紙の本
これは酷い
2022/08/12 10:39
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投稿者:ますみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読みました。しらけてて面白くなかったです。スピルバーグが情けないように言われてる気がします。国語の教師をしている私から言わせてもらうと、坂口安吾の方がいいです。なぜなら私は岡真理が嫌いだから。なんなんですか。虚構のリアリズムというのは。造語を作らないでもらえますか?なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか?私は戦争を経験しました。だから弁当箱を筆箱にしてます。バカにしないで下さい。冒頭30分?なんでそこだけ良いって言うんですか!全部いいでしょ!あと、恐竜はフェイクだ!と主張していますけど、フェイクって何ですか?私は英語ができないので意味知りません。恐竜はいます。絶対います。何がフェイクやねん。フィクションとノンフィクションを対比してたけど、気に食わないです。以上。
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人が嫌がおうにも社会、政治の中で生きているということを感じなくてはいけないと分からせてくれる。湿度がよい。
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記憶と物語論に関する文献は、もはや多少飽和状態にある気がしなくもない。が、その中でも分かりやすさだけを取り出したらこの本の右に出る物はないだろう。ただし、筆者が多用してくる中東文学の話はぶっちゃけ分かりにくいので、あまり深く考えず、筆者の主張だけを抜き取ってみることをお勧めしたい
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岡 真理はアラブ文学研究者だが,ポストコロニアル・フェミニズムという,現代思想の流行のテーマを扱っているため,『現代思想』などにも寄稿していて,いくつか文章を読んだことはあったが,著作を読むのは初めて。
彼女の文章は少し不思議なところがある。もちろん,テーマ的にも難解な箇所があるのに,さらっと読めるのだ。まあ,それは小冊子で書き下ろしという,このシリーズものだからこそかもしれませんが,女性的なのかもしれません(などとフェミニストに対して書くのはどうかとも思いますが)。
本書の中心にはパレスチナ問題がある。はっきりいって私は戦後60年続いているこの問題について知るようになったのは,研究を始めて少し経ってからだ。さすがに,今日だとその問題がどういうものかは知らなくても,パレスチナという言葉は誰でも知っていると思う。しかし,私が高校生の頃,その名前はどこに登場しただろうか。しかも,最近よく聞くようになってからも,なにが問題何かも基本的に知らないのに「パレスチナ問題」というものが自明のように,ニュースでイスラエルの映像が流される。でも,本書はその基本的な知識も省略せずに書いてくれる。ヨーロッパの長い歴史のなかで迫害されていたユダヤ人は,第二次世界大戦でナチス・ドイツの「ホロコースト」に遭ってしまうわけですが,そんなユダヤ人を保護するために建国されたイスラエル。もちろん,米国が主導だったわけですが,今度はもともとその地に住んでいたパレスチナ人が迫害に会うことになったわけですね。もちろん,いきなりここに国を作るから転居してくださいといわれても,そんなことはできません。それが可能になるのは強制的な暴力を除いてありえません。詳細はまだ知らないことばかりですが,想像も及ばないすごいことですよね。
本書ではこの問題そのものを扱うのではなく,そういうことが(パレスチナ問題に限らず),映画や小説などに描かれることを深く考えようとしています。誰によって語られ,それを受け取る人たちはどのように受け取るのか。なかには是枝監督の『ワンダフルライフ』なども取り上げられていて,私では思いつかない視点が新鮮だ。私はこれは日本映画なのだからという前提からそんなことは自明なこととして観てしまったが,恐らく国境などない死後の世界のはずなのに,登場人物が全て日本人であるということは実は不自然なのかもしれない,ということだ。この物語に登場する老人には戦争の記憶があるが,この全て日本人であるということと,戦争を語るナショナリスティックな物語。これが本書で問われる,この映画の問題だ。
まあ,ともかくさっと読めて刺激がある,そんな魅力的な本です。
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初めて読んだのは高校生のとき。「虚構のリアリズム」を授業で。全文を読んだのは大学に入学してから。
新書はもっと読みづらいイメージがあったのですが(普段ほとんど読まないので…)とても読みやすかったです。文章に熱があって、岡真理さんの主張がストレートに伝わってきます。
映画や小説に関してこういった視点がある、ということをこの本で知りました。ショックでした。出来事を「物語る」こと、「物語」を読み取ることについてより慎重にならなくては、と思いはしましたが、完璧に実践することは難しい。
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[ 内容 ]
或る出来事―しかも、暴力的な―体験を物語ることは、果たして可能だろうか。
もし不可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。
出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。
だが、誰が、どのように語りうるのか。
記憶と物語をめぐるポリティクスを、パフォーマティヴに脱構築する果敢な試み。
[ 目次 ]
1 記憶の表象と物語の限界(記憶の主体;出来事の表象;物語の陥穽;記憶のポリティクス)
2 表象の不可能性を超えて(転移する記憶;領有することの不可能性;出来事を生きる)
3 基本文献案内
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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再読。
記憶が自己に統御不可能なものとして到来するということ、比較しようのない「暴力」を「出来事」として思考するということに開眼させてくれた本でもある。
再読して特に心に残ったのは、クライストの「チリの地震」に言及している部分である。
地震という「出来事」の暴力に抗するために、人間自らが暴力の発露を選ばされてしまう、その痛み。
物語として閉じることなく、新たな「暴力」を生み出さずにはおかない「出来事」を、私たちは今生きているのだと思う。
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おもしろい!
暴力的な記憶<出来事>をいかに他者と分有すればいいのか。
また、そんなことは可能なのか。
それを映画、小説、新聞、インタビューなど
様々な分野の視点から考えて組み立てていく。
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物語を論じた本、ということで手にとってみた。深く考えさせられた。
虐殺・戦争・災害などの〈出来事〉をどのように伝えられるのか。物語の限界。
ストンと腑に落ちる物語というのは、あるいは疑ってかかった方がいいのかもしれない。
「物語」に描写されていないものを読みとらないといけないのだ。
バルザックの『アデュー』、読んでみたい。
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ホロコースト、戦争、震災・・・<出来事>の他者と共有化は、様々なメディア(小説、映画、ルポ)を通じて常に「リアリティ」が重視された物語として「表象」されようとする。しかし、その「リアリティ」や「リアリズム」への傾斜によって表象される<出来事>の物語が、作り手の目論見通り「リアリティのある物語」として受容されるたびに、それは逆説的にも<出来事>の忘却へと繋がり、<出来事>の表象不可能性を露わにしてしまうというパラドックス。表象とはある出来事の側面を「可視化」をもたらすと同時に、別の側面の不可視化をもたらし忘却させ、総体としての出来事を見えなくしてしまう極めて暴力的な行為なのだ。
しかし、それでも私たちは<出来事>の表象による記憶の継承は「他者によって、すなわち<出来事>の外部にある者たちよって分有されなければならない、何としても。」なぜなら、この記憶を継承していくことができるのは、この「<出来事>の外部にある者たち」によってのみであるし「これらの者たちにその記憶が分有されなければ、<出来事>を生きた者たちの存在は、他者の記憶の彼方、『世界』の外部に抛擲され、歴史から忘却される」から。
「言葉は全然、透明ではない。その不透明さを想起することが今、何よりも大切なのではないか。透明化され、意味を確定しているとされるそれらの言葉に不透明さをとり戻すことが。透明な言葉こそが実は、私たちが<出来事>の記憶に触れるものを幾重にも阻害しているのだということを想起することが。」(p.107)
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具体例の概説に飽き飽きとするが、
内容は総じておもしろく、
記憶や出来事、物語をめぐる人間の精神構造を、的確に示唆しているように思う。
●以下引用
人がなにごとかを「思い出す」と言うとき、「人」が思い出すのではない、記憶の方が人に到来するのだ。
記憶が、-あるいは記憶に媒介された出来事がー「私」の意思とは無関係に、わたしにやって来る。ここでは、「記憶」こそが主体である。そして、「記憶」のこの突然の到来に対して、「私」は徹底的に無力であり、受動的である。
フラッシュバックとはそれ以上に、記憶に媒介された暴力的な出来事が、今、まさに現在形で生起している、そのような場に自分自身が、そのとき心と体で感じたあらゆる感情、感覚と共に投げ出され、その暴力にさらされるという経験であるのではないだろうか
50年という歳月によっても「過去」として馴致することができない生々しい暴力として今なお、現在形で、彼女の身に生起し続けているのではないだろうか。
出来事を言語化すること-そのとき、出来事はつねに過去形で表現される-それは、人が出来ごとを「過去」に馴致する、飼い慣らす-ことではいか。「過去」のものとして飼い慣らされた出来事は、私たちの記憶のなかで安定した場所を見つけるだろう
出来事というものが本質的にはらみもっている再現することの不可能性、それをいかにしてか語ることによって、小説はそこに、言葉では再現することのできない「現実」があることを、言いかえれば「出来事」それ自体の在処を、指し示すのではないか。
その出来事の暴力を肉体が生き延びるためには、彼女は、我と我がに起こったこといっさいを忘却しなくてはならなかった。
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元従軍慰安婦の女性が、「私は女の歓びを知らない」と言ったときの岡の衝撃と、その衝撃の解釈が印象的だった。
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言っていることに同意しまくりだったけど、それを言っては私たちは何も出来ないと思った。だからこの本に同意することももちろん出来ないのだ。
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パレスチナ人難民の虐殺事件や第二次世界大戦中におけるホロコースト、あるいはいわゆる従軍慰安婦に関する問題などを手がかりに、記憶の表象可能性の限界を指摘するとともに、そうした限界を超えて語ることへの希望を示そうとする試みです。
ガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』以来の問題設定を踏襲しており、こうした議論に食傷ぎみの読者は不満をおぼえるかもしれません。たしか内田樹も、そうした批判を展開していた記憶があります。とはいえ、個人的には本書で紹介されているいくつかの議論を通じて、記憶と物語をめぐる問題のさまざまな切り口を見ることができて興味深く読みました。
バルザックの『アデュー』という作品についての考察や、「ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース」と叫びながら敵陣に突撃した日本兵のエピソードを介した議論など、とりあげられている例がさまざまな問いを喚起しているように感じられるのですが、小さな本なので十分な議論を展開する余裕がないとはいえ、はじめから結論のほうに向かって水路が用意されているような議論の展開は、本書のようなテーマをあつかっている本のばあいには少し残念に感じてしまいます。
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巻き込まれたように読む必要が生じて一読したが、自分には合わない書だった。言語や映画での表現だけでは表しきれない重要な部分があるのは当然で、それでも何かメッセージを伝えようとそれぞれが頑張って創作しているのだと思う。認識が偏らないためにも同じテーマの作品を違う視点から表したものなども体験する必要があるのだろうと認識を新たにした。