紙の本
「社会」という翻訳語への省察。
2007/04/23 16:13
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者は、ルソー、デュルケーム、ニーチェ、マルクスらの言説を取り上げ、“social”“sozial”という言葉の本来意味していたもの、概念を丹念に洗い出している。
「“social”“sozial”という言葉が、「社会的」という日本語に置換されるとき、そこで何かが欠落するのだが、そのこと自体は気づかれず、さらに、この翻訳語が慣れ親しまれ、見知られたものになっていけばいくほど、このずれと屈折は一層、見えにくくなっていく」
輸入された思想や概念を翻訳して、それまで存在しなかった新しい日本語に、はめこむことは、そりゃモレ・ムリ・ずれが生じるのも当然至極。
「社会」という言葉が凋落してその代わりに、対立軸として「リベラリズム」「ネオリベ」「正義」そして「社会」の代替として「公共」「厚生」「福祉」という言葉が赤丸急上昇してきたのはなぜなのか。
「この「社会」を「社会主義」や「マルクス-レーニン主義」と等置してきた当の人びとが、それらの瓦解を目の当たりにしながらも、それらの何をどう否定し、批判すべきかをきちんと言葉にする作業を、不快であるがゆえに自分で避けてきた、あるいは不快と思う人によって妨げられてきたからではなかろうか」
かつての「社会」、社会党の「社会」と、「公共」や「福祉」とはイコールなのだろうか。たぶん小さな政府を標榜し、原則自由競争の「リベラリズム」に対抗するのが、本来の“social”であったのではないかと作者は述べている。
「資本主義は、往々にして「私有」の拡大と見なされるが、マルクスによれば、事態は全く逆である。そうではなく、資本主義こそが「私有」をますます不可能にし、生産様式をより「社会化」していくのである。しかし、それ以上に重要なのは、「私有」と「個人的所有」の区別である。マルクスもまた、ルソーが(自然状態から脱して)「平等」という理念を立ち上げるために承認した「私的所有」を否定しているわけではない。そうでなく、これを、各人が孤立した状態で手にする「私有」と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」に切り分けた上で、前者を否定し、後者を肯定しているのである」
バブルの前後、かつて知り合いの社長が愛人を囲っていて、仕事は部下にまかせっきりで、遊興三昧という光景に出くわしたことがある。あるとき、若い社員が、ぼそっと「愛人と海外旅行に行かせるためにオレらは働いてるんじゃない」って言ったことを思い出した。
「社会的なものの概念を支える平等/不平等というコードは、この「比較」に帰属する。このコードは、私にも所有されるべきものものが、あなただけのものになっている、あなたにも所有されるべきものが、私だけのものになっているという占有を批判的にとらえなおさせるが、同時に人は、このコードとともに、他人から「侮辱」を感得し、他人に「憎悪」や「復讐」を向け始める。さらに「嫉妬」や「羨望」が、ここに加わるだろう。平等への意志が、嫉妬、羨望、憎悪、復讐という暗い情念を誘発しかねないということ。」
これは先だってTVで都知事選に関して、巣鴨のお年寄りにどんなことを期待するかと尋ねたら、要するに老人医療費を安くしろだの、そういう近視眼的なことしかいわないようで、なんだかムカついてきた。福祉っていうと高齢者のためのものというイメージがあるけれど、たとえばシングルマザーや正規雇用につけず貧困に苦しんでいる若者たちなど、むしろこれからはそっちの方もだろと思う。この可視化しにくい(あえてそうしているのかもしれないが)非対称が「戦争がはじまればいい」という気分にさせるのではないだろうか。
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この本に目を通しました。
ゼミの課題です。
このシリーズはなかなかいいと評判です。
ようするに中身があるということです。
横書きなのとあいまって疲れてきたので
内容を理解しきっているわけでもないのですが。
社会(科)学という学問が前提としている
「社会」なるものについて、言葉の使用の変遷を追いながら
本質的な意味に迫っていくというような内容だと思います。
ルソー、ホッブズからニーチェ、ルーマン、ハーバマスまで
一通りの重要そうな人物に触れられるというお得感があります。
その中で多く取り扱われるのが「平等」という概念についてです。(社会、という言葉が元来「福祉」というような意味を持っていた。*1ことから)
本の本筋からは完全に外れますが、「平等」について考えたいと思います。
よくこんな例えが使われます。
100m走をすると考えて・・・
1.スタート位置をそろえる
2.ゴールの位置でそろえる
3.ハンデとしておもりをつける
1.は機会均等ということですね。
日本国憲法で言われる「平等」もこの類でしょう。
近代的、といわれる国家では前提なのではないでしょうか。
しかし、これだけでは足りません。
スタートラインをそろえたところで、もともとの能力に差がある以上、落伍するものが出てくる。
それを放置することは社会的にまずいだろう、ということで救済が与えられます。これが2.ですね。
これを極限まで推し進めると「社会」主義になるのでしょうか。
最後のものは、2.と近いですが、スタートの時点で(境遇的な意味で)不遇なものを上に押し上げるための手段です。
アファーマティブアクションとか。人種枠とかそういうやつですね。
さて、この本の中では、ルソーが絡んでくるのですが・・・。
私はまず、「平等」と「公正」を分けて考えた上で、それぞれをどう適用していくかが問題だと考えます。
「平等」というのはスポーツで言えばルールの部類でしょう。
対して「公正」は適用つまりレフェリングの問題であるといえると思います。
さまざまなルールや何かが、少なくとも社会の成員*2に対しては、「公正」に適用される必要があると思います。
が、しかし、こと平等ということになると、「どこまで」平等にすべきなのか、というのは結論の出ない問題です。
2500年も昔から、世界でもっとも頭のいいような人たちが、頭をひねり続けて答えが出ない問題です。
私などが挑戦することもはばかられます。
マルクスの共産主義はUtopiaですが文字通り実現可能性がありません。
となったときには、やはり、自由を基調にして、最低限度の生活の保障を与えること、が妥協策になってしま���でしょう。
あとは、マートンがアノミー回避の方策として提出した、選択的目標*3の導入。
思うのですが、
最低限度の幸せはお金にあるが
最大限の幸せはお金では得られない。
いかがでしょう。
単純にお金に惑わされるなんてかっこ悪い、という人もいます。(内田樹とか。http://blog.tatsuru.com/2007/07/24_0925.php)
人生金じゃないだろう、そうだろう。ってこと。
でも、話題の(?)赤木智弘さんは反論します。
http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/07/post_229.html
金以外のものさしなんて、差別につながる。
俺に今必要な「幸せ」は明日生きるための、両親が死んだ後も生きていくための金なんだ。
それでは、十分ではないと思うのです。
金がなくて困っている人に、金がなくても幸せでしょう、なんてただの欺瞞。
ただ、金がありあまっても幸せじゃない人もいるのではないかと。
「不幸とは急激な変化のことである」とはよく言ったものです。
話がそれました。
平等*4は、金という尺度だけでは測れません。
それは幸せの指数でもあるのでしょう*5からはかれません。
ただ、その最低限度を保障するとき、それは金銭でいいのではないかというお話でした。
まぁ、いってもせんのないことなんですがね。
いつにもまして駄文です。
*1:正確に言うならsozial(独)とかが、でしょうか。
*2:微妙な用語です。歴史を振り返ってみれば黒人・ユダヤ人・・・そういったものが「人間」と扱われないがゆえに平等に扱われない時代がありました。では、宇宙人がやってきたら?鯨やイルカは?何をもって「人間」とするのかは非常に難しい問題です。
*3:金銭以外の社会的目標をもっと認めよう。ex.地位・名誉・趣味・芸術etc
*4:これがなぜ必要か、ということから本来は話すべきなのでしょう。
*5:GNHとかいんちきでしょうw
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資本主義は、往々にして「私有」の拡大と見なされるが、マルクスによれば、事態は全く逆である。そうではなく、資本主義こそが「私有」をますます不可能にし生産様式をより「社会化」していくのである。しかし、それ以上に重要なのは、「私有」と「個人的所有」の区別である。マルクスもまた、ルソーが(自然状態から脱して)「平等」という理念を立ち上げるために承認した「私的所有」を否定しているわけではない。そうでなく、これを、各人が孤立した状態で手にする「私有」と、社会的な(個人では完結しない)生産過程並びに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」に切り分けた上で、前者を否定し、後者を肯定しているのであり、ルソーとともに「すべての人がいくらかのものをもつ」ことの重要性を認めている、いや強調しているのである。(p114)
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確認先:府中市立中央図書館
一言で締めよと言われたら、こう締めくくる、「市野川の難産とでもいうべき読解に読者が苦労させられる」と。まずはそこから問題になっている。
「社会的なもの」をめぐる入門書など存在しないというのは、本書が入門書以前の問題で立ち止まっている点でいかんせん理解できるのだが、どうしても「社会と政治」がイコールの関係になっているところが気にかかる(評者は「社会的なるもの」に政治は加担しないと考える立場)。それは安易な言葉の使用なのではあるまいか。
また、本書が「政治的なるもの」と「社会的なるもの」と「社会学的なるもの」と「社会運動なるもの」をパラレルミックスしているために初見殺しになっていることも惜しまれる。本書を三回読み直してみたのだが、いつまでもこのパラレルには頭が追い付かない。「なんちゃって社会学」の産物ではないことは確かだが、それでもこの悪文と内容のすさまじい厄介さにどう言えばいいのかわからない。
社会学がカオスであるとは、かつて上野千鶴子がAERAのムックで言ってのけた名言であるが、市野川の「社会的なるもの」理解もまたカオスであると言わざるを得ないだろう。読者をここまで困惑させておいて「自分も困ったからしょうがないじゃん」で逃げられても正直困る。ちょっとは主編者としての責任、感じたらどうなのかと(苦笑)。
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[ 内容 ]
今日の社会科学にとって重要な問いは、「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではない。
ある歴史性をもって誕生し、この問い自身が不可視にしてしまう「社会的」という概念を問題化することである。
本書では、この概念の形成過程を辿り直し、福祉国家の現在を照射することから、「社会的なもの」の再編を試みる。
[ 目次 ]
1 社会的なものの現在(日本の戦後政治と社会的なもの;冷戦以後と社会的なもの;社会学と社会的なもの;社会民主主義)
2 社会的なものの系譜とその批判(ルソー;社会科学の誕生;批判と展望)
3 基本文献案内
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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本書は、私たちがよく知っている価値中立的な「社会 society」とは異なる、理念を伴った「社会的なもの the social」の概念がどのような意味を担ってきたか、そしてそれがどのように忘却されてきたかの系譜を掘り起こし、批判的検討を加えた上で現代に再生させることを目的とした著作となっています。
まず、第Ⅰ部では、「社会的なもの」が忘却されてきた系譜が掘り起こされ、それを実現するための「社会民主主義」の在り方はどのようなものであるべきかが問い直されていきます。
特に後者の論点に関しては、20c初頭のドイツで活動していたV・ベンヤミンとR・ルクセンブルクが参照され、詳細に論じられます。著者は最終的に、議会制を基軸としつつ議会外の大衆運動にも開かれた「議会制を超える議会制」の構想が、「社会的なもの」を実現するための手段として適当であると結論付けています。
続いて第Ⅱ部では、J-J・ルソーを紐解くことで「社会的なもの」の起源が手繰り寄せられ、18世紀の英・仏・独の文献を詳細に検討することで、それに続く「社会科学social science」の系譜が明らかにされていきます。
第1章のルソー読解において、まず著者は『人間不平等起源論』の「civilな社会」と『社会契約論』の「socialな社会」の差異を詳細に検討していきます。続いて、自然状態での不平等を社会契約によって平等化するルソーの狙いを明らかにし、彼にとっての自由(=比較の排除)との関連を示唆することで、その危険性と限界を指摘していきます。そして最後に、自由と平等のために「同一性」を要求するルソーに対峙する形で、「差異」を承認する「社会的なもの」の再生を模索しなければならないとして本章を締めくくっています。
以上のような内容の本書ですが、分析が緻密かつ論理的であり、その描き方に躍動感があるため、ある種の高揚感をもって読み進められます。また、その分析に用いられる諸々の理論は、諸々の事象を捉える手法として援用可能であり、大変参考になりました。
例えば、第Ⅰ部では、現代において「社会的なもの」が忘却されてきた背景を、著者はフロイトの精神分析とルーマンのシステム論を用いて説明します。
フロイトによれば、「忘却」とは「否定そのものの否定」によって生じるものとされ、これが本書では、「社会的なもの」の政治的な忘却が社会主義を否定しなければならない現実から逃避する社会主義者たち自身によって生み出されたものであるといった説明に用いられます。
一方、社会学者は価値中立的な「二次元の観察」を行うことで、貧窮民を観察し「社会的なもの」の必要性を説くような「一次元の観察」を必然的に「不可視化=忘却」してしまうといったルーマンの分析が、ここでは社会学による「社会的なもの」の忘却の文脈で援用されています。
個人的には、著者の主張そのものに賛同するというよりは、このような分析手法の多様性に関心を持って読み進めました。実際、ベンヤミンやルーマンに関心を持つことができたのは本書がきっかけです。とにかく熱意を持って書かれた著作ですので、読んだ後必ず何か得られるものがあるように思います。おすすめです。
「��まいのしそうな他人の近さから抜け出て、自分とは異なる生を肯定し、同時に他人と同じではない、いや同じになれない自分を肯定すること。それを不可能にするような同情を打ち殺さない限り、社会的なものは自己と他者の双方に対して、死を要求し続けることになるのである。(p136)」