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ちょっと後半の展開が急なきがするけど、ウェルベック独特の視点がもう現れている気がする。
恋愛の自由主義化によって経済と同じ階層が出現してしまった。
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争の領域に誘われたが、果たして闘争の領域を目指そうとしたのか?その想いで読み進む事で繰り広げられる物語を客観視すると無意識のうちに闘争の領域を目指すべく目指していたことに気付かされた。ウェルベックが示唆した方向は残念ながらその通りになりつつあるが、このことについては彼が後々語り続けていくことになったんだろう。
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これがウェルベックのデビュー作らしい。テーマというか作者の姿勢は本当に一貫していて清々しさすら感じる。これと後の作品を比べると(全部読んではいないが)、変えていっているのは読者層を広く取り込むための工夫の部分だろうか。遡ってデビュー作が文庫化されるくらいなのだから、その努力は上々の成果を上げている。この作品自体は、面白いのだけど、まあウェルベックの作品として一番に薦めることはないかなという感じ。
最後はあの後、自殺したのかな?してないのかな?どちらもあり得ると思うが…。雄大な自然の中にいてもむしろ虚無感を感じるというのは自分にも覚えがある。個人というものの枠組が根源的には「死によって世界から分離されるもの」として規定されており、その前提のもとに社会が運営されているのだから、冷静に考えるとなかなかぞっとする。人は繋がりが完全に絶たれることに耐えられないにも関わらず、それを社会全体が奨励している。可能性のなくなった人は死んでいく。人間は一体なにがしたいんだ、とは思う。
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入手困難だった作品が河出文庫より刊行された。
河出文庫はホントこういうのを拾ってくれるから有り難い(あと、ちくまも)。
濃縮されたウエルベックのエッセンス……と言いたくなるような内容。読む人は多分選ぶし、誰彼構わず勧められる本ではないが……これ、好き。
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ウェルベック先生的要約は
「自由が進むと、経済的な落伍者が出るように性的落伍者がでるよ。」
「それってとっても苦しいことで、メンタルもやられちゃうよね。」
うん、つらい。
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自由であるが故に、自分が敗者となる恐怖・敗者であると認める恐怖は、私たちにとってもあまりにもリアル。
自分を客体視することで平静を保とうとし、硬質な文で綴られるこの独白も、その内側の絶望感を浮き彫りにしていて痛々しい。けっきょくのところこの主人公も愛を渇望していて、闘争領域の外に立つことはできないのだから。
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ウエルベックの処女作。冒頭のデブス二人がミニスカートは男の気を引きたくて履いているわけではないと高らかに宣言するのに対し「くだらない。粕の極み。フェミニスムの成れの果て」と主人公が毒づくのは苦笑してしまった。ウエルベックは相変わらず差別的だが、ある種の絶望した男性を描くのは本当に上手い。
自由主義が経済市場や恋愛市場に行き渡ること=すなわち闘争領域の拡大が本作のテーマである。Twitterでよく論じられるキモカネ論(キモくてカネのないおっさん)にも通じる内容で、それは主人公の観察対象であるティスランを見ているとよく分かる。彼は経済的には成功しているものの、性的行動は満たされていない。性的行動は一つの社会階級システムであると本書は語っているわけだが、生まれつき醜く容姿の悪い人間はそれを得ることができない。カネで代替することはできるものの、そこに愛はなく、狭い闘争領域の中に愛は存在しない。これは残酷な真実であり、どうしようもなさを感じてしまう。処女作ということもあって後の作品と比較するとやや淡々とした運びであり、救済も答えもないのだけれど、ウエルベックの暴きたい欺瞞がわりと露骨に出ている秀作である。
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フランスを代表するベストセラー作家であるミシェル・ウエルベックのデビュー作。フランス現代思想のような衒学的なタイトルであるが、その意味するところはシンプルであり、痛切なものだ。
近代の資本主義は、企業やそこで働く個人を市場という絶え間ない闘争領域に追い込んでいく。最初は生産・販売などの経済的活動が闘争領域で繰り広げられたが、止む事のない資本の自己増殖能力は徐々に闘争領域を拡大させていく。その結果、恋愛そしてセックスまでもが闘争領域に飲み込まれていく。
身の回りを見渡してみれば良い。良いセックスができる人間はますますそのチャンスを増大させる一方で、そうした機会が与えらない人間はますますそのチャンスを逃していき、格差が増大していく。
常に現代社会の残酷な一面を切り取り、小説という形態にテーマを昇華させ見事な作品に仕立て上げるウエルベックの方法論はデビュー作からして確立されていた。そうしたことを感じた一冊。
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現代フランスの作家ミッシェル・ウエルベック(1958-)の第一作品、1994年。資本主義的な「自由」が到り着いている地点を描く。
資本主義社会では、すべてが同一平面上に並置させられてしまう。すべてがフラット化してしまう。超越的なものが引きずりおろされてしまう。即物的無価値(金、力、快感、効用)へと還元されてしまう。世界がひとつの巨大な商品陳列棚、ランチプレートに成り下がってしまう。則ち、一切のものが貨幣という統一の尺度で比較され計量化される商品と化す。コミュニケーションは互いに商品ラベルと値札を貼り付け合うだけ。外部はありふれた商品として内部に繰り込まれ、消費されるだけ。一切の出口は予め塞がれている。
「生」の在りようが「自由」の追求にあるとする。資本主義社会において、「自由」とは「資源を選択する自由」である。しかし、「資源の有限性・希少性」ゆえに、「資源を選択する自由」は「資源を獲得する競争」として現実化する。こうして、「自由」は「自由競争」へと転化する。則ち、「生」のあらゆる局面において「自由」を追求するということは、「生」のあらゆる局面において「自由競争」に晒されることを意味する。つまり、「自由」の追求は、不断の「闘争領域の拡大」として現実化する。「絶対的窮乏化」が、経済的な自由競争(物質的資源の獲得)だけでなく、性愛の自由競争(性的資源の獲得)の局面においても引き起こされることになる。
こうした云わばありふれた地獄の、その出口の無さを、この作品は描いている。
□
自分がいつか感じていたような焦燥、嫉妬、絶望、倦怠の言葉が見つかる。
「しかし、なにをしたところで本当の逃げ道にはならない。次第に、どうしようもない孤独、すべてが空っぽであるという感覚、自分の実存が辛く決定的な破滅に近づいている予感が重なり合い、現実の苦悩に落ち込むことが多くなる」(p17)。
「要するにあらゆる逃げ道が塞がれていた。彼女にできることは、黙って臍を噬みながら、他の娘たちが解放されていくのを見ていることだけ。少年たちが他の娘たちの周りで蟹のようにひしめき合うのを眺めることだけ。他人のあいだに関係が結ばれ、ことが行われ、オルガスムが広がっていくのを感知することだけ。他人が悦びを誇示する傍らで自分が静かに崩壊していくのを徹底的に味わうことだけ」(p114)。
「その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。[略]。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている」(p125)。
「君はいつまでも青春時代の恋愛を知らない、いってみれば孤児だ。[略]。君には救済も、解放もない」(p149)。
「僕はがむしゃらに、うろうろと歩きまわる。いてもたってもいられない。しかしなにもできない。なにをやっても失敗する気がする。失敗。失敗だらけ。自殺だけが遠く埒外できらめいている」(p169)。
「僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分という檻の囚人だ。��高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった」(p202)。
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ところで、とかく日本では文学研究や社会学などでしか顧みられることが稀なフロイト精神分析は、どうやらフランスの一般的な社会の中に根を下ろしているような描写があるのだが、それはどのように位置づけられているのか。
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ウエルベックの処女小説。批判的な描写が多く、はじめは読みづらかったけど、半ばくらいから面白くなって一気に読んだ。
内容は、自由競争に疲れた(あるいは敗れつつある)者の独白となっている。ときどき哲学的な思弁が入ってきて面白かった。
勝手に要約すると、経済、セックスといった自由を求める競争はさらなる戦いを生み、戦線は日々拡大している。そして、その戦いから押しやられ落ちこぼれた者たちはどこへ向かうのか――といった感じだろうか。
つまらない街並み、退屈な仕事、派手派手しい広告、頻発するデモやテロ、実りのない異性へのアプローチ、主人公はもうなにもかもがうんざりといった様子だ。うだつの上がらない男女に対する軽蔑はまるで自己嫌悪そのもので、その逆に美男美女に対してはあっさりとへりくだる。「ちょくちょく気づかされるのだが、並外れて美しい人々というのは、たいてい慎ましく、優しく、愛想がよく、思いやりがある。」もう諸手を挙げて賞賛している。
要するにここでウエルベックは世間の敗者の潔い代弁(あるいは彼自身の告白)をしているのだ、と思うことにした。自分より下のものは徹底してこき下ろすが、自分より上の物には素直に羨望のまなざしを送っている。その羨望は「到達しえないものへの飽くなき聡明な憧れ」であって、彼が唱える社会階級システムを土台にしているように思える。
「性的行動はひとつの社会階級システムである」と主人公は言い切る。そしてまた「どうあれ愛は存在している。その結果が観察できるから。」と言う。彼に言わせればこの二つの間に矛盾はない、ということだろう。そしてつまるところ彼自身は愛されたいのだ。あるいは彼の同僚である同じく敗残者であるティスランも、誰かから愛されたい。しかしそれが叶わない。苦渋の世界で、彼らの心はさまよい、変化してゆく。
はじめはつまらない小説だと思ったけど、最後には共感してしまった。(ちゃんと理解できてるかわからないけれど)この小説に共感して評価することは僕にとっても一種の告白のような気がする。それほど物悲しく恥ずかしい小説だ。まるで現代社会の孤独を予言しているかのような作品だった。
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友人から借してもらった本。
現代は自由資本主義が恋愛みたいな個人的関係に入り込んでいるために、持たざる者は孤立するという小説なんだけど、ちょうど最近読んだフロムの「愛するということ」がまさにそういう話をしていたのですんなり入ってきた。
主人公はびっくりするくらい人の容姿の話ばかりしている。ブサイクな同僚やデブスの高校の同級生を心中でこきおろし、たきつけてあざ笑うけれど、私は本当にブスだしデブなのでそうやって実際にあざ笑われてきた側の人間だからしんどかった。そうか、こういう価値観のもとに、実験の体で、私はああ言われたり笑われたりしたのか、と思ったりして。何でこの主人公は被害者ぶってるんだろ。お前がそういう世界にしたんじゃないか。
確かに、そんな風に笑われて交流から閉め出されることで尊厳は傷つくし、価値交換的な世界観がこの世のすべてであるような気持ちになったりもするけど、だからなんなの、と思う。自分が市場において魅力的でなく、プレイヤーになれないことは動かしようもない事実なのに、頭の中でそんな価値観の再生産に終始してたら気が狂うのもそうだろうねとしか…。
自分は持たざるもので孤独だっていう虚しさは分かるけど、この人の愛とかセックスってシステムに従って与えられるものみたいな解釈で、自分の身を切らず、傷付かずにそういったものをあわよくば得ようだとか理解してやろうという姿勢を取るのが全く相いれない感じ。せこいし諦めが悪い。
フロムはセックスと愛の同一視について、フロイトの思想と資本主義の強い結びつきを指摘し、現代西洋社会の病んだ愛と断じていた(この時点で1950年代!)が、結局のところこうした未成熟な愛は自分の人格の成長が不十分なことに起因すると切り捨てていた。そして人は自分の愛の段階に無自覚なことが多いとも言っていた。それがこうまでしっくりくる話があるとは。ざまあみろ、というべき話なんだろうか。そう言った時に彼を馬鹿にする私の愛の段階は彼とどれほど違うんだろう?
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-くだらない、下衆の極み、フェミニズムのなれの果て-
-神が望まれたのは不平等であって、不当ではない-
-退屈というものは長引くと、退屈のままではいられなくなる。それは遅かれ早かれ、よりはっきりとした痛み、確固たる痛みの感覚に変わる-
【性的行動はひとつの社会階級システムである】
・ウェルベック作品の主題は「自らとその周囲の解明」
・第三者目線からの観察的な記述が多い
・傍観者的な主人公。でも対象化には失敗している
・ショーペンハウアーに毒されただけの事はある
(感想)
現代日本に非常によく当てはまる。
オフパコYouTuberを批判している人も多いが、彼らはこの自由主義社会のヒエラルキー上、頂点に位置するのは間違いない。
また、語り部を自分自身と重ねてしまう部分があった。
傍観者気取ってるものの結局無意識に愛を渇望しているのだと思う。(結果うつっぽくなった事もある)
うつの退院後って燦々とした陽光が凄まじく不愉快に感じられるんだよね。
寓意的な動物小説も彼自身の哲学が現れているようで面白かった。
けれども、やっぱり闘争領域にはうんざりだ!
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服従を読んでコイツとは全く理解し合えない、と突き放しかけたんだけどちょっぴりそうなのねって寄り添えた
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現代社会は、経済だけでなく、「性愛」も自由化され、富めるものとそうでないものの格差が拡大している。このような話は、しばしばSNSで話題になっている「弱者男性」問題にもつながっており、ここ数年は熱をもって議論されていることだが、ウェルベックがこの問題を30年も前に小説のテーマにしている点が興味深い。主人公は容姿がよくない同僚のティスランを心の中では散々馬鹿にしており、実際にティスランは性愛に関してひどい目に遭ってしまう。ただ、主人公の心情描写から、自由恋愛の世の中に果敢に立ち向かっていき、最後には不慮の死を遂げる彼を、著者は心の奥底では敬意を払っているのではないかという印象を受けた。愛を得られない者の哀れさを描きつつも、そういった者に対して寄り添いを感じる不思議な作品だった。
フランスでも話題になったようだが、現代の日本で広まればそこそこ議論を生みそうな一作である。
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初ウエルベック。インセル鬱病エンジニアの主人公が同僚の非モテ醜男と旅に出る。小説の形態をとりながらその中身はエッセイのような、論文のような、アジテーションのような。厭世的ではあるが世界を観察する眼差しを捨てることは決してできない。そんな哀しさに満ちている。皮肉たっぷりの持ってまわった言い回しは痛快で面白いけど物語として面白いかと言われると…??