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司馬氏のエッセイ集です。親交のあった様々な作家さんの評価なども含まれており、また小説とは違った楽しさがあります。
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没後5年に刊行された単行本が、この度文庫化されました。
膨大な量のエッセイから厳選して集められたエッセイの数々・・・。
司馬さんについて知るのにいいかもしれません。
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司馬小説のあとがきのあとがきといった感じの本ですね、これまで書いた様々な小説のバックボーンや司馬さんの意図などが良く見えてきますよ。
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読めば必ず面白くためになり血肉になるとわかっていてもだいたい娯楽本に手を伸ばすこと多しで、しばらくぶりに読みました。司馬さんの本。文明と文化について、浄土思想について、さまざまな方への追悼文や思い出を語った文章などなど、膨大な量のエッセイから厳選された1冊。
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司馬遼太郎の文体は、読んでいると影響されるから困る。
でもなんか好きなんだよなあ。
キザっぽいからかな。このタイトルとか、もろに。
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・2/15 久しぶりの司馬遼太郎だ.それにしても厚い文庫だ.また同じようなことが何度か出てくるのだろうか.何回読んでも知らないことが多すぎて覚えられないのは、やはりもどかしい.
・2/23 後もう少しで終わりに近づいてきたが、なかなか終わらないものだ.何故か後半には弔辞が多いように思う.いろいろ雑多な内容が含まれているだけに、興味のあるものと無いものとが混ざっている.興味のあるものはすごく面白いしためになる.そんな都合よくはいかないということか.
・2/24 読了.やっぱり俺の知ってる密教や仏教、正岡子規なんかの話の方が面白いな.うーん、難しい.そのうち分かるようになるんだろうか.
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エッセイ集。「司馬遼太郎の考えたこと」に掲載の重複があるが、あらためて宗教面の造詣の深さに感心した。抹香くさくなく、仏教に興味を覚える。11.8.15
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司馬遼太郎が書いてきたエッセイ71編。色々なテーマが取り上げられており、読んでいて飽きない。その中でも、人物についてのエッセイがいいかな。
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エッセイ集。氏の文章は小説にしろなんにしろ門外漢にもわかるよう懇切丁寧に書かれているのが特徴だが、唯一仏教関係だけは背景説明が薄い。真宗とか密教とか全然わからん。でも、それだけ氏は仏教に深い思いがあるんだろうなぁと思ったり。
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司馬遼太郎という人間の人との関わり方が記されている。現在の価値観では極端と思われる人が多いが、凡庸でない人とはそういうものであろう。
こういう文章をリアルタイムで、読むことができたらと想像してしまう。
司馬さんが存命であれば、21世紀をどのように見られるのかが、妄想が膨らんでしまう。
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それぞれいろんな時期に書いた随筆の組み合わせ。
ジャンルごとにまとまっている気が。
街道を行く
みなきゃだめか。
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司馬遼太郎について語るのも何ではありますが、故人を顕彰する文章や弔辞にも趣きと気品がありますな。思わず読んで、観て観たくなります。個人の器の中に溢れんばかりのというか溢れる知識と思想を抱えてた時代の風景を感じます。
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司馬遼太郎の厳選された七十一篇のエッセイ集が本書である。知識量の膨大な作家の思考をなぞる事で、俗世界から一時的に開放されたような癒し効果がある。
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まったく知らない人とかの弔辞など、非常に何回に読めてしまいますが、知っているとたいへん興味深い内容なのでしょう。
朝鮮半島との関係、言語の生い立ち、ふいに関心をあてられる地域や人など(宇和島人、バスク地方)、読んでいると飽きないのと、それまでもちえなかった視点がもてる気がします。
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毎夜寝る前の30分ほど読んでいましたが、この本を読むと不思議に神経が休まり、安眠に導いてくれるのです。
500ページ以上のボリュームがありますが、司馬遼太郎の豊穣な世界に改めて酔うことの出来る一冊です。
以下興味を持った箇所の一部です。
『裾野の水』
「かつて『箱根の坂』という作品を書いたとき・・・富士の描写については自分の臆病さがつらくなるほどで、できるだけそれに触れることを避けた。実をいうと、西にいる者にとっては、富士ほどわかりにくい山はない」
『概念! この激烈な』
「私には、物事を悲観的に見たがる傾向はない。しかし朝鮮・韓国人と日本人の集団対集団の間柄については、楽観的気持ちを持ちかねている。隣人として、たがいの文化と歴史を理解し、尊敬しあえるときがくるのは、百年以内ではとてもという気持ちがある・・・(略)・・・十五年戦争の時は、朝鮮人の個人と尊厳の象徴である姓名さえとりあげ、かつ日本語を押しつけ、さらには強制労働に就かせ、多くの人々を死や一族離散に追いやった」
司馬遼太郎の慧眼には感心する。
一方で戦後世代としては、理解は出来るのだが、朴槿惠大統領のように「謝罪!謝罪!」といまだにそれを執拗に言われても・・・。
『浄土ー日本的思想の鍵』と『日本仏教小論』は、仏教および親鸞の思想についての力作である。これまで親鸞についても浄土真宗についても興味がなかったが、これほど分かりやすく噛み砕いて、かつ興味深く読ませるものに出会ったことはない。
「釈迦はキリストのように救済は説かなかったのです。釈迦は解脱を説いたのです。解脱は禅宗の悟りと同じで、それは文字を用いたり、言葉で説明することでは果たせないのです。ですから釈迦が何を言ったか、釈迦はどういう思想を持っていたのか、よくわからないのです」
また歎異抄の『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』については「叡山の僧侶で、非常に秀才で学問があり精神力と体力のある人は解脱できる、これを善人というのです。しかし、親鸞はそんな人間は絶無か、めったにいないと思っている・・・どうしても魚が食べたい、奥さんがほしい、道を歩いているとアリを踏んでしまう。稲の害になるイナゴは殺さねば農民は生きてゆけない。これら全部悪人なのです。そのときどきの用語なのです。明治以降われわれはキリスト教的になり、悪人、善人をクリスチャンでもないのに西洋概念で見るようになりましたが、親鸞の言う悪人、善人とは、言語内容が違うのです。善はいまの言葉で言えばとびきり良質の人間、悪はいまの言葉で言うと普通の人間という意味です」
これほど物事を易しく言う人は稀有な存在なのかも知れない。