紙の本
質的調査というか、社会学や文化人類学の初学者にもぴったり
2017/06/09 20:14
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
「断片的なものの社会学」が面白かったので、同じ著者が書いている資質的調査の本を見つけて早速購入。
本書で扱われる質的調査は「フィールドワーク」「参与観察」「生活史」の3つ。私としては質的分析というのは要するにノンフィクションとどう違うのかという点について、あまり確固たるものが持てないままでしたが、本書を読んである程度納得。
要するに質的社会調査を社会学という学問を支えるものとしているのは、それが私たちと縁のない人々の不合理に見える行為の背後にある理由(これが「他者の合理性」といわれるものです)を誰にでもわかる形で記述し解釈することにあるというのです。
「特定の状況下におかれた特定の人々についての解釈」を続けることで、仮説や命題の形に収まらないけれど、当事者の体験が量的調査では見えてこない、それまでの思い込みを覆すような視点を提供してくれることになるのことがあるというわけです。
誰かを観察したり、その人の生活史に耳を傾けることで、特定の社会問題の背景知識を得て(歴史と構造」)、その社会構造についての新しい見方を獲得する(理論化)というのが社会学を意味づける手段としての質的社会調査ということなのですね。
初学者向けの本なので、依頼書の書き方とかレコーダーの扱い方といった実に基礎的な事から始まるので、質的調査だけでなく社会学や文化人類学の初学者にもぴったりなのではないかと思います。何より、本書に挙げられた推薦図書がどれもおもしろそうなので、少なくとも買ったままで読んでいない本は読んでみようと思いました。
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自分にとって漠然としていた「質的調査」。
実践している方々の言葉がストレートに響きました。
内容は濃い。興味深い。二百数十ページといえど読みごたえあり。
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岸雅彦、石岡丈昇、丸山里美
中野卓、桜井厚、谷富夫の理論を通して、語りは「事実」か「物語」という問題を洗い直す下りはいずれ再読する
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下記URLより閲覧できます※学内限定。ただし学認を利用すれば学外も可
https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000046035
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この本を読むのは2回目だ。正直に言うと、読んでいる途中でなんだか見覚えがあるなと感じていて、途中で既に一度読んでいたことを思い出した。初めて読んだのは一年くらい前だったと思う(後で調べたら二年前だった・・)。質的調査の入門書として読んでいて、紹介されている参考文献を何冊か購入するくらいにはちゃんと興味も持っていた。ただし、購入した参考文献は未だ積読になっていて、今回の読書でさらに本書のブックガイドより数冊購入してしまった。
そもそもは、昨今の流行もあり、量的調査分析に興味があった。調査というか、データ分析?って何をするのレベルで関心があり、調査法の入門書や統計について何冊か読んでいた。量的調査というと、客観的で「正しい」ような気がしていて、RやPythonなどのツールを使って分析するのもカッコいいような気もしていた。何より「正しさ」に近づくアプローチなのだと思っていた。でも、量的調査の本を読み進めるうちに、そうでもなさそうだと思うようになってきた。分析対象であるデータは「客観的」であるにせよ、結局、分析である以上、そこに意味を見出すことになり、その解釈は様々な幅が出てくるし、そもそもデータの定義や分析方法は調査者の匙加減となる部分があることは避けられないのではないかと考えるようになった。統計手法自体は、数学的な裏付けがあるものなのだろうが、その運用方法の段階で「客観性」が必ずしも担保されなくなる。そもそも「客観的」な「正しさ」なるものがあると考えること自体に無理があるので、いたしかたない。
そんなモヤモヤを覚えている時に、では量的調査と一緒によく語られている質的調査とはどういうものなのか気になり出して手にしたのが本書だった。結果としては、全くの予備知識のない自分のような読者でも抵抗なく読み進められるように書かれていた。質的調査手法である、フィールドワーク、参与観察、生活史について三人の著者がそれぞれ説明してくれる。質的調査と量的調査は綺麗に分けられるものではないこと、他者を理解すること(そもそも他者を理解することとは?)、などなどを三人が自身の調査経験をもとに解説してくれる。何より質的調査が持つ魅力を伝えようとする意気込みが伝わってくる。これも面白いよ、これも面白いよとオススメの本を紹介してくれるので、買ってしまったのが以下4冊だ。
オスカー・ルイス「貧困の文化ーメキシコの<五つの家族>」ちくま学芸文庫
ロバート・マーフィー「ボディ・サイレントー病と障害の人類学」平凡社
桜井厚「境界文化のライフストーリー」せりか書房
丸山里美「女性ホームレスとして生きるー貧困と排除の社会学」世界思想社
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オーラルヒストリーの大事なところはそれが事実かどうかではなく、話した本人にとって心理的に本当だったということ。
他者の合理性を会話を通して理解する。
映画なども有効?
事実を聞くことと、語りを聞くこと。
どのようにその会話、生活史ができてきたかを分析する。
調査は暴力である、その暴力性に向き合い、可能な限り常に問い続ける必要がある。
語り、歴史と構造、理論の3つの間での往復が大切。
経験の全体を解釈する。
理論的先入観。
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社会調査の方法だけでなく、社会学全般についてわかりやすく書かれていて良かった。もっと早くにこの本を読むべきだったと後悔。
以下、読書メモ
面白いの軸の話
自分と他人
ゴシップ的面白さと社会学学的面白さ
→バージョンアップができるか否か
メモの重要性
出来事のメモ(雑記メモ
出来事から浮かんだ社会学的発想(論点メモ
日記(気分を書く
人ではなく、人の捉え方を見る
「時間的予見」の問題としての貧困
論文執筆
理論を使う
枝葉を切り落とす、一言にまとめる
調べたことを書いても論文にはならない
調べたことから何を考え、何を調べ直したのか
「他者の合理性」
枠組みを問い直し、対象を論じ直す
↕️
「自己の不合理性」
自らの行いが不合理である点を知り直し、通俗的なものの見方を問い直す
「他者の不合理性」
調べる前からわかっていることしか書かれていない
調査の暴力性
個人の生活史に耳を傾ける(語り)
テーマである社会問題の背景知識を得る(歴史と構造)
その社会問題についての新しい見方を獲得する(理論)
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社会学の調査について丁寧に書かれている。
フレームとその間の肉付けが、冷静と情熱の間を行き来しながら説明されているように思えた。
最後にあるブックガイドと索引が、さらに深みを与えてくれる。
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とっても面白かった、知的興奮をありがとう。
最も興奮したのは、自分が仕事やプライベートで楽しくやっている街歩きやフィールドワークが、実は無意識に社会学的方法をだいぶ実践できていること。
何も習ってないのに自分でできすぎててビビッた。天性のフィールドワーカー なんですか!?
大学院に行きたい気持ちもなおさら高まった。
それからもちろん色々気づきもあった。
以下備忘録。
☆社会学=私たちとは縁のない人びとの。一見 すると不合理な行為の背後にある 「他者の合理性」を誰にでも分かる かたちで記述し、説明し、解釈すること
☆社会は、複数の、お互い矛盾する「ゲーム」で 構成されている。それらが同時に進行して いる。社会学は、自分が参加しているゲームや 社会の主流派となっているもの以外の「もう ひとつのゲーム」の存在を明らかにする。
思ったこと。「何者としてフィールドワークでふるまちか」と いう点、散かかれてるけど自分のばあい「記者」or「きょう みあって学びたい人」のどっちかを時によって自由に選 択してる。し、今までそれで不都合だった時ない。と思っている。ただP60の「フィールドにより対象との関係性 がちがった」というのは興味深い。もう少し自分でも意 識してみてもいいかも。
社会学者は、記者よりも「取材の暴力性」ということに 圧倒的に真摯に謙虚にむきあってると思う。自分ももっと ←誰の、何のための取材か」「応じてくれた人の親切 心にどう報いることができるか」をきちんと考えよう。
・データ整理から疑問がうかびあがる」「矛盾の 存在にきづく」「おもしろいところ、半年徴的な ところをピックアップし、フィールドワークの焦点 をしぼる」「その際に、データはもちろん、先行 研究の中に位置づけることで問いを見い出す」
⇒それらの作業を通して、 結論に合わせて問いを作る。
☆「人々」ではなく、「人々の対峙する世界を知る」 「人々」を知るだと、人々の視点ではなくそれを分析 する分析者の視点で考えることになってしまう。「人々の対峙する世界」を知ることは、対象者を受動的な容器としてではなく、能動的な働きかけを行う 主体としてとらえることができる。(倉敷水島地区の女フィールドワークby中野卓の例)
☆人々の行為の背景にある様々な事情、経緯、構造的 条件や制約を記述し、その行為がどのようなプロセスで 選択されたかを理解する。それは無理解が生む 「自己責任論」の解体につながる。
☆生活史法=語り手が何を語ったか」「どう語ったか」、その語りを、統計データや履史的資料などをもとに「歴史構造」の中にいちづける。そしてその社会問題についての新しい理論を作る
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質的社会調査、社会学の入門書である。大学院に在籍しながら、「調査」の仕方を勉強してこなかった自分にとって、とても良い入門書となった。
ただそこにあるのは、ノウハウではない。「他者の合理性の理解社会学」と副題がついたことからも想像できるように、著者3名の経験に基づいて調査を通して同社会と関わるか、が書かれていて、教科書にありがちな無味乾燥さはない。読み物としても抜群に面白い。
あとがきに「『社会調査』である限りは、人びととのコミュニケーションの中で鍛えられ、試され、厳しく批判される」とある。この一節がこの本全体を貫く思想になっていると思う。
論文のテーマを再構築していこうとする中、非常に有意義な本であったが、それにはとどまらない、さまざまなことを考えさせられた。
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有斐閣なのでフィールドワークの教科書という位置づけであるが、研究者のインタビューの関わりがとても丁寧に具体的に書いてあるので、フィールドワークについて書かれた教科書の中で最も面白い本の一つである。
質的調査の領域の説明をすべて網羅しているわけではないが、フィールドワークをどのようにすればいいのだろうかということについては、学部生から修士の院生、博士論文を書こうとしている院生まで全ての学生に役立つと思われる。
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質的調査が、個々のケースについて理解・解釈していく方法だとして、それでは実際の調査プロセスのなかで、何をどのように具体的に理解していくのでしょうか。
代表的な質的調査の例を挙げて考えていきましょう。P・ウィリスが1977年に出版した『ハマータウンの野郎ども』です。ウィリスは70年代に、あるイギリスの工場街(「ハマータウン」=ハンマーの街)の小さな高校で参与観察をおこないました。彼が分析の対象としたのは、その高校の主に二つのグループでした。ひとつは「ラッズ」(野郎ども)を呼ばれる不良少年たちで、もうひとつはイヤーホールズ)「耳穴っ子」)と呼ばれるガリ勉の優等生グループでした。
ウィリスは、学校のなかだけでなく、路上やラッズの生徒たちとともに暮らして、その会話や行動ややりとりを、実に詳細に記録し分析しました。そして、70年代イギリスの「不良少年文化」を、非常に生き生きと描き出したのです。それは、現在の日本の不良少年たちとほとんど同じような「反抗的文化」でした。かれらは授業をサボり、教師に反抗し、タバコを吸い酒を飲み、「不純異性交遊」にいそしみ、喧嘩をします。もちろん学校の勉強なんかやりません。そして真面目なイヤーホールズたちのことを徹底的に軽蔑し、バカにします。
しかし、かれらの言動や、そのもとになっている不良文化は、長い目でみるとラッズたちがよりより大学に進学したり、よりより学校に移動することを妨げてしまいます。結果として、ラッズの生徒たちは、その反抗的な青春を楽しみながらも、結局は学校からドロップアウトし、社会全体のなかで相対的に不利な立場を「自ら進んで」選んでしまうのです。ウィリスの問題設定は、ここにあります。なぜかれらは、自分の意思で不利になるような道に進んでしまうのでしょうか。
ウィリスの解釈は、こうです。ラッズたちは、その多くが労働者階級の出身です。かれらの父親たちは、安い賃金でハードな工場で働く、肉体労働者たちなのです。そすると当然、家庭のなかでも、非常に「男らしい」、荒っぽい規範や価値観が支配することになります。このような雰囲気で育てられたラッズたちもまた、とても荒っぽい労働者文化に染まっています。これに対して、学校という世界は、どちらかといえば「中流階級の文化」が定着しています。中産階級の文化とは、大雑把にいえば、いまの楽しみを先延ばしして禁欲的に課題をこなすことや、丁寧でおとなしい会話や身体動作、あるいは、知的勤勉さなどが重要視されるのです。学校とは、単に知識や機械的に伝達する場所なのではありません。そこでは「特定の」文化や規範や態度が作動しています。私たちには、算数や国語という知的なゲームのための能力よりも以前に、そうした特定の文化や規範に「適応する」能力が求められるのです。
労働者階級出身のラッズたちにとって、こうした「空気」に適応することは非常に困難で苦痛をもたらすものになります。かれらは「自然に」ふるまっているだけで、教師たちから叱られ、排除されるのです。したがってかれらが、労働者階級の文化のひとつのバリエーションである反抗的な不良文化を、教師���なかで発達させることは、当然のことであるといえます。
さて、このように考えると、ラッズたちが「自ら進んで不利な状況に入っていった」という解釈は、微妙に変わってきます。かれらの行為選択は一言でいえば「不合理」なものですが、学校地いう場における目に見えない文化や規範を考慮に入れると、その場に適応して真面目に勉強することのラッズたちにとっての「コスト」がわかってきます。知的能力以前に学校という空間に独特の
中産階級的な「お上品な」文化に染まることは、かれらにとっては勉強そのものよりもはるかに困難なことでしょう。したがって、ラッズたちが学校から自らドロップアウトして別の道ーーつまり父親たちと同じようなブルーカラーの世界ーーを選んでしまうのは、ある意味自然なことなのです
もちろん、もっと長期的にみれば、よりよい学校やもっと上の大学に進学しないことは、かれらの人生にとって不利な条件として働くでしょう。しかし、かれらの労働者文化や、学校の中産階級文化を考慮に入れると、少なくとも短期的には、ラッズたちが真面目な勉強よりも反抗的な不良のライフスタイルを選んでしまうことの「理由」が分かってくるのです。
ウィリスは、自ら進んで不利な状況に入っていくラッズたちの、一見すると愚かで不合理な選択の背後に、かれらにとっての計算や合理性があることを見抜きました。そしてその合理性を、私たちにもよくわかるかたちで提示しました。
ウェーバーの行為や合理性、理解という概念は、それが書かれてから100年たったいまでも、社会学の理論的基礎をなしています。ウェーバーは人間の行為を理解することが社会学の目的であると述べていますが、行為というものは、多くの場合、内的あるいは主観的な、しかし同時に他者にも理解可能な意味を持っています。この行為の意味のことを、広い意味での合理性と言い換えてよいと思います。
質的調査の社会学の仕事は、いろいろありますが、つきつめて考えると、この「行為の合理性の理解」ということに尽きます。人びとの行為や相互行為、あるいはその「人生」には、必ず理由や動機が存在するのです。その行為がなされるだけの理由を見つけ出し、ほかの人びとにもわかるようなかたちでそれを記述し説明することが、行為を理解する、ということです。理由や動機の多くは、当事者にとっての「利益」や「利得」あるいは(経済学の用語でいえば)「効用」というものに結びついています。もちろんこの利益や利得というものは、単に金銭的な利益なのではありません。それは非常に広い意味において使われています。
たとえば私の調査では、同じ女性野宿者に複数回話を聞き、同じ質問をしていたのですが、そのときどきによって回答は異なっていました。このようなことは、調査を客観主義的なものと考えるなら、あってはならないことになります。そして実際にこれまでの野宿者研究では、こうしたことにはほとんど言及されてきませんでしたし、そのことが研究の主題として扱われることもありませんでした(ひとりの人に一度きりしかインタビューをしないという、スナップショット的な調査方法が主流であったことも関係していると思います)。
しかし、調査を進めるうちに私は��これまでの研究でこうした回答の一貫性のなさが扱われてこなかったことと、女性野宿者が扱われてこなかったこととは、もしかしたら結びついているかもしれない、そう考えるようになりました。つまり、同じ人に質問をすれば同じ回答が返ってくるというような、暗黙のうちにある客観主義的な前提が、はっきりしたわかりやすい声をあげにくい状態に置かれている少数者の排除につながってきたのではないか、そんな疑問がわいてきたのです。そしてこのことが、従来の研究に見られる暗黙の前提を問題にするという、和ツィ自身の中心的なアイデイアにつながっていきました(この部分はのちにもう一度説明しますし、詳しくは拙著で論じています)。
このように質的調査では、ときに人が当たり前に思ってしまっているために、あえて問題にすることもないような「客観的に見えるもの」にも、疑念をさしはさむことががありうるのではないでしょうか。そして一見「客観的な事実」に見えることの、成立の基盤にあることまでもを議論の俎上に乗せてしまう、そのようなとき、質的調査は大きな魅力を発揮するのではないかとい私は考えています。ですから質的調査では、「客観的」であろうとするよりも、自分がどのような「主観」を持っているのかに意識的であろうとすることが大切であり、そのうえで、自分の場所から見える「主観的な」世界のありようを記述していくことが、質的調査の持つ特徴をいかすために必要なことではないかと思うのです。
まず重要なのは、調査のもっともおもしろい部分に焦点をあてるということ、です。これまでフィールドウェアークをしてきたなかで、自分がもっともおもしろかった点はどこか、考えてみてください。きっと一つではなく、複数出てくるでしょう。そしてそのおもしろいと感じる点に、観察・記録をしだいに集中させていきます。このときよい問いを導くコツは、調査をする前からわかっていたことではなく、調査をしてみて初めてわかったおもしろいことに焦点をあてるということです。調査をする前から予想されていたことは、他の人も予想できるあたりまえのことであるため、おもしろみが感じられにくいのですが、フィールドに行ってはじめてわかったおもしろいことなら、わざわざ時間をかけてフィールドワークをした意味が出てきますし、他の人にもおもしろいと思ってもらえやすくなります。このとき、最初に抱いていた興味関心に必ずしもこだわる必要はありませんフィールドでは自分が想像もしなかったことが起こっているはずですから、それも含めて、良いおもしろいと感じる部分に着目するのがいいでしょう。
しかし往往にして、自分のフィールドのどこがいったいおもしろいのか、わからないということになりがちです。フィールドの情報量は膨大ですから、それに惑わされ圧倒されて、おもしろいところを問われてもうまく整理して答えられない、そうなるのも当然のことです。そんなとき、人に話を聞いてもらっておもしろいところを指摘してもらったり、自分が面白いと思うところを他の人がどう受けとめるのか、反応を見てみてるのが有効です。そのためにゼミや研究会で発表をするのです。自分のフィールドはどんなところで、そこでどんなことを観察・研究しているのか、それを報告し、どこがおもしろかったのかを他の人に教えてもらったり、自分がおもしろいと感じる点を報告し、他の人もそれをおもしろいと感じるのかを知ることで、調査の焦点を絞っていくのです。指導教官は、研究のトレーニングを積んでいるぶんだけ、社会学的想像力が働きますから、おもしろいのはどこか指摘してもらうには格好の存在です。ある程度研究状況について知っている経験豊かな人の方が、研究としてどんな点が新しいのか、どこを強調するとおもしろいのか、勘がはたらきやすいので、そういう他人の頭もぜひ活用しましょう。
多くの人にとっておそらくもっとも難しいのが、論文の枠組みを示す冒頭の「問題設定」にあたる部分を書くことではないでしょうか。論文を読むことに慣れていない人にとっては、論文独特のこの形式に馴染みがないため、難しく感じるのも無理はないでしょう。これは一般的には、つぎの3つの点を、順に書いていくのがいいように思います。
第一に、自分が取り組んでいる研究課題について、先行研究でいわれていることを整理します。その問題について、これまでどのような研究がなされ、どんなことがいわれてきたのか。可能であれば、その課題に対する研究が発展していった歴史的な流れや、その概略を紹介します。これは、個別の研究について細かく紹介するというよりも、その分野の研究の見取り図を描くことが目的ですから、代表的な研究や、いくつかの学派にまとめられるならそれを紹介するなど、ある程度自分なりに整理することが必要です(①)。つぎに、そのなかでも特に自分と問題関心の近い特定の先行研究について、どんなことがいわれてきたのかを紹介します(①')。ここは①に比べて、詳しく説明する必要があります。ここまでが先行研究の内容を紹介するパートになります。①を書くためには、同分野の先行研究をたくさん読み、研究全体の状況について知らなければなりませんから、ここを書くのが難しければ、最低限①'は自分の問題関心にあわせたオリジナリティの高いものになるため、自分自身で考える必要があるのに対して、①はその研究課題全体の概略を述べればいいだけですから、すべて自分自身で考える必要はなく、他の人が整理したものも参考にすることができます。
第二に、①'で紹介した特に自分の問題関心と近い先行研究について、それに対する批判を述べます。先行研究で書かれていることは、どんな点が自分が調査してきて感じたことと異なるのか、どんな点が不足していると感じるのか。もちろん先行研究にはなんらかの意義があるはずですから、評価すべき点は十分に認めたうえで、どこが足りないのかを書きます。ここを書くことをとおして、自分の研究がすでにある先行研究と、どこが同じでどこが異なるのかを明らかにするのです(②)。先行研究との異同をを明らかにするというのは、私の印象では、多くの学生があまり得意ではないところのようですが、自分の研究がこれまでの研究とどこが違い、自分が新たに研究に何をつけくわえられるのか、自分の研究のオリジナリティを明らかにするところですから、とても大事なパートになります。
第三に、自分自身の問いを書きます。ここでは、②で自分が批判した点について、その問題を乗り越えられるような形の問いを書く必要があります。つまり、自分が設定する問いは、先行研究にある問題を解消することができる、より優れたものである、という形で記述することで、自分の研究の正当性を主張するのです(③)。またここで書く問いに対しては、前節でも述べたように、結論部でその答えを述べなければなりません。ですからこの問いは、結論部で主張することにあわせた形になっていなければならず、くわえて、②で批判した問題点を乗り越えられるものになっている必要があります。ここからも、結論部と先行研究の状況を見渡すことができた研究の最後の段階になって、問いが決まるということがわかるでしょう。
以上のような3点がそろっているのが、オーソドックスな研究の問題設定の書き方だと思います。逆に言うと、このような形に整理でいないのなら、まだ問いの設定の検討が十分ではありません。このように整理できるようになるまで、フィールドワークの焦点化と、先行研究を読む作業を繰り返し、問いを突き詰めて考える必要があります(もちろん、研究の書き方はこれだけにとどまるものでなく、そもそもかなり自由なあり方がうるされるのが研究であるということは、断っておかなければなりません)。
こうしてmすでに書かれた研究を見ると、書かれている順序どおりに研究が進んできたかのように、一見読めてしまいます。つまり、先に先行研究から出てきた問題意識があり、それにもとづいて問いが立ち、その問いにしたがって調査をする、という順序です。しかし実際には、このような流れで研究が進むわけではないのは、ここまでみてきたとおりです。最初に漠然とした問題関心があり、とにかく調査をしながら先行研究を検討していき、結論で書きたいことが決まると、それにあった形の問いを最後に作る、というのが現実の流れでした。それをあたかも、最初に問いが決まっており、それにしたがって調査をしたかのようにして書く、これが研究の作法なのです(このように書く理由は、先にも述べたとおり、読み手に問いをクリアに伝えるためです)。
ここがはじめて研究や調査をする人には、理解しにくいところではないでしょうか。完成された研究がじつはどのような順序で進んだのか、そのプロセスが書かれておらず、肝心の部分がブラックボックスのようになっているのですから。この部分の書き方の作法については、研究論文を読んでくとだんだんわかってくると思いますから、とにかくたくさん論文を読んで、参考になりそうな形式を真似してみるといいでしょう。
調査をおこなっていくうえでさらに乗り越えなければならない点は、研究の「対象」と「テーマ」を分けることです。これは特に卒論指導をおこなううえで、私が注意しているものです。学生にどのような卒論を書こうとしているのかを聞いてみると、大きく2通りの返答のパターンがあります。ひとつは、たとえば「高校野球部」について書きたいというような返答です。もうひとつは「体罰」について書きたいというものです。
前者の場合、卒論で書きたいものを「対象」で説明しています。その学生は具体的対象である高校野球部に関心があるのであり、その対象をいかなるテーマで論ずるかは未定です。一方で、後者の場合、具体的対象は未定ですが、そこ��見出したい「テーマ」はすでにはっきりとしています。しかし、その「テーマ」をどのような具体的対象に基づき考察するかは未定です。
実際の調査では、「対象」から入っても「テーマ」から入っても、どちらでも構いません。大切なのは、このふたつを分けて考えることです。逆に一番まずいのが、「対象」が先に決まっていて、それが「テーマ」でもあると勘違いしてしまうケースです。たとえば、ボクシングについて卒論を書くとしましょう。ボクシングは「対象」です。その「対象」にどのような「テーマ」から迫るのかは、その人次第です。その「対象」にどのような「テーマ」から迫るのかは、その人次第です。マスキュリティニティ(男性性)を探求するのか、身体訓練のメカニズムを解説するのか、スポーツと社会階層の関連を捉えるのかなど、それは多岐にわたります。しかしその違いをわかっていないと、ボクシングが「対象」でもあり「テーマ」にもなってしまいます。そうすると何が起こるかというと、先行研究の検討が無意味になるのです。
卒論を書く学生が、先行研究を調べるためによくおこなうことは、キーワードを入れて論文を検索する手法です。ボクシングの社会調査を構想する学生がこのキーワード検索をおこなうと、多くが試合中の脳損傷を論じた医学論文に行き着きます。こうして学生は、「ボクシングについては、脳損傷などの医学的研究がされてきたが、社会学の研究はほとんどされていない。だから、この件キュをおこなう意義がある……」、こんなレジュメを準備することになります。このような「これまで研究がされていないから意義がある」論法は、往々にして、その論文の内容をつまらないものにします。なぜなら、世の中の大多数のものは研究されていないものだからです。論文の意義は、もっと別のものに探らなければなりません。
先行研究を検討するうえで大切なのは、「テーマ」です。よって、そこで主軸に据えるべきはボクシングという「対象」ではなくて、例えばマスキュリティニティといった「テーマ」です。仮に検索機能を使うのであれば、「テーマ」の水準に当てはまるキーワードを入れて先行研究を探る必要があります。マスキュリティニティであれば、社会理論の論文もあるし、歴史社会学の論文もあるし、ボクシング以外の事例でそれを研究した論文もあります。そういった論文こそが、先行研究になるのです。
「テーマ」に関する先行研究を読むことで、「対象」をどう捉えるのかという視点が定まってきます。また、同じ「テーマ」で別の事例を扱った論文を読めば、比較社会学的に興味深い問題設定をすることも可能になります。例えば、ストリート・ギャングの論文を読むことによって、そこでマスキュリティニティと暴力が剥き出しに表出される点を知れば、それとの対比で、ボクシングでは暴力がルールによって形式化されていることを発見するでしょう。そうすると、ボクシングを「形式化された暴力」という問題設定より捉える視点が得られるかもしれません。
このように「対象」と「テーマ」を分けることで、その後の参与観察を進めるうえでの指針が大きく深まります。充実した参与観察をおこなうには、教室でのこうした頭の整理も重要なのです。
「人びと」ではなく「人びとが対峙する世界」を捉えることは、参与観察のみならず、他の調査実践においてもゆこうな場合があること私は考えています。私は職務の関係上、中学や短大の先生と話をすることがあります。あるとき、短大の先生から聞いた話では、短大入学後に何らかの問題を起こした学生がいた場合、その学生の高校時代の内申書ほかの記録が短大では保管されていて、それを元に当該学生の過去が調べ上げられるとのことでした。しかし重要なのは、その短大の学生がキッパリと、そのような過去の情報の調べ上げは無意味であると言い切った点にあります。
その先生によると、過去の記録を調べても出てくるのは「やっぱり本来的に問題児なのだ」という結論の決まって見解しかないということでした。結局、問題探しをしているに過ぎない、と。先生は代わりに、その学生がど尿にその状況を捉えているのか、その捉え方こそを知らなければならないと力説しました。これは私にとって、強く同意できるものでした。「人びとの対峙する世界」を知ることは、当該状況に置かれた人びとの視点に基づいて物事を考え直す契機となるものです。ですが「人びと」を知る場合には、人びとの視点ではなく、それを解析する分析者の視点から考えることになってしまいます。「人びとの対峙する世界」をすることは、対象者を受動的な容器としてではなく、能動的な働きかけをおこなう主体としてしてたら得ることを可能にするのです。
ボクサーは個人練習を繰り返すだけでは強い選手にはなれません。ボクサーはほかのボクサーと協同で練習し、その息づかいやリズムを我がものとすることで、はじめて強いボクサーに育つことができます。同じジムに所属するボクサーたちが、得意とするパンチを同じくするのは(たとえば左のボディ打ちのタイミングと角度)協同で練習する過程での相互模倣によるものです。このように考えると、ジムの練習空間の機材の配置なども絶妙であることに気づきます。パンチングバッグが2組ペアで配置されている点などは、まさにそうです。このふたりのボクサーはそれぞれが自分の課題に取り組んでいます。ですが、このように2組セットで配置されることで、隣で練習に取り組むボクサーの息づかいや動作が自然と他方のボクサーにも感覚されます。このバッグ打ちは、個人練習であると同時に協同練習にもなっているのです。私は、ボクサーたちが協同しているという点、そして協同で繰り広げられる具体的条件としての事務空間に着目して分析を試みました。そうして「集団競技としてのボクシング」というこの章の副題を着想しました。ボクシングは通常の意味では個人競技です。ですが実際には、そこには集団競技と呼べる性質が息づいていることを論じようと考えたのです。
過去の歴史のひとこまをふりかえろうとするとき、もっとも困難な作業のひとつは、その時代の現実を具体的に生きた人間たちを等身大で想い描くこと、その現場の感情と視線を具体的に追体験することである。たとえば「侵略」という言葉も概念も存在せず、殺戮も収奪も蹂躙も「進出」の錦旗の下に正義の一片とされた現実だけを自己の現実として生きた人間たちを、わたしの隣人として、わたし自身として、いまの現実を生きつつありありと現前させること���困難が、ともすれば、侵略を「侵略」と明言するところでわたしたちを停止させてしまう(池田 1997:388)。
論文を仕上げていくうえで大切なのは、本書の各章で繰り返し主張されているように「他者の合理性」を把握することです。もちろん、参与観察はフィールドに参与したからこそわかった点を記述することが最も大切であり、その意味では「他者の合理性」の理解だけが需要な課題であるわけではありません。ですが、多くの重要な著作は「他者の合理性」を捉えることが多いです。
それはなぜかと言えば、本説でも述べてきたように「他者の合理性」を理解することは調査者の「ものの捉え方」のバージョンアップと深く関係するからです。通俗的な「ものの捉え方」は、調査者が事前に携えた枠組みを自明に物事を解釈するので、読者がハッとするような記述が生まれません。ですが、社会学の参与観察は、こうした調査者の枠組みを問い直し、対象を論じ直すことにその魅力があります。そのとき、私たちに「他者の合理性」が視野に入ってくるのです。たとえばアーヴィング・ゴッフマンは次のように述べています。「どんな人びとの集団であってもーーそれが囚人であれ、未開人であれ、飛行士であれ、患者であれーー、それに接近してみたならば、そこには有意味で道理的で正常な独自の生活が営まれていることを知るだろう」(ゴッフマン 1984:ii)。私たちが一見、不合理と受け止める行為であっても、注意深く見るならば、そこには合理性がsんざいしていると捉えることも可能なのです。
社会学には、こうした「他者の合理性」のちょうど反対の記述様式もあります。それは「自己の不合理性」を記述するというものです。これはよく「常識を疑う」というフレーズで流通しているものです。調査者には自らが合理的だと思い込んでいるふしがあります。しかし調査者もまた人間である以上、ある局地性を生きており、局地的理解をしているにすぎません。別の文脈に入れば、別の可能性が生まれて活くるのであり、自らが合理的と思い込んでいた事柄が極めて不合理であることを発見することになります。「自己の不合理性」を描出する社会学者は、自らがおこなっていることが不合理でありうる点を知り直すことで、通俗的な「ものの捉え方」を更新しようとしているのです。
最も問題があるのは、「他者の合理性」でも「自己の不合理性」でもなく、「他者の不合理性」を記述する調査です。これに依拠した書き物からは、ほとんど学ぶ点がありません。たとえば、若者の貧困を調査する研究者が、調査をした結果「若者が困難んな生活を送るのは、かれらが仲間内だけの『狭い世間』を生きているからである」と結論づけるような例です。貧困を生きる若者という「他者」は、不合理なことをしているから貧困に陥っているのだと解釈しているのです。「他者の不合理性」が強調されて、その裏側には「自己(=書き手)の合理性」が前提にされます。
こうした「他者の不合理性」(と「自己の合理性)を前提にした参与観察からは、調査者自らの「ものの捉え方」がバージョンアップされることがありません。調査以前より保持している「ものの捉え方」を投影しているだけなのです。だから、この手の調査には「調査したからわかったこと」が書かれていません。なぜなら、調査をせずともわかっていることを、自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞっているからです。その結果、問いが深められた形跡のないかきものができあがるのです。
最後に、本章で述べてきたような参与観察という手法は、一体どのような独創性があるのかを述べて終わりたいと思います。
参与観察は、調査者自らが対象とする組織や集団に参入し観察するものです。では対象に直接に参入することの意義は、どの点にあるでしょうか。私なりの答えは、その組織や集団で活動が展開する渦中で起きていることをリアルタイムで体験し、そこから理解を深める点にあります。「リアルタイムの社会認識」、これこそが参与観察の独創性です。本書では総合的フィールドワーク、それに生活し調査についても、非常に充実した議論が展開されています。ですが、それらと比較しても、参与観察の特徴は、kのリアルタイムの社会認識という点にあります。
リアルタイムの社会認識の特徴は、現在進行形の活動のなかに身を置くと何が当たり前になるのかを理解できる点です。活動に巻き込まれていない地点のことをオフタイムと呼ぶならば、通常、私たちはオフタイムの地点からさまざまな現象を捉えたり、理解したりしています。オフタイムの地点から捉えることは重要です。「後になって冷静に考えれば……」という思いは、調査ではなく日常生活においても誰しもが経験したことのあるものでしょう。社会学に限らず、学問とは物事をじっくりと冷静に考えることですので、オフタイムの社会認識はもちろん重要なことです。
ですが私はあえて、リアルタイムを捉えることの意義を強調しておきたいです。私たちはつねにお蓋いうの社会認識を得られるわけではありません。ギャングに絡まれたり、大震災が生じたり、交通事故に巻き込まれたり、借金地獄に陥ったり、自分の素性が就職先にバレそうになったり、そんな時々において、私たちはゆっくりと考える時間を与えられません。むしろ、その時々の時間的制約のなかで、何が最善であるのかを随時に判断しながら行為しているのです。現実の行為は、つねにこうした時間的制約性を備えています。そこでは「ちょっと待って」は通用しません。
「現場のことわかってないよな」。これは社会調査に限らず、私たちの社会生活でよく耳にする言葉です。この言葉は現場の詳細を知識としてわかっていないという以上に、この時間的制約性がわかっていないという意味でも発せられます。たとえば「何でそんな高利貸でカネを借りるの?」と借金ゼロの人は疑問を持つかもしれません。ですが、借金地獄の渦中にある人にとっては、差し迫った返済期限にとりあえず利息分だけを支払う必要があり、しかしながら新たな借入先が見つからないまま期限だけが迫るなかで、高利貸に飛びつくのです。オフタイムの社会認識では不合理極まりないですが、リアルタイムの社会認識ではそれなりの合理性があるとも言えるのです(そしてこの時間感覚を巧みに利用し、プレッシャーをかけることで、金融業者は儲けています)。リアルタイムの社会認識を得ることは、こうして時間的制約性に巻き込まれながら生きている人や組織ーーそれは私たち自身でもありますーーを直視する可能性を秘めているのです。こうした事例に関して、ピエール・ブルデューはこう述べています。
科学時間というものがあり、それは実践の時間ではない。分析者に対し、時間は自己を放棄する。……分析者が、時間の諸効果を全体化し、つまりそれを乗り越える時間を持っているからである。……科学実践は、実践の時間に対立する時間との関連の中でしか可能ではないため、時間を見落とし、そこから、実戦を脱時間化する傾向を持つのである(ブルデュー 1988:131)。
ここで科学時間とブルデューが呼んでいるものは、オフタイムの地点のことです。それは時間と共にあるのではなく、時間を超越した(ブルデュー的には「脱時間化された」)地点のことです。この地点は「時間の諸効果」を無化してしまうのです。借金の返済期日に迫られが人が何に直面しているのか、大震災の激震地にいる人が何に直面しているのか、この点を無化して、論理的に「正しい」判断を述べたとしても、それではその渦中を生きている人に私たちの主張を届かせることはできません。「実践は時間と共にある」(ブルデュー 1988:131)のです。危機状態を生き延びる人に届く社会学というのは、オフタイムの安全地帯から「正しい論理」を発するようなものではなく、リアルタイムの経験と切り結んだ「響く論理」を生み出すものであるはずです。いくら「正しい」主張をしても、リアルタイムの現状から遊離していれば、その主張は読み手に届きません。オフタイムを前提にしていては決して行き届かない領域があるのです。ある現実を生きた人々の感性と意識に届く社会記述の可能性。3-6で時間的予見という概念を記しましたが、この概念は貧困をリアルタイムで生きる人間を理解し説明するために着想したものでした。
本書全体で示されているように、質的調査とは他者の合理性を理解するための方法です。そして他者の合理性に接近するためのひとつの手法が、その他者が置かれているリアルタイムの状況を把握することなのです。りるタイムに置かれた人びとの対峙する世界を理解できるならば、私たちの社会認識を飛躍的に鍛え上げることができると私は考えています。参与観察とは、こうした点から他者理解を深める手法なのです。