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日本人の父と台湾人の母を持つ主人公が、母の言葉である「中国語」を学びに上海に留学。
日本人に見えるけれど中国語を話せる、とか、母が台湾人ならもっと上手く中国語が話せるのではないかとか、帰化した中国人の両親を持つ子どもの母語は日本語が、とか…ナニジンでナニゴが喋れるかという絶妙なややこしさを軽やかに描き出して見せているなと思った。
日本人の母と台湾人の父を持ち、日本語を話すように育てられたリーリーや、正確な?中国語を「普通語」として教えようとしている上海の漢語学校教師、関西弁と中国語を話すシュンヤ。
シュンヤが「言語と個人の関係は、もっと自由なはず」と言う、これがテーマかな。
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アイデンティティと言語の問題、について考える。
日本人の父と台湾人の母をもつ琴子、台湾人の父と日本人の母をもつ嘉玲、日本に帰化した中国人の両親をもつ舜哉。日本で暮らし、中国語を学ぶために上海の語学学校に短期留学する3人の一ヶ月。
アイデンティティにも思考言語にも葛藤をおぼえず生きてきたので、こういう複雑さが興味深かったし、葛藤そのものが青春だな…と懐かしい感じもしたし。
で、そもそも、日本人とは、何をもって日本人というのだろう?
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複数の国の親を持つ子どもたち(といっても主人公が20歳頃の話が中心だが)が、留学先で同じような境遇の仲間と出会い、自分のアイデンティティに対峙する物語。「真ん中の子どもたち」というタイトルは「子どもが真ん中」という意味合いかと思って読み始めたが、そうではなかった。「国境のこっち・あっち」ではなく、自分を「真ん中」に据えた子どもというニュアンスだろう。
上海を舞台にした話で、要所要所に出てくる「におい」が印象的だった。
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「そのことばは、私たちのような子どもを侮蔑するためにある。でも、そのことがどうして私たちを貶めることになるの?」というフレーズにじーんとする。
言語と個人の関係性はもっと自由でいい、というのにもあかるくひらけた気持ち。
温又柔さんの本を読むと、自分の中の「○○人」の解像度がまた一つ上がる。