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仏教好きの著者と6人の僧侶との「さとりってなんですか」をテーマにした対話集。
それぞれの僧侶の含蓄のあるお話も非常に勉強になりますが、なにより著者である小出さんの立ち居地が非常に心地よい。
相手との会話の中に出しゃばらずひっこみすぎず的確な合いの手を入れるような会話はとても好感が持てます。
それにしても仏教と一言でいっても宗派の違いのみならず僧侶一人ひとりの違いと言うのもあって面白いですね。
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様々な宗派の方が登場しているので、多角的な捉え方が一冊の本で読めて面白い内容だと思います。
対談形式なので読みやすいのですが、いろいろなところに肝要なことが散りばめられています。
藤田一照氏は「分断されている夢からさめてつながること」、
横田南嶺氏も同じように「世界は夢であり、それに気づいて生きていくこと」、
小池龍之介氏は、「なにものでもなく、なにものにもならず、ただ気づいて生きること」と前半は禅宗っぽい内容でした。
続く堀澤祖門氏は同じ“気づく”でも少しアプローチが違う気がします。「我々は泥仏、泥を落とそうとせず仏と気づくこと」。説明が難しいですが、仏というイメージするものが現れて【それ】に気づくというのが前半の三者とは違います。
そして釈徹宗氏はガラッと変わり、輪廻から生を考える「終わらない物語を生きる」となり、これに気づくこともまたさとりなりと思います。
大峯顯氏(小出氏も)は、輪廻する魂のことを「ほんとうのいのち」と言いたかったのだと思いますが、言い方が正しいかわかりませんが、その【システム】に気づくこと、理解して生きることが「さとり」だという事なのではないかと思います。
同じ仏教でも考え方は様々です。
さて、本題の「さとり」ですが、著者小出さんのあとがきにも書かれていますが、わからないのです。
それぞれの宗派立場で捉え方が違うのですが、どれも言葉での表現は難しく。あるいは理解が難しいのです。
なにしろ「さとり」という定義が無いのですから説明も難しいものになるのだと思います。
僕としてのまとめは、輪廻や魂、宇宙の仕組みは存在すると思います。
それらを知識で理解することはできても、『本当に気づく』(A)ことが難しい。これに気づくことが一つ。
もう一つは、その仕組みはあっても無くてもよい、『今生きていることを(時間軸的に)感じ、気づいてくこと』(B)。
この本には出てきませんが、(B)に“気づいて”生きるだけでも十分ですが、その先はひょっとしたら(A)に繋がるのかもしれません。わかりませんが・・・
仏教に限らずいわゆる精神世界のようなジャンルでも昔から「さとり」という言葉があります。
それらが、意味するものは全て同じかもしれませんし、「さとり」自体にもレベルがあるという考えの方もいます。
だとしたら、「さとった」と体感しても、それが本当の「さとり」なのかどうかはわからないというのが事実だと思いますが、真相は「さとった体験」をした人にしかわからないものなのかもしれません。
これからできることは、あらゆる教えやヒントを参考にし、思考し、体験、経験をしながら求めていくとその先に出会えるものなのだと思います。
追伸
この中に登場する方々の中に「(自称)悟っている」人はいませんでした。
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禅の考え方に興味を持っていた矢先、かわいらしいポップな装丁と、軽々しい(笑)タイトルに目が行き、図書館で借りる。
中身は、仏教に興味を持つ筆者と、禅宗・浄土宗など宗派も色々なお坊さんとの対談。
どなたがおっしゃっていたか覚えていないけれど、大体共通した考え方としてあったのは、
・仏教とは、生きるのを楽にする考え方を身に着けるもの。宗教というよりも日常の在り方(だから、禅センターでもカトリックの方がトレーニングしにきたりする)
・生きていることそのものが仏。欲にまみれているのは泥仏。
・川の流れのように、常に流れていること、変化することが大事。一つところにとどまっては、流れが澱んでしまう。
・ライオンでさえ、お腹いっぱいだと目の前に獲物がいても襲わない。一方の人間は、他の動物と違って、生存に必要なこと以上の「余計なこと」をするようにプログラムされている。
・大事なのは、欲を捨てることではなく、今欲をもってるな…と、自分の心の動きに気づくこと。
・最初から欲とか私を滅するような無とか意識しても、なかなかできないけど、一度悩んだり厳しく向き合った後に「仮有」になる。(無がベースとなり、仮に欲や私がある状態)
ざっくりとだけど、禅は、無とか空を意識して、私をなくす状況に、各々いけたらいいね、ってちょっと突き放した感じだけど、浄土宗はお念仏さえ唱えたら浄土にいけますよ、と、包み込むような感じなんですね。
全然違うな~と思いつつ、寛容さというざっくりした概念レベルでは共通しているのかな。
なんでもいいじゃん!という姿勢、争わなくてもいい、最後は、あるがままを受け入れるのが良いね、というところ。
・思考の枠を取り払うこと。宗派や在家・出家の区別(往々にして出家して修行した人の方がえらいと思ってしまう)というのも、一種の枠。
タイトルも軽々しいし、読みやすいけど、心が温まる。
・喜びも、悲しみも、根っこは一緒。何もないという点で。勝手にそう感じ取っているだけだから。過去ではなく、今の一瞬一瞬を大事にしながら生きればよい。過去の喜びも忘れるのが良い。そうしたら、一瞬一瞬、ありがたいなぁと噛みしめていきられるじゃない。
みたいなくだりが好き。
ついでに言うと、この本には、宗教のイメージっぽい超常現象を強調する人は誰もいなかったし、「~すべき」という人もいなかった。
宗教界の権威を振りかざす方もおらず、あくまで謙虚に、生き方について語って頂いていたのが、とても心地よかったと思う。