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語り部のことを小説にしたいと思う「私」と、(1・2・4・6・8章)
マチゲンガ族に飛び込んで語り手になる「私」。(3・5・7章)
頬に痣のあるサウル・スターラスが語り手に転身したことは謎でもなんでもない自明の筋だが、
語り手になろうと思った彼の内面が徐々に明らかになるのが凄い。
流浪のユダヤ人である(ペルーの白人社会の中ではマイノリティ)こと。
頬に痣のある畸形的な外見であること。
マチゲンガ族では畸形の嬰児を川に流すという風習。
どれだけの驚愕と怒りを自分自身の実感として受け止めなければならなかったことか。
自分のトーテムであるオウム、足が不完全に産まれた子を母オウムから奪い、肩に載せて旅をする、しかもかつての自分のあだ名「マスカリータ」(マ・ス・カ・リ・タ)を授けるなんて、感動なしには読めない。
もちろんマチゲンガの世界観(なんと悪魔の種類の多いこと! 神が身近であることよ!)にもくらくら。
むしろ上記した自己実現を重視する読み方は「小説の読み方」であって、
いくつもの制約や了解を内包しながらも語られる、異合文化の人が世界をどう認識しているのかという語りに恍惚と身を任せるべきなのかもしれない。
語り部によるカフカ「変身」や、タスリンチーエホバの息を吹き込まれた男(キリスト)の受難劇などの「語り直し」も興味深い。
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面白かった!読みにくいけど....。岩波文庫の裏についてるあらすじと帯の引用がネタバレな気がする。とても気になる。それは置いといて、オウムがいい。南米の密林なんてぜんぜん興味がないのに、ワニ、荒々しい川、泥、空、熱病、それぞれがやけに素晴らしい。行きたくないのに行きたくなる。文化ってなんなん? 地縁とか血縁ってなに? それでも語り部がいて、どうやってなるかだれにもわからない、それを追い求めた彼は、気がつくとそこにいて。文化相対性とか少数民族の保護とか。普遍的なものがないと喧嘩になるんだろうか、とか。ただ友達のオウムは空を飛んでいる。我々の近くを飛んでいる。
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アマゾンの先住民、マチゲンガ族に伝わる民話?と、それを伝える語り部の物語。色々な動物の祖先やマチゲンガ族のしきたりの由来のお話はどれもこれも日本文化とは全く違っていて、とても神秘的で、読んでるだけで豊かな気持ちになれるし、そのお話に盛り込まれている教訓はいつまでも通ずるものがあると思いました。岩波文庫すげぇ
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語り部の物語を何故真実ではないと言える?100年近く前、宇宙が膨張している証拠が見つけられていなければ、ビッグバンは真実ではなかった。
そういうことだよ。
……そういうことではないか。
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この世に生を受けてからのすべての記憶や定義を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻してもう一度この世界を見つめることができたなら、すべてはどんな風に見えるのだろう? 最近そんなことを取りとめもなく考えることがあります。伊豆に移住してからの僕の中には、自分の五感が捉える日々の経験を形作っているすべての思い込みを初期化して、世界に流れた時間や時代に左右されない、無理なこととはいえ原型のようなものに触れてみたいというような、どこか願望じみたものがあるのです。
ペルーの作家 、マリオ・バルガス・リョサ(2010年ノーベル文学賞受賞)の小説、「密林の語り部」を昨夜読み終えて、改めてその感覚を強く覚えるとともに、現代の日本といういわゆる先進国と云われる国に住む者として、触れてみたいと思うその原型のようなものからはもはや遠く離れてしまったところに自分はいて、もしそれが出来たと思える瞬間があるとしても、それは単に独りよがりな自己満足に過ぎないのかもしれないという思いにかられ、今更ながらに今の自分の立ち位置を知らされたような気がしました。
「密林の語り部」は、自分の育った社会と習慣、そして文字通り文化・文明を捨ててアマゾンの密林の中へと分け入り、少数の集団としてあちこちに分散しながら、おそらくは太古からのままの生活をつづけるマチゲンガ族の人々の中へと同化し、彼らの間を渡り歩きながら、文字にも絵画にもよらずただ口を通し言葉によって物語ることにより、現代の文明に侵食されずに残り伝えられる、古来よりの、彼ら自身の始まりと生存の鮮烈な物語を、マイノリティであるマチゲンガ族の原型とともに残そうと密林の語り部となる、転生と言っても過言ではない青年の生にふれて描いたものです。
そこにあるのは決して単なる衝動的な文明への拒絶や過去への回帰などではなく、西欧の〝進歩的な文明〟が必ずしも人間に幸福をもたらすに足るものとは言い切れないという、ある種の自省的な感覚と見切り、そしてマチゲンガ族が辛うじて保つことができている純なるものや状態への決意のともなった愛情であり、先にふれた、ひとつの個として経験しているこの世界の原型にもしもふれることが出来るのなら、そうしてみたいという僕の願望とも微妙にかぶるような、今の僕にとっては静かに共感を呼び起こすものでもありました。
しかし同時に強く思い知らされるのが、僕にはとてもこのような生き方は出来ない、という、羨望と諦観、そして安堵が混ざり合った、夢から醒めたような感覚です。自然に恵まれた伊豆という場所に住みながら自然回帰的な情緒に親しみつつも、僕自身はもはや手放せない幾つもの便利さや物質の中で生きているのが現実であって、自然そのものも、既に人間の作り上げてきた社会の中に組み込み済みの資源や装置であるかのように捉えられつつある社会の中で、自然との関わりについて、利用者、さらに言えば簒奪者のようでもある人間の姿を自分自身も持っているということ、それを突きつけられたようにも感じました。
読みながら思ったことのは、「へえ〜、彼らの目にはこんな風に世界が見えるんだ」・・・という世界観の面白さでした。それは、もしもすべての記憶を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻して世界を見つめたなら、どんな風に見えるだろう? という冒頭にふれた僕の最近の興味にも通ずる風景を見せてくれるものでもありました。
密林の住人たちが夢中になって耳を傾ける、語り部の口から止めど無く溢れてくる神話や昔話、ホラ話は、時系列もバラバラであたかも時空を自由自在に飛び回るように取りとめなく語られて、それはさながらジャングルの中で道に迷い、そのすがら幾つものビックリ箱に遭遇して驚かされるようなもので、筋道立てた論理を基にして考えることに慣れ、科学の知識や住み慣れた社会の常識から容易に外れることの出来ない現代人にとっては、今まで経験したことのない読書体験をもたらしてくれることと思います。
それでも、彼らの対岸で生きているに等しい僕にとって、それらの話は、読みながら時々とても意味深いものとして働きかけてくるように思えました。心にふれてきたのは、マチゲンガ族の人々にとり、目にするすべての光景は、今であると同時に過去を含んだプロセスそのもなのかもしれない・・・そう感じたことです。
すべてのものは、今とは異なるありさまの時期があり、すべての何かは且つては別の何かであった時を経て今という経験に至っているという世界観。太陽や月や星であれ、石や木や川であれ生き物であれ、そこには何かしらの道筋と物語があり、彼らはその物語に沿って目にする事象のあれこれへの敬意と畏れの念を抱き、空と大地と川に依り沿って生きるものとしての慎みと義務のようなものを育んでいるように思えたのです。
「大地が嘆いているのなら、何かしなければならない。どうしたら太陽や川の力になれるか?どうしたらこの世界と生きている者の力になれるか?」と、答えを求めるのでもなく問う語り部の言葉・・・アマゾンの密林に住む未開の人々が、このような精神性を持っているということ、その意味は、ごく〝普通〟に文化的生活を送っていると自認する現代人の日々の営みの在り方にも自問自答の機会を投げかけるものとして僕には感じられました。
どんな生き物にも、その種ごとにそれぞれ求められ、独自に表し得る〝らしさ〟というものがあると思います。鳥には鳥らしさ、犬には犬らしさ、ライオンにはライオンらしさ、という風に。では、人間が持つ素養に照らして、誰もが認められる人間らしさとして挙げられるのは、いったいどんなことだろう?
アマゾンの密林に住む未開の先住民の姿。人間らしく生きるということに本来と言っても良いような意味が何かあるとするなら、それをもう一度考えてみるようにと、より開かれ、文化的である故により賢明であるはずの現代人の認識に対して、彼らの存在そのものが改めて問いかけてくるように感じます。
博愛的な考え方をすれば、原始時代と変わらない生活を営む彼らを、僕らが当たり前のものとして享受している文明によってもたらされた利便性や物質の豊かさ、求めて当然と考える主張すべき権利についての気付きへと彼らを導き、より開かれた文明人となるように促すことが、彼らの為にはなるはず・・・流れとしてそう思えてもきます。でも、古くはスペイン人によるインカ帝国の滅亡にまで遡る西欧による南米に対する搾取に満ちた歴史(僕は甚だ勉強不足だけど)や、おそらく現代にも残っているかもしれない同様な風景を想像するに、本当にそうだろうか?とも思えてきます。(その逆についても同じことが言えるけど)
もし、すべての記憶や定義を消し去って、真っ白な状態で世界を見つめたらどんな風に見えるのだろう? 僕にとってマリオ・バルガス・リョサの作品は、この「密林の語り部」が初めて読んだ小説なのですが、伊豆に住みながら、日毎に目にする空や海の風景をいつも初めて見るような気持ちで見つめたいと思っていた僕には、密林の中を彷徨いながら、固定観念のタガを気持ちよく外してくれる経験を垣間見せてくれる恰好の読み物とりました。
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純粋にワクワクできますし、それでいて皮相的ではなく、非常に良かったです。
混沌としたものを混沌としたまま描いているので、
それをそのまま受け止めて楽しめるのが面白かったですね。
ああ、異世界ってこういうことかと思わせられますし、
それが物語に存分に活かされているんだから脱帽です。
アマゾンの密林がありありと目に浮かぶ表現も良いですし、
物語で人を引き込んで構成で衝撃を与える手腕も相変わらず凄いです。
物語の中核をほのめかす形で提示しているので、
事前にカフカの『変身』を読んで、
それと多少はユダヤの歴史を知っていた方が理解できるかもしれません。
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味わったことのない読書体験。物語そのものに引力があって引き込まれた。語り部という存在、語る言葉、その全てが楽しく幸せだった。
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顔半分にアザのある大学の同級生がどうやら未開部族の「語り部」になったらしいことに「語り手」が気づき、その後、「語り手」と「語り部」の物語りが交互に展開されてゆく。自然と文明だけでなく、西洋と第三世界、ユダヤとイスラムの対立を描いていて、「語る」という行為の本源というよりはむしろ人間の同一性そのものを問題にしている気がする。欧米の60年代(政治の季節)を第三者的視点から捉え直し、フィード・バックした小説。
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幻惑の密林。アマゾンが無くなる前に行って見たくなった。名前に慣れてないので人物が一致しなかったのが読みづらさを感じた。緑の家も読んで見たい。
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相性なのか、
ぐんぐんと物語に引き込まれることはなかった。
「語り部」の役割を知りたくて読み始めた、
目的的な自分の態度も大きく作用しているのだろうけれど。
○
人間は、いきなり地上に落とされ、
そこで生存する方法を知らされるまもなく、
生きることを強制された、動物である。
どのような民族であれ、
あるひとつの生活を形成していった背景にはいくつもの失敗があり、
痛みがある。
ある民族の有す生活習慣とは、
そんな共同体が歴史的に積み上げてきた血であり、記憶であり
自然との共生を宿命づけられた人間が模索してきた
暫定的な生の解だと言える。
語り部とは、そのような共同体の記憶が培ってきた「生きる方法」の先鋭を知るもの、
つまり「智慧ある者」である。
西洋で言えば、「キリスト」にあたるのであろう。
現代の、例えば資本主義にひた走る中で、
「物語り」が果たすべき役割とは何であろうか。
そしてそれを担うべきは誰だろうか。
この世界には確かに宇宙が導いていくような「イマージュ」が存在する。
そのイマージュを実現させる過程として、
インターネットや資本主義の発達があったとするのならば、
人類史というものは全く間違った方向にはいっていない。
誰もしることのない「神の声」へと人類が近づいていくことは、
例えば一人の人間が禅的な境地へと着地することの困難を考えてみただけでも、非常に骨の折れる仕事なのだ。
○
自分の感情を抑えられないと、自然界に何か破局をもたらすのだ
しかし、これがあるべき姿だから、それを尊重しなければならない。森と調和して何百年も暮らしてこれたのは、そうしてきたからだ。彼らの信念を理解できないとか、ある種の習慣に良心の痛みを感じるからといって、彼らを滅ぼす権利はない
残酷さの別の側面。生き延びていくために払わなければならない代価
語り部は、現在の便りだけを持ってくるのではないという気がする。昔のことも話す。たぶん、共同体の記憶でもある。
彼は目に浮かんでくるものを話す。変わっている、脈絡なしに、現代詩みたいなものだよ
ある人にとってほんとうに大切なことは神秘に包まれていますよ
語り部が話すように話すことは、その文化のもっとも深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神話の神髄をきわめて、先祖からのタブーや言い伝えや、味覚や、恐怖の感覚を自分のものとすることだからだ
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南米ペルーのウルバンバ川流域に住むマチゲンカ族。語り部の口を通して繰り広げられる、彼らの転生・放浪の物語。時間や空間を超えて、人間と動物の垣根は取り払われ、魂は流浪する。その様がペルーの原住民の暮らしの息が感じられる語り口で語られ、とてもわくわくした。わかりにくさはあるが、これはそういうもんだと思えば苦ではない。
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バルガス=リョサは最も好きな作家の一人だ。今まで読んできた彼の作品はどれも、近代的社会と前近代的な文化という二つの世界を対位法的に描くことで世界の可能性を暴き出しながら深い感動へと導いてくれる。密林の向こう側から紡がれる物語はかつて語る事が社会そのものであったという事実を私たちに突き付け、それをこちら側の世界から懸命に語ろうとすることでその可能性を乱反射させる。例えそれが解読困難な呪文の様なものであろうとも、遠い世界に手を伸ばそうとする事を決して諦めてはいけないと思わさせてくれる素晴らしい読後感であった。
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現代は西欧的なモノの見方を根底に判断するのが当たり前のように受け入れているが、認識したモノに対する解釈の与えかたや考え方の体系は文化や文明に因って様々で、優劣をつけるべきでもないのだということを再認識させてくれる。
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私は怒りを感じる。〈車や大砲や飛行機やコカコーラがないからといって、彼らを滅ぼす権利があるとでもいうのだろうか?〉宣教師たけでなく民俗学者も悪だ。彼らと共に生活し、ジガバチが芋虫に産みつけた卵から孵る幼虫のように彼らの内部から破壊するのだ。マチゲンガ族はロマのように放浪する民。しなやかな強靱さをもつ。語り部は物語る、世界の生成、月と太陽、善き神と悪魔、死者の国、タブーなどを。顔に傷のあるカシリの偽りの光ではなくタスリンチに息を吹き込まれた真の光だった。密林から呼ぶ声がする。マ・ス・カ・リ・タ…
〈聖書、二言語の学校、福音の指導者、私有財産、金銭の価値、商業、洋服…それらがすべて向上に役立つと言えるだろうか?自由で独立的な《未開人》から西欧化の戯画《ゾンビ》への道を進みはじめてしまったのではないか?〉これはマチゲンガ族だけの問題ではなく、北アフリカを除くアフリカやオーストラリア、オセアニア、東南アジアなどにも当てはまる。民族自決とはヨーロッパにだけ適用されるもの。ダブルスタンダードだ。なぜ彼ら自身に選ばせないのか。自分たちの経済システムに組み込み、収奪するためにほかならない。
生物多様化、進化論が正しいとするならば太古の昔から生命は常に進化してきた。ならばなぜ進化の頂点とされる人類に一元化されないのか。それは多様化により様々な環境に適応し、分科することにより絶滅することを防いでいるのではないかと思う。人類も居住範囲を拡大し、環境に適応して多様な文化を築いてきた。大航海時代より近代社会への転換をせまられるようになった。現代はさらに経済システムまでもグローバルスタンダードの名の元に一元化されようとしている。それは人類の滅びへの道ではないのか。
マチゲンガ族は決して怒るなと言う。〈《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出会うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。〉これが彼らのしなやかな強靱さの秘密だ。西洋哲学や仏教などに勝るとも劣らない哲学ではないだろうか。
ストーリーと語り部の物語が対位法により交互に語られる様はバッハのトッカータやフーガのようだし、フィレンツェと密林もまた対応関係にある。『ドン・リゴベルトの手帖』はこの発展系かもしれない。さりげなく?カフカを織り込んであるのも見事。ダンテやマキャベリにも言及されそれぞれ照応関係にあるようだ。カルペンティエル『失われた足跡』と読み比べてもおもしろいかもしれない。『緑の家』とも関連があるようだ。
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ひどい痣を顔に持つ友人マスカリータ、「私」の思い、アマゾンの少数民族の世界、そこで語られる神話、彼らが「文明化」にさらされること。様々な要素が交錯して書かれている。
逐一ガチガチに理解しようとするよりも、彷徨うように読み、何となく物語を感じながら読むことを選んだ。そういう楽しみ方をする本だと思う。
「私」は密林に消えた友人マスカリータを追わずにいられない衝動をを持つが、明らかに別の立場と道を歩んでいる。マスカリータは正しかったのか、文明のありかたとは、などと色々と考えさせられるのだが、結論が出るものでもない。多くの人は「私」と同じ立場に留まり遠くから彼の地を思うことだろう。
奮起して密林の部族の力になりたい などと思って行動すれば、必ず私たちはマスカリータが忌み嫌った言語学者やキリスト教の神父や研究者など、善意の悪者たちになってしまうのだ。