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「考える人」の連載から。多分、連載中もいくらか目を通していたのかもしれない。文庫になって、写真もきれいだし、ウィーンには思い出もあるし、ということで久しぶりの養老本購入。どこかで読んだことがあるような話題は多いのだけれど、初めての情報もあるのかも。心臓を分けて埋葬するというのはおもしろい。胸が熱くなることもあるから、そこに何かがあると思ってもおかしくはない。日本の土は酸性で骨が残らない。ヨーロッパはアルカリ性で、骨の保存状態がいい。なるほど。カタコンベ、入ってみたいような、気味が悪いような。そう言えば、ウィーンでペスト記念柱を見た。どさっどさっと、死体が山盛りだったんだろうなあ。ミラーニューロンについては、どこかで、否定的な話も読んだけれど、養老先生のポルノ論もおもしろかった。見るだけで感じ入るわけだけれど、末端に刺激がないと、最後まで行きつかない。歳のせいか、以前からもそうだったのか、どうも断定を避ける文章が多い。確かそうだったと思う、など。もう調べるのも面倒くさいのか、ウラは取っているけど、そういう表現にしているだけか。解説がSF作家のようだけれど、これは、若い人にも養老本を読んでもらおうとの意志がはたらいているんだろうか。「メメント・モリ」高校の聖書の時間にならったなあ。
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ヨーロッパの死生観と身体性。
前半で語られるハプスブルク家を代表とする貴族、並びにユダヤ人の埋葬習慣は、現代の日本で主となっている火葬になれた人間としては非常に奇怪な風習に感じる。読み進めていく中に示唆される、「死者」との距離とその結果としての身体性を表現した墓のあり方が、年齢を重ね親族の死に立ち会う回数の増える自分には非常に興味深かった。
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関連する書籍が気になって仕方ない。。
知識欲に火をつける一冊になった。
養老先生の本を読んだのははじめて!
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世界の趨勢だと思うが、社会が死を排除しつつある。大きくいえば、自然を排除する方向にいっている。すべての文化が、死によっておこるマイナスを補償する装置のようなものを備えるに至った。身体に関することをタブー視するようになった。
「メメント・モリ」・・「死を忘るるなかれ」
二人称の死・・・身体にこだわっているハプスブルク家の埋葬儀礼
死と共に「あの世」に移行する日本
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養老先生の旅日記のようでもあり、思索集のようでもあり、死生観に関する随筆のようでもあり。不思議な内容ながら、自分が行ったことのないドイツ・オーストリア・チェコの教会や礼拝堂といったものへの関心と、巻頭の写真の美しさに惹かれて一気に読了。
数万人分の人骨が組み立てられ、一大装飾と化している礼拝堂の写真なんかはインパクトが大きく、日本人の感性としては「こんなところにホトケさんを見世物のように晒すなんて!」とか思ってしまうのだが、この「死者をホトケさんと見て、自分の周囲から切り離す」という概念自体が日本人的であり、西欧の思想とは異なるのだ、というのがこの本を読むと分かる。日本人からしたら「見世物」のように映る人骨の使い方や、あるいは死んだ聖人を多くの信者が見られるようにする細工などもこの思想によるものなのかもしれない、と思わされ、死や死者に対する捉え方の違いについて、何となくではあるが理解することができた。
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2年ほど前にこの著者による『遺言』を読んで、何とも面白い語り口をする人だと感じた覚えがありまして。この本も、そうした著述の妙というか、死や死者といった社会がタブー視している内容を、かなり高度なことを述べているんじゃないか、ということをハードルを下げて、まるで居酒屋で酩酊しながら隣のおっちゃんがわかりやすく話してくれるような、そんな雰囲気で述べてくれる。
内容としては、欧州への旅を通しながら、そうした死や死者についての考察を、ヨーロッパでの心臓信仰や骸骨の扱い方や墓の在り方等を通して、深めていってくれる。「墓ぐらい、役に立たないものはない。(中略)そういうところ(=街の中央にある鎮座する墓場)を訪問すると、経済も効率もない私の人生にすら、なにか意味があるような気がして、気持ちが和む。いくら合理性を追求したって、いずれはお墓だよ」、なんて、ふわっとした感触で深いことを言えるのは、養老さんくらいじゃないかな。
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思いつくまま書きたいことを書き連ねたというような印象の文章なので本筋が見えにくいところがあったが、興味深い考えとか気になる情報がところどころちりばめられていて、読んでいておもしろかった。
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欧州の場合には、都市住民の文化と、森の住民の文化は、ほとんど決定的に断絶している。都会人は森の人を人と見なさなかったのであろう。それは欧州の被差別問題によく示されている。その境界がどこに位置するかというなら、自然の力を借りて生業を営むのは、都市に住んでいても、むしろ被差別民に属した。だから「美しき水車小屋の娘」なのである。身体もまた自然だから、身体を直接に扱う生業は、全て賤業に属した。医者と言えば内科医だった。外科医は理髪師で、産婆やペディキュア師と並んでいたのである。
2019/10/6読了
――へぇ~、今では考えられん価値観である。