化嫌い?)があって、それと歴史学者のある人の「(抽象)文化万歳」的な考えと対立する?? これってデリダの「グラマトロジー」の主題ともつながる視点ではないだろうか(「グラマトロジー」も未読ですが)。
で、もう一つ。フィレンツェについて。最初に述べた通り「私」がこれを書いているのはフィレンツェという設定(そしてどうやら現実にリョサもフィレンツェで書いていたらしい)なのですが、そういう設定を時たま読者に想起させる役割以上に「これはフィレンツェで書いている」というような記述が多く挿入されている。フィレンツェという場所がルネサンスのそしてそれも機縁となった新大陸「発見」につながっている、のだとするならば・・・第8章たどり着けば見えてくるかも。
(2012 08/11)
密林の語り部の語り方
えと、おはようございます。
「密林の語り部」に戻って第3章。一昨日書いたように3・5・7章は語り部の語りなのですが…その語りにはやはり独特なものがあって、西洋的な読み方からすると読みにくいものがあります。ではどこが読みにくいのか…
それすらわからない…
じゃ、困る?ので…同じようなインディオ(まあ、この言葉を使います…)の語りを作品に仕立てた、アストゥリアスの「グァテマラ伝説集」と比べてみよう。アストゥリアスの方がなんだかわからん感がかなり強かった。あっちはインディオ自身の語りをそのまま伝え、こっちは少なくとも青年期までは西洋の伝統の中で育った語り部によるもの…だからか。でも、なんか矛盾する言い方だけれども、ちょこちょこ西洋的な要素が入るこっちの語りも読みにくい…と感じさせるのではないか。
もちっと細かいことも。神々の神話を、もしくは神話的に語る先祖の語りだと最初は思っていたけれど、なんか同じ神の名前みたいな固有名詞で、今住んでいる個別の人々を語り始めているみたい。その個別の人々も神話的な世界観持っているために余計にわかりにくくなってしまうのですが…神々と同じような性格の現実の人を同じ名前つけてしまう、というヴィーコの説を思い出します。
(2012 08/13)
固有名詞のない世界
万物は、存在するものの創造者であるタスリンチの息吹きから誕生したが、固有の名前はなかった。名前はいつでもその場限りの相対的、一時的なもので、来る者、行く者、死んだばかりの女の夫、カヌーから降りてきた男、生まれた者、矢を放った者などと呼ばれていた。
(p114)
「密林の語り部」第4章。ここは語り手(「語り部」ではない)がペルーのマチゲンガ族の言語調査へ赴くところで、リョサ自身の体験(1958年)を踏まえているが、また「緑の家」の素材がちらほらするところでもある。実はリョサは「緑の家」執筆時は本当はこの語り部の話を書きたかったのだ・・・というのは解説にある話。一方、なんだかよくわからなかった?第3章の謎解きの味わいも。
さて、ここにあるマチゲンガ族の言語の特徴は、人類の言語の原始状態?がかいま見られるところ。生まれた誰かは死んだ誰かの生まれ変わりであるという循環的生死観を持っている人々は、固有名詞という発想そのものがなく、状態を指し示すことができればそれでいい。固有名詞の誕生という出来事は、個人がそういう円環から離れていったところに発生する。それは一神教の発生と同調しているのかも。
さて、この文が含まれている段落の中でもう一つ気になることが。マチゲンガ族は非常に自殺率が高いとのこと。厳しい自然・社会環境におかれている民族の中では、人口調整の為に(いわゆる)不具の子の嬰児殺しとか(いわゆる)姨捨山とかはまあわかるのだけれど、自分で命を絶つというのがわからない。そもそも自殺という行為はとてつもなくエネルギーのかかる行動だと思うので、ここで挙げられている病弱な人がそういう行為に出るというのはちょっと自分は腑に落ちない。
えと、もう一つ。この章は語り手が言語学研究所の調査に同行する章なのですが、この研究所はどちらかというと未開社会を西洋化(キリスト教化)しようという傾向があるところで、���こが「語り部」サウルとは根本的に違うところ。語り手は今の自分の状況をサウルが知ったらどう思うのだろうと考えてみる。逆に第2章ではサウルの主張に語り手が敢えて逆らった見解をしてみた場面があった。そういう複眼的な、コインの裏表両面から眺める趣向が、この小説にはある。
(2012 08/14)
記憶とダンテ
えと、おはようございます。
「密林の語り部」第4章まで。前の第2章もそうだったけど、語り手が今いるフィレンツェから当時のペルーを再構成する為の記憶への言及が数度されている。こういう疑問は他の作家の作品でも見られるが、果たしてこの作品では物語を語るというテーマとそれがどう重なるのか、楽しみです。
それとは別に、語り手が書いているところに直接、(もちろん、語り手の想像上の)サウルが話しかけてくるレベルもある。
さて、もう一つ、フィレンツェ問題。どうやら作者の狙いはダンテ「神曲」とマチゲンガ族神話との構造上の類似を思い起こすことにあるようだ。天と地に対照的な構造。さ迷い続けることもそれかな?
(何せ、ダンテ読んでない(汗)…)
(2012 08/15)
レベルが未分化な語り
えと、おはようございます。
「密林の語り部」第5章…は奇数章なので、語り部の語り。読み進めてきて、この語り口にもだいぶ慣れてきた。タスリンチという語が神と家族長(一応、こういう表記にしておく、マチゲンガ族は密林の苛酷な環境の中で、小集団に分散して生活している…だからメッセンジャーとしての語り部の役割もあるわけだ))双方で使われること。神話と現在の生活がごたまぜに…というより未分化状態で…語られること。語りの中に、こうして今までのことが終わり、これからのことが始まった、というような表現かあったけど、その表現は時間概念(因果関係)を表しているわけでは、特になさそうだ。パラレルな別の世界に入った…というだけのような感じ。だからいろいろな環境の変化にも耐えられるのだろうな。一元化した私達の生活環境と違って…
でも、戻れる?
(2012 08/17)
蛍の声
「密林の語り部」第5章を読み終え。語り部の放浪話を中心に、彗星になった男の話、しゃべった通りになる男の話、そして語り部の家庭を持つ計画と挫折?など。
その中で、語り部の先達が語るところから…2人は蛍のみがいる山の中にいる…先達には蛍の声が聞こえる、という…
そこで、声がするだろう? 日が暮れたとき、山の音とは違った音。君には聞こえるかね? つぶやき、すすり泣き、嘆き。滝のような低い声。声の渦。つぶれた行き交う声。ほとんど聞き取れないような声。語り部よ、耳を澄ましてごらん、耳を。最初はいつも、そんなものだ。いろいろな声が交錯する。だが、そのうちに聞き分けられるようになる。
(p174)
まあ、そのままですが(笑)、これはやはりリョサ自身の「語り部」としての決意そのままなんでしょうね。もちろんサバルタン自身が語っているわけではないけれど、声なき声を聞くことが重要。
やっと200ページ…
(2012 08/18)
語り部の謎とバベルの塔
昨夜23時に読み始めた「密林の語り部」第6章の前半2/3部分。偶数章なので「語り手」リョサ(実際どうだったかはともかく、一応リョサ自身が語り手という感じ)の1981年。語り手が関わっているテレビ番組「バベルの塔」の取材でマチゲンガ族が定住をし始めた村へ。ここで「語り部」に関する謎が。昔は民族学報告が盛んだった語り部に関する発表がここ20年くらいはほとんど見られない…定住化し始めたマチゲンガ族の村長や教師もその話題を避けている…それどころか、語り手に「語り部」の話を1958年にしてくれた現地でずっと研究しているシュネル夫妻もその話題を忘れて?いたようだ。いったい語り部に対する何が変容したのであろう…シュネル氏(夫)はやがて二度会った語り部の話を語り始めるのだが…
と、いうところまで。
で、さっきもちらと触れた「バベルの塔」というテレビ番組。文化というものは様々な側面から取り上げることができる…というコンセプトのもとで、ペルー国内、そして国外にも取材するドキュメンタリー(なのかな?)。リョサ自身の体験も多分あるんじゃないかな。語り手イコールリョサかはともかく、「シナリオライター」でもラジオドラマに関わっていたみたいだし。ラテンアメリカの作家って、マルケスもそうだけどテレビや映画に積極的なところありますね…で、この「バベルの塔」。語り部への導入部というにしては長めで、しかも無茶苦茶興味をそそられる。ボルヘスやサバトへのインタビュー? パナマの独裁者の別荘での滞在(しかも取材後2日後に語り手達も乗った飛行機の事故で死去)? もし、この番組がある程度リョサの体験であるのなら…CS辺りでやってくれないかなあ…
うーん。
語り部の謎(続)
何でもかんでも、少しずつ、頭に浮かんでくることをだね。
(p240)
シュネル氏の語り部の話から。思いついたことを前後の脈略なく話す…これもトピカなのだろうか?原始の話者は現代の「未開」の語り部とは果たして似ているのだろうか?
で、語り部の謎ですが、どうやらサウル(イスラエルには行ってなかったみたい)自身の問題と関係があるみたい。語り部=サウルが外部から隠れることを望んだがゆえに、マチゲンガ族は彼の存在に触れないようにした。サウル自身の理由とは、第2章で彼自身が言っていたマチゲンガ族を外部から守るという抽象的なものではなく、もっとサウル自身に密着したもの。そう、サウルの顔の大きな痣。彼そしてマチゲンガ族はその痣を外部に見せることを嫌って、語り部の存在に触れないできた。
これも第2章で言及されている、障害を持つ子供が生まれたらすぐ殺してしまう、という記述は、サウル自身にはどういう影響をもたらすのか?ひょっとして、語り部という制度そのものが、そういう障害を持つ人々への隠れ場所になっているのかも。中世ヨーロッパの場合も似た制度だったような気が…
でも、まだわかりませんよ。あと第7、8章残っているし…
(2012 08/19)
カフカと聖書の変奏
「密林の語り部」ですが、いよいよ第7章。語り部がいかにして語り部となったか、を語っていくみたいで、「変身」の変奏も流れて、奇数章と偶数章がやがて結び付く…のか?
「変身」の次はユダヤ教とキ��スト教の物語・・・らしい。放浪というキーワードでユダヤ人とマチゲンガ族と結びつける構想みたい?
(2012 08/20)
謎と話
えと、おはようございます。
「密林の語り部」読み終えました。語り部形成の謎、語り部の写真の謎、そしてフィレンツェ問題…と謎はいろいろ謎のまま。謎が熟成すると読み手の中で何かが起こる?
解説では哲学・神学・そして文学の共通項が言葉→話として指摘されている。人は何故他人の話を聞くのか?他人に話をするのか?最大の謎である語り部形成の謎もその辺りに何かがありそうだ。
(2012 08/21)
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フィレンツェで小説を執筆中の「私」は写真展で一枚の写真を発見する。そこには故郷ペルー、アマゾン奥地の密林に住む語り部の姿があった……。
外枠の1章、8章を除き、偶数章はリョサ自身を思わせる「私」と後の語り部・マスカリータとの交流、25年後のアマゾン再訪、奇数章はマチゲンガ族の語り部の語りから構成される。
語り部の語りの神話的世界の寓意に満ちた豊穣さが素晴らしい。さらにはそこに『変身』やユダヤ・キリスト教の歴史をモチーフとして取り込む辺りはまさにブリコラージュ。"物語る"ということの真髄がここにある。
偶数章で批判的に語られるペルー、アマゾンの現状も興味深い。
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人は何のために物語るのか。語り部となることにはどんな意味があるのか。アマゾンの密林で起きている”近代化”を背景に置きながら、物語の持つ根源的な力を描く。
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岩波文庫にバルガス=リョサの著作が入っているのを見て「おおっ」と思った。岩波といえばやっぱり古典中の古典というイメージなので比較的新しい雰囲気のするものが入っていると「岩波さん頑張ってるなあ」と思ってしまうのである。そんな岩波さん(いつの間にか「さん」づけ)に敬意を表し『密林の語り部』を手に取る。
『密林の語り部』は著者バルガス=リョサ自身を思わせる「私」と顔の半分に大きな痣を持つマスカリータと呼ばれる人物やその他研究者との会話、交流で構成される章と、アマゾンの部族の人たちの声や行動といったものを人称も時系列の感覚もなく、生きている人間と死んでいる人間の境も不明瞭な形で書き継がれていく章とが交互に出てくることで進んでいく。このうち後者であるアマゾンの部族の章は、声の主体を探そうとすると途方に暮れてしまい、あまり意味は追わずにどことなく雰囲気を味わいながら読むことになった。
アマゾン部族の章を読みながら「マジック・リアリズム」といった言葉もよぎったが、そういう言葉を使ってしまうとなんとなく自身消化不良を起しそうな気がしたので、自分なりに書ける範囲で思ったことを書きとめてみたいと思った。
アマゾンのとある部族の慣習についての記述を読み、ささいなこと(口論をしただけとか誰かに恨まれたりといったこと)がすぐに自殺に結びついてしまうことや、病気などになるとすぐに生きることをあきらめてしまう、という死生観、そして食人の文化など、全く想像しないわけではなかったが、こうして書かれているのを見ると純粋に驚いてしまう。そしてこのような人たちの世界観を表現するためにどのような言葉を費やすことが可能なのだろうか?と思ってしまう。われわれが日常使っているような言葉もしくは言葉の組み立て方では「それ(アマゾンの部族の世界観)」について書くことができないのではないのだろうかという思いがする。
「それ」を書くためにはどうしたらいいのだろう。私は2つあるのではないかと思っている。
1つは「それ」を語る人達の言葉に寄り添うこと。
2つ目は「それ」ではないもの(要するに自分たちがいる側の世界)の言葉に揺らぎを与えてあたかも「それ」であるかのように感じ取れるようにしてしまうこと。
1つ目が言語学者や民族学者の仕事で、2つ目が文学者の仕事なのではないだろうか、といったん定義してみたくなる。そうすると『密林の語り部』がとても巧みに構成されたもののように思われてくる。
2つの世界を対比させて書くのはどういう意図があるのだろうか。そこに何か普遍的なものを見い出そうとしているとも読めそうな気がしてくる。語り部による「語り」という行為。「人が人へ語るとはどういうことなのか」という事柄に光をあてているような気もする。私からするととてもほのかな光で、自分がそれを掬い取ることができるのかどうかもわからないのだけれど。
また、バルガス=リョサは大統領選に出馬するくらい現実世界に目を向けている人というイメージも一方であって、その現実を見る厳しいまなざしがアマゾン部族の章だけでなく、現実世界の言葉をもって小説を構成する要���になっているのかもしれないという思いも一方である。
いずれにしても一筋縄ではいかない小説だ。
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アマゾンの未開部族とそこに侵入してくる西欧文明のせめぎ合い。
もっとも難しい問題は、西欧文明の侵入を防ぐ手立てがほぼ皆無だということ。
体験してみて、取捨選択できるのであればよいが、侵入してしまったらそれを拒むことはできない。
それでは、どうしたらよいのか・・・
結局、何が最善なのかはわからない。わからないけど進んで行ってしまうのが現実の姿、時間の流れなのだと思う。
畏敬のまなざしで、語り部を眺める原住民の姿は
本来の畏敬の念を忘れて、自らの神を押し付ける現代文明では見られない姿なのか。
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未開の地の人類が自己、取り巻く世界、自然をいかに捉え
死生観、運命、神の存在を世界、地球の中で作り上げたか。
白人、西洋文明、近代化が未開を開拓していく中で
それまでの世界を染め上げ、均一化。
言葉と物語が形作り築き上げる集団の共通の世界。
人が人として自己を見つけて意味のある存在として
残っているのはいずれか。
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「緑の家」と比べて、ゆったりした印象に思えたが、通読するとやはり面白い。私小説的な著者の独白と、マチゲンガ族の語り部の独白となる章が交互に進行してゆくが、終章近くになってそれが重なってゆくところで、驚かせられる。日本では立松和平「ウンタマギルー」などが影響を受けていたのかもしれないが、どうだろう。
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アマゾンの密林を流浪し散在している部族の間を行き来し、
物語を語り、教え、部族の共生感や観念を紡ぐ
役割を果たしている霊妙的な「語り部」という存在。
昔昔、わが日本でもこのように物語を先祖から引き継いで
下の世代に伝承し、一つの共同体を成していたのだろう。
それは文明的では無いが、そこに共生の真髄があるように感じた。
価値観は分散し、個人的利益に走るこの時代を生きる我々に対する一つの訓戒ともとれる。
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バルガス=リョサの文章は私にはちょっと読みづらいのだが、この小説は未開社会/西洋型社会間の落差の問題をテーマとしていて、興味深かった。バルガス=リョサはペルーの作家だが、アマゾンの密林内における部族社会にたいへん興味をもち、いろいろ調べたようだ。
最初の2つの章での一人称「私」と、3章に出てくる「私」は別人であり、この2つの主体が交互に語りをつむいでゆく。前者の「私」は、訳者解説によるとバルガス=リョサ自身。後者は、学生時代の友人で、顔半分をアザで覆われた「有徴」のユダヤ人、サウル・スラータスである。
サウル・スラータスはアマゾンの部族社会に魅了され、専攻した民族学の域を超えてのめりこんでゆく。やがてすべてを捨てて出奔し、マチゲンガ族の中に飛び込み、その部族の神話的核心を成す「語り部」になるのだ。
スラータスが若い頃愛読していたカフカの『変身』のグレゴール・ザムザのように、彼はまさしく「転身」するわけだ。
作者自身を投影していると思われる前者の「私」はスラータスの考えを追い、ラテンアメリカにおける未開文化についてあれこれ考え、部族の物語をつむぐ者である「語り部」という存在にも深く考え込む。
16世紀にスペイン人によって侵略されたインカの民は、おおむねペルーで白人に隷従することとなったようだが、西欧文化の手の届かなかったアマゾンの奥地では、まだオリジナルの文化を守り続ける「未開人」たちが残っていた。彼らを西欧的に「文明化」するのが正しいのか、放っておいて自滅を待つのか、なかなかに難しい問題が考察されるが、結局、ユダヤ人スラータスが「むこうがわ」に溶け込んでゆくことによって、力強く生き続けるマイノリティの生命力が、輝かしい印象となって残される。
たしかに、どの文化が正しいと言うことはできないはずだし、幸せなどというものはそもそも一体なんなのか、誰も明言することはできない。この小説では、未開社会をあんまり「美化」しているわけでもなく、西洋社会への批判もほとんど出てこないけれども、異文化間の軋轢、はざまで動揺する心は、見事に描き出された。
「怒ることは世界の調和を破壊し、地震や病気などのわざわいをもたらすから、怒ってはいけない」
このマチゲンガ族の素朴な信仰と倫理は、人工物だらけの「豊かな社会」における個人主義的自由のなかでストレスに身もだえし、由来の判らぬ苛立ちに日々悶々としている私たちにとって、なかなかに痛切である。
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間違いなくここ数年で一、二番を争う作品。
今と回想、現実と超自然を対比して、章を辿るにつれ、それらがゆったりと混ざり合う。この感覚は中々味わえるものじゃないのではないだろうか。密林の語り部はそんな作品。
密林の中、私たち文明人には想像もつかないことがある。だけどもグローバリゼーション、文明化の流れにより、先住民の文化も侵食、いや悪いこととは断言出来ないから、融和しつつあると言っておこう。融和の過程で、文明人は原始の暮らしを理解していく。しかしその理解はうわべにすぎないのではないのか?私たちの考えなぞ、深淵なものではないのではないか。
真っ白な霧の向こうで、微かに見える彼らの生活。そして出会ったと思ったら、するりと手から溺れてしまう儚さ。私が感じたのはそういう感覚。ー
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何か物足りなさを感じた。
『緑の家』のような複雑に絡む物語と同じ手法を取っているのだけど、登場人物が少ないので平易に理解することができる。
しかしながら物足りなさも感じた。
そこまで面白い話ではなかったというか。
自分の読解不足かもしれないが、語り部がそこまで重要な人物であるのかがどうも掴み切れなかったので。
秘密の存在ならば他民族が語り部になりえるのだろうか、という疑問ばかりが残ってしまった。
青春小説として自分は読んだというのが正直なところ。
ジャンルは違えどもクラカワー『荒野へ』にも似た読後感があった。
青春・自我・文明の間で煩悶する青年像は優秀な人材にのみ許された特権だと思う。
ただそれも古臭い感は否めないのだけど。
またこの作品の場合、きっちりと現代文明を描写していることから、その対比としてのマジックリアリズムが鮮明になっており、そういった意味で非常に分かり易くなっている。
バルガス=リョサはこの作品に随分執心しているようだけど、そこまでのものかなと個人的には思ってしまった。
その辺を踏まえて読むとまた違った味わいが出るのかもしれない。
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好きなモチーフ満載なんだけど、思ったほどハマらなかった…。一瞬、盛り上がるポイントはあったんだけどな〜。やはり語り部の部分が最初、タスリンチって何?とかいろいろ考えちゃったらハテナだらけになってしまった。ま、そのハテナが徐々に気にならなくなっていくのが醍醐味でもあるんだが。
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語り部のことを小説にしたいと思う「私」と、(1・2・4・6・8章)
マチゲンガ族に飛び込んで語り手になる「私」。(3・5・7章)
頬に痣のあるサウル・スターラスが語り手に転身したことは謎でもなんでもない自明の筋だが、
語り手になろうと思った彼の内面が徐々に明らかになるのが凄い。
流浪のユダヤ人である(ペルーの白人社会の中ではマイノリティ)こと。
頬に痣のある畸形的な外見であること。
マチゲンガ族では畸形の嬰児を川に流すという風習。
どれだけの驚愕と怒りを自分自身の実感として受け止めなければならなかったことか。
自分のトーテムであるオウム、足が不完全に産まれた子を母オウムから奪い、肩に載せて旅をする、しかもかつての自分のあだ名「マスカリータ」(マ・ス・カ・リ・タ)を授けるなんて、感動なしには読めない。
もちろんマチゲンガの世界観(なんと悪魔の種類の多いこと! 神が身近であることよ!)にもくらくら。
むしろ上記した自己実現を重視する読み方は「小説の読み方」であって、
いくつもの制約や了解を内包しながらも語られる、異合文化の人が世界をどう認識しているのかという語りに恍惚と身を任せるべきなのかもしれない。
語り部によるカフカ「変身」や、タスリンチーエホバの息を吹き込まれた男(キリスト)の受難劇などの「語り直し」も興味深い。