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人の手が介在する余地を残していたり、不完全さ故に人が歩み寄りたくなるロボットの話。
週刊ロビでゴミ箱ロボットのことは知っていたが、そのコンセプトまではよくわからなかったので面白く読めた。技術屋の端くれとして、際限ない機能の向上や要求に対応するアプローチの一つとして覚えておきたい視点。
文章は読み易かったが、どういう意味合いで使っているかわかりにくいカタカナ語や用語がいくつかあったり、肝心のロボットの機能面の説明が少なく頭に描きにくいところがあったのはもう一つ。
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☆1つマイナスにしたのは思ったより専門的な言葉が多くて、とっつきにくい面があったから。ロボットや工学に興味のある人はいいんだろうけれど、文系の私には少し読みづらさがありました。
でも紹介されている〈弱いロボット〉たちは新鮮で、そこから導かれる支えあいの関係性も非常に納得がいくものでおもしろかったです。
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この蟻の行動の軌跡の複雑さは、必ずしも蟻内部の複雑さを反映したものではない。むしろ、その多くは、その蟻を取り巻いている環境の複雑さを反映したもの
人の流れ、通りの看板、由緒ある石畳の路地、建物の装飾など、その町が私たちを歩かせてもいる
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むちゃくちゃ面白かった。「弱い」ロボットとはどういうことか。市場のわがままに答えて「役に立つ優秀な人の代わりになる」ロボットを作ろうとすると、ロボットはどんどん効果になり、正確性を求めて融通が利かなくなり、人との関係性は固定化されたものになり、人とロボットとのコミュニケーションは薄れる。人はもっと完璧なものを、と傲慢になる。人と関係を結ぼうともじもじすることは内に向かっているようで外とつながりを求めていること。それを見て人はつい手を差し伸べたくなる。それが「人らしい」コミュニケーションの一面ではないか。人との意思疎通に悩む人、人の「気持ち」を理解するのが苦手だと思っている人におすすめ。
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お掃除ロボットの理想像は、人間が何もしなくても部屋を掃除してくれるというもの。現在、ルンバに代表されるお掃除ロボットは、椅子の下や物が置かれた場所は掃除できないため、人間がわざわざ椅子をずらしたり、床から物を排除したりしなければならない。そこにはロボットと人間の双方向のコミュニケーションがあるという。
確かに理想的なロボットでは、人間は読書や仕事など自分の興味に集中する傍らでロボットは掃除するという、ディスコミュニケーションが生まれる。しかしルンバの行く先を予測し、人間はその先にある障害物を取り除いてあげる、その結果ルンバは部屋をきれいにする。一見、面倒な作業が見方を変えるとロボットとコミュニケーションしているという発想が非常に面白かった。
その他、自分で拾わず人間にごみを拾ってもらい、お礼を言うゴミ箱ロボットや、雑談をするだけのロボットなど、いずれも不完全で人間がいないと能力を発揮できない代物が次から次へと本書には登場する。
ロボットにとってかわる未来に恐怖心が募るご時世だが、案外こうした"弱い"ロボットとの共生が理想的な社会なのかもしれない。
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ただ一緒に並んで歩く「マコのて」、発話に反応するだけの「む~」、自分ではゴミを拾えなくて周りの人に手伝ってもらう「ゴミ箱ロボット」。次々と妙なロボットを作り続ける著者が、研究から市販のお掃除ロボットも含めた、ロボット開発側の視点や知見から、人間らしさやコミュニケーションとは何かを考察する。
お掃除ロボットが周囲の壁にぶつかり人の手を借りながら作業を進めていき、私たちがその姿になぜか健気さを感じるように、人間は単独で存在する「閉じたシステム」ではなく、周囲との関わりのなかから在り方を見い出す「オープンなシステム」であるということが、繰り返し強調される。人との関わりのなかでしか存在できないロボットたちの開発やロボットに対する人々の反応を通して導かれる、「弱さを隠さず、ためらうことなく開示しておくこと」、「とりあえずやってみて、周りの反応を見て次の動きを決める」ことが本来の人間らしい在り方だという見解には、人との関わり方について改めて考えさせられる。また、お互いを参照しながら自らの動きを決定するコンピュータープログラム「目玉ジャクシ」の例から、それぞれが自然とコミュニティのなかでニッチを獲得して棲み分けが進んでいく例からは、個性や自己というものが社会における関係性あってのものだと思い知らされる。
書籍としては、全体としてしっかり構成されているというより、個々の事例に対する考察の積み重ねをまとめて一冊にした形となっている。そのため重複や散漫になる部分も少なくはないが、結果的に人間が何であるかに対する主張は明確に打ち出されている。一風変わった研究をはじめた著者自身の動機が「何となく」だったということも、本書のテーマとのつながりもあって面白い。
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国語科の教科書に岡田さんの文章が載っているので,教材研究として読んだ。テクノロジーの進化は豊かな生活を生み出すけれど,その先には何があるのかという岡田さんからの問いかけ。人とロボット,そして人と人をつなぐきっかけとなるロボットの発明は今後必要だろうと感じた。
そして,弱さを見せ合い,それぞれの強みを出し合って支え合うことの大切さを改めて感じさせられた。
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「弱さ」の価値を、ロボットとのコミュニケーションを通して考えた本。
「なんでもできるロボット」は、ひとつでもできないことがあると「何でできないのか」「こうしてほしいのになぜしないのか」と責められてしまう。反対に、「できないことの多いロボット」や「そもそも役に立っているのかよくわからないロボット」は、人を手伝ってあげたい気にさせたり、意外に役に立つものだと思わせたりしてしまうらしい。
なんか、これを子どもに当てはめると可哀想な気持ちが湧いてくる。「できる子」ほど出来ていないところを厳しく指摘されて出来るようになるまで追い立てられて、「できない子」はちょっと出来るようになっただけで褒められたり、存在価値を認められたり、という現実の姿に重なってしまう。
能力主義(メリトクラシー)の功罪が主に経済格差の観点から指摘されるようになっているけれど、こういうコミュニケーションの側面からも問題が指摘される必要があるなぁ、と思った。
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石黒浩著「アンドロイドは人間になれるか」(文春新書)と同様。人間を外化、モデル化することでコミュニケーションとは何か探っている。頭のいい人の話が、心に響かないのは、ご説ごもっともで自己完結しているためのようだ。
以下、引用
● 部屋の壁や椅子を味方につけながら(そのことを意識しているかどうかはおいておくとして・・・)、結果として部屋のなかをまんべんなくお掃除してしまうロボット、それとプランをたてながらテキパキとお掃除をするちょっと進化したロボット。前者はちょっとゆきあたりばったりで、あまり深く考え込むことのない行動派タイプだろうか。後者はやや慎重に行動を選ぶけれど、なかなか臨機応変に振舞えない熟考派タイプ。さてどちらがスマートといえるのか。(中略)「行動派か熟考派か、あなたはどちらを選ぶのか」というのは好みの問題かもしれない。けれども、前者のゆきあたりばったりでの行動様式には学ぶところはありそうだ。その一つは「とりあえず動いてみよう」という姿勢だろう。いい加減にも思えるけれど、そのことで周りにあるモノや制約を生かしつつ、一つの物事を成し遂げてもいた。それと「偶然の出会いを一つの価値に変えている」というような側面もある。後者の熟考派タイプは、几帳面に淡々と物事をこなせるように見えるけれど、こうした意外性には欠けるようなのである。
●なぜ複雑な絵模様を描くのか。サイモン曰く、「この蟻の行動の軌跡の複雑さは、必ずしも蟻内部の複雑さを反映したものではないだろう。むしろ、その多くはその蟻を取り巻いている環境の複雑さを反映したものなのではないのか」
●わたしたちの身体というのは、自分の内側から眺めるとき、必ずしも完結したものになっていない。そうしたこともあり、それを取り囲んでいる周囲を味方につけながら、それらと一緒になって一つのシステムを作ろうとする。そのように外に開いた「オープンなシステム」としてとらえなおすことができるだろう。
●自分の内側からは自分の姿が見えないように、いま自分はどんな状態にあるのか、どこに進もうとしているのか、自分のなかからはじゅうぶんに把握できない。同様に、自分の行為の意味なのに、自分のなかに閉じていては知りえない。なんとも心もとないことなのだけれど、そうした制約というか、自らの<不完結さ>を、わたしたちを取り囲んでいる周囲を味方につけながら克服しているようなのだ。いわゆるクルマを運転するコツは、自分の力だけでクルマを操りたいというこだわり捨てて、自分の行為をいったん周囲に委ね、結果としてその周囲からナビゲートしてもらうという方略の転換にありそうだ。周囲と一緒に「一つのシステム」」を作りながらクルマを操るというスタンスを取れるかどうかだろう。
●言葉を繰り出そうとするときというのは、この自らクルマを操ろうとする場面によく似ている。それを繰り出す瞬間において、その発話の意味や価値は必ずしも完結したものではない。そこで伝えたいことも漠然としている。それでも、なにげなく言葉を繰り出すなかで、その意味や役割がおぼろげに見えてくるのだ。
●一つの製品の価値や役割を完結させ、それを確かなものとして届けるというのは、企業とユーザーのあいだの一つのコミュニケーションの姿にはちがいない。けれども、こうしてユーザーに半ば委ねながら、一緒になってオリジナルな価値や意味を生みだしていくというプロセスも、一つのコミュニケーションの姿ではないかと思う。ここでも「とりたてて役にたちそうもない」というロボットの<不完結さ>が以外にも肝になっているようだ。ユーザーに委ねつつ、その解釈や意味づけに参加する余地を与える。そのことで、モノの意味や価値を生みだす主役は、送り手である企業から、むしろ受け手側のユーザーに半ば移っている。あるいは、企業とユーザーとが一緒に新たな価値や意味を作り出すという共同の場を生みだしている。(中略)いまではオープンイノベーションという言葉がある。(中略)その意味で<AIBO>はそのはしりだったかもしれない。
●この「倒れそうになる動作をむしろ歩行に生かす・・・」とうスタンスは、この歩くという行為に限らず、」いろいろなところに見いだせるように思う。(中略)先に紹介した、「でー、柱、黒い、黒い柱が、おっきい太い黒い柱が、ぬっと出ている、なんていうかなあ・・・」という発話なども、ほんのすこし前のめりになって歩く感じがする。(中略)結果としては、多くのいい直しやいい淀みをともなう非流暢な発話になってしまうのだけれど、よそゆきで流暢な言葉よりも、むしろ「自分にすーっと近づいてくる」ような感じがする。こうした発話に対して聞き手として思わず耳を貸してあげてしまうのだ。なにげなく歩くときの地面との切り結びの様式に、あるいは重力に逆らいつつも、「おっとっと」と身体のバランスを維持しようとする姿に、ある種の同型性を感じてしまう。これは試行錯誤しながらの発話に対しても同様なのだ。
●先に述べたように、わたしたちの共同行為を生みだすためのポイントは、自らの状況を相手からも参照可能なように表示しておくことである。「いま、どんなことをしようとしているのか」「どんなことに困っているのか」、そうした<弱さ>を隠さず、ためらうことなく開示しておくことで、お掃除ロボットは周りの手助けを上手にひきだしているようなのである。もうひとつのポイントは、相手に対する<敬意>や<信頼>のようなものではないだろうか。お互いの<弱い>ところを開示しあい、そして補いあう。一方でその<強み>を称えあってもいる。(中略)人とロボットの共生という言葉があるけれど、自らをわきまえたお掃除ロボットは、わたしたちとのあいだで、持ちつ持たれつという共生をちゃっかり成功ささせているようなのである。
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間借り本屋トカクで取り扱っている本の紹介。
弱いロボットを初めて認識したのは確かインターネットの記事だったと思う
そこで紹介されていたのは 自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボットの話だった
ゴミを見つけるとオロオロオロオロとその 周辺を周り まるで困っているかのように見せる
そして通りがかりの人が拾って 自分の中にゴミを入れてくれたら まるでありがとうと言うように礼をするのだ
これめちゃくちゃ可愛いなと思ったのは 覚えている
この岡田先生の本に出てくるロボットは 一般的に想像されるような便利なロボットではない
愛玩のロボットに近いがそれに全て当てはまるというわけではない
難しい話はしないがきっと目の前にこれらのロボットがいたらめちゃくちゃ可愛いんだろうなと思う
可愛いと言うか愛おしいと言うか
想像するだけでキュンキュンしてくる
それは例えば 言葉の通じない生き物が2匹でじゃれあってるのを目の前で見るとか 何も言わずぎゅっと 袖を握ってくるそのいじましさとか そういうものだ
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『弱いロボット』から約5年後に書かれた本書は、新書らしく、「弱いロボット」という概念の思想を体系的に述べており、合わせて読むとおもしろい。
圧力がある存在は抵抗があるが、一方で存在感がないと社会の一員になれない、その谷の乗り越え方は、単に「非力」「低能力」ということではない。「弱い」という語からはそのような印象も受けるが、それでは社会に組み込まれない、お互いの不安定さを支え合う信頼性、という考察は興味深い。