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知らない世界を知りたくて読了。権力闘争の果てにある政治の世界を垣間見た。部落差別に対する考え方や、逆差別、非干渉など非常に難しい問題だと改めて思った。政治家としての野中広務はやはり妖怪。
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前半は野中氏の生い立ちについて書かれ、後半は権力を握っていく過程と最後について書かれている。自民党の権力史みたいな感じで思いのほか面白かった。今だったら考えられないような無茶苦茶なこともやっていたようだが、とにかくその行動力と相手を動かす能力に目が覚める思いがした。自分を含めて今の若者に一番欠けているものが野中氏にあるような気がする。
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kotobaノンフ特集から。名前くらいしか知らなかった政治家の人物評伝。少なくともいま現在、”自民党”の響きにポジティブな印象は持ち得ないんだけど、それは歴史全てを否定したい感情ではなく、寧ろ第一政党を走り続ける舞台裏とかは、大いに興味あり。55年体制を俯瞰する書も手元にはあるんだけど、特定の人物にスポットを当てつつその歴史を総括する、みたいな本書の方が、より取っ掛かりやすいのでは、と思ってまず本書に当たることに。そしてその思惑は、まあ正解だったかな、と。本書は、戦後政治史としても良くまとまっていて、適度にビッグネームの名前も挙がってくるし、入門書としても機能するものだった。当人物については、差別に対し断固立ち向かう精神などは注目すべきものがあるけど、反面、沖縄問題とか国歌の法案とかについての姿勢は大いに疑問で、正直、良い印象は抱けんかった。でもそれについては、他の視点も必要かも。当然、別の同系統本にもあたっていこうと思います。
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被差別部落に関する人達への直当たり取材ができていることが素晴らしい。さぞ骨が折れた事と思う。野中氏本人はほとんど語っていないのは致し方ないのか。
解放運動、とざっくり認知していたが、その中にも解放運動と融和、共産党がらみなど、スタンスの違いがあることが知れた。
その中を巧みに泳ぐ政治家としての野中氏の、ゆらぐように見える政治理念の精神的背景が想像できて、とても興味深かった。
自分の信念を体現する手段として政治活動があり、政治理念が一貫することがないのは当然とも言える。それを本人も自覚している所が、彼の懐の深さだと思う。
これらのゆらぎを踏まえても、地力の強さは今の政治家の何人分以上であることは間違いない。
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自民党の代議士として強大な権力を持ちながら、小泉政権の誕生によってその力を削がれ、2003年に政界を引退した野中広務の生涯に迫ったルポルタージュ。
野中広務という政治家の背景として最も重要なのは、やはり被差別部落の出身であるという点である。本書では、そうした点も包み隠さずに書こうとしたことから、あるときに野中広務本人に呼ばれ、彼の涙と共に著者はこう告げられる。
「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
それくらいに、野中広務の出自に関する本書での調査は微に入っており、野中広務という人間の全体像が浮かび上がってくるかのような作品に仕上がっている。
どうしても世間のイメージというのは、権力を用いた老獪な政治家、というあまりポジティブではないものだと思うが、一方で弱者に対する優しさに溢れた一面も持ち合わせており、この二面性が本書を貫く通奏低音にもなっている。
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野中広務は、1925年10月に生まれ、2018年1月に、87歳で亡くなった自民党の政治家。被差別部落出身で、大学教育も受けていない。町議会議員から政治家のキャリアをスタートさせ、最後は国会議員・大臣まで昇りつめた、たたき上げの政治家である。2000年の自民党総裁選挙で、野中の推す橋本龍太郎が、小泉信一郎に大敗を喫し、政治的影響力をなくす。2003年に引退宣言をし、政治の表舞台から姿を消した。
本書は、そのような経歴を持つ野中広務の評伝である。
普通の評伝と異なるのは、筆者が評伝を書くことに対して野中の了解を得ていないことだ。逆に、本作品の月刊誌への連載が始まった頃、筆者は野中から抗議を受けたことを、本書中に記している。
野中広務が、自民党の中枢で仕事を始めた頃から、日本の政治は大きく動き始める。長年続いた自民党政治が終止符をうち、細川連立政権が成立する。羽田首相を挟んで、自民党が巻き返し、自民党と社会党という当時考えられなかった連立が成立し、社会党の村山委員長が首相に就任する。その後、橋本・小渕・森と繋がった後の総裁選挙で、上記の通り、橋本が小泉に敗れ、野中の影響力は急速に衰えるのである。
本書は、色々な読み方が出来る。
自民党、あるいは、広く、日本の政治の歴史、あるいは、日本の政治家の暗闘の歴史の物語として読むことが出来る。京都府の革新府政との闘い・部落解放同盟等の被差別部落関連の政治との関係・田中角栄との関係・公明党との関係、等、野中が関わった政治家や政治団体の物語も知ることが出来る。
また、評伝なので当然であるが、政治家・野中広務の物語としても抜群に面白い。野中が様々な闘いを勝ち抜きながら立身出世していく様子、最後には野中自身の政治家としての限界により挫折してしまう、その様子。
上記した通り、本書を書くことを筆者は対象である野中広務から了解を得ていない。従って、取材は書籍・資料、あるいは、関係者へのインタビューによってなされている。膨大な取材量を、このような物語とした筆者の力量にも驚く。
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部落出身の為政者、野中広務の政治動向はイデオロギーよりも政局に注視する。ある時は弱者救済に力を入れ、ある時は政敵の凋落を画策するあまり弱者への視座をやり過ごす。そのバランスは果たして政治能力として一筋縄ではいかない。政(まつりごと)は本来弱者へ寄り添うことが必然であるのに権力という魔物が彼を含めて局面を狂わせる。だが、部落差別をなくすのが自身の政治生命だと語る老獪な為政者は今後この国に現れるのか、このままでは現在腐敗する政局を打破できないのではないかと嘆息する。
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野中広務 差別と権力
著者:魚住昭
発行:2006年5月15日
講談社文庫
初出:月刊現代2003-2004年
単行本:2004年6月、講談社
2001年、KSD事件や「えひめ丸」沈没を聞きながらゴルフを続けたことなどから、森喜朗総理が退陣表明。後継首相に野中を推す声が高まり、総裁選に出れば圧倒的有利と見られていたが、「たとえ推薦されても、受けることは200%ない」と出馬を固辞。これに対し、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は、党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言い放った。
2003年9月、政界引退を表明し、最後の自民党総務会において、総裁の小泉はもちろん、政調会長の麻生を前に、野中は上記の発言を指摘し、「君のような人間がわか党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」と野中。激しい言葉に空気は凍りつき、麻生は顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
こんな差別主義者が、今も自民党ナンバー2として君臨し、時期大統領に返り咲くかも知れないトランプに総理大臣の名代として会いに行く。
それでも、まだ自民党に入れますか?
僕は、野中広務が出身者だと知ったのは、比較的最近でここ20年になるかならないかのことだと思われる。周囲の多くの人も知らなかったと思う。この本を読んで分かったが、それを広く知らしめたのは、著者が2003年の月刊現代に書いた、本書の元になった原稿だったそうだ。著者が野中から涙目で抗議を受けた一幕が書かれている。しかし、その報道は筋が通っているためか、それ以降はなにも言われていないようだ。文庫版の特典として、最後に佐藤優と著者の対談があるが、佐藤優もそう評価している。
ただし、本人が隠していたことを著者がアウティングしたわけではない。著者が調べた限りにおいて、公開の場で一度だけ自分の出自について野中は語っていた。それをもとにリポートしているといってもいいのかもしれない。1973年3月7日、京都府議会本会議場で府会議員として大鉄局を辞めた経緯を語った時のことだった。抜群に仕事のできた野中は、大卒でも9年以上かかる給与ランクに、旧制中学卒7年で到達していた。その妬みもあってつらい差別体験があり、それを語ったのだった。
ただ、それを知った僕は、どうもしっくりこなかった。野中のイメージは強権的ではあったし、裏では威張っている風な印象もあったが、俗に囁かれる〝同和利権〟的なものでのし上がった人物のようには思えなかったからである。本書を読むと、実際、そうだったようだ。むしろ〝同和利権〟的なものに反対し、解消していく動きをした政治家だったようである。とはいえ、自らが差別された体験から、弱者には優しかった。
政敵たちを震え上がらせる恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。これがどこから来るのか、著者はジャーナリストとしてそれを探ってく。
野中の世代だと、部落青年の生き方は三つに分かれた。
1.解放運動にのめり込んで���く者
2.ほどほどに生きていければそれでいいと消極的になる者
3.誰の力も借りずに自力で差別を乗り越えようとする者
野中は三番目のタイプだという。
京都府の園部町(現在は南丹市)の「大村」という被差別部落に生まれた。
そんな話から始まり、この本は僕らが目撃してきたこの30数年ぐらいの政界の激動、その裏にあった事情を次々とバラしてくれている。何気なく古本で買った本だったが、ものすごい一冊だった。
・NHKの島桂次会長が辞任に追い込まれたのは、小沢一郎が強引に磯村尚徳を都知事選に引っ張りだし、大敗した責任をなすりつけた格好になったため
・公明代表の藤井富雄が指定暴力団後藤組の組長と密談しているビデオを入手した野中は、亀井静香などと一緒に住専問題で妥協しろと迫ったが、小沢一郎は譲らなかった。この問題は本書のスクープ。公明党と指定暴力団との密着ぶり
・公明党を解散して新進党に合流した後、「静穏規制法」という法律を盾に脅しをかけた野中は、神崎代表に公明再建を決断させる。
・細川護熙が総理を辞任した「もう一つの問題」とは、個人資産をヤミ金融に高利で貸していた過去が自民党側にバレたから。時効だったが道議責任を口実に辞任
・「自自連立」を実現したのは野中。以後、犬猿の仲だった小沢一郎ともうまくやる。そして、今日までつづく「自公」を作ったのも野中だった。
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(以下、読書メモ。上記の詳細)
「大村」はかわた集団のひとつ。但馬国(兵庫県)出石藩主だった小出吉親(よしちか)は元和5(1619)年の国替えで園部に入り、初代園部藩主に。その時に国元から連れて来た「かわた」たちを城の南側に住まわせた。よろいや兜、膠の原材料をつくる彼らに特権を与え、皮革の納入などを義務づけた。
小出氏は和泉国の岸和田城(大阪府岸和田市)を本拠にする一族だった。始祖で城主の秀政は豊臣秀吉の側近で、長男の吉政は文禄4(1595)年に出石藩6万石の領主に抜擢された。岸和田と出石は本藩・支藩の関係で、後に岸和田3万石、出石6万石、合わせて9万石と称するようになった。豊臣が滅び、徳川により吉政二男の吉親が園部に移封された。
「大村」の祖先も岸和田が故郷となる。大村の年寄りたちの言葉は、丹波地方の方言とは少し異なる泉州なまりがあるという。「○○ですか?」ではなく「○○け?」。
野中が公開の場で自らの被差別体験を語ったのは、著者が調べた範囲では1973年3月7日、京都府議会本会議場で府会議員として大鉄局を辞めた経緯を語った時のみ。下記がその概要。
1943年春、京都府立園部中学(旧制中学)を卒業し、大阪鉄道局の職員に。仕事が非常に出来た。局長は佐藤栄作だった。戦後、1950年に審査部審査課主査の時、ずば抜けた能力で給与ランクもトップに。主査や係長といった身分とは別に、一職から十職までの職階制(十職の上は課長補佐以上の指定職があり、野中は十職だった。20年勤続の先輩が九職なのに。十職は、旧制中学卒なら18年以上、大卒でも9年以上が内規。野中は7年足らず。上司が内規を無視して昇級させていた。
ある日、更衣室で着替えていると、棚を隔てた向こう側から聞き覚えのあ���声。「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いでやっているけれども、園部は帰れば部落の人だ」。野中が被差別部落出身であることはあっという間に局内に広がった。なんであいつをあんな高いポストにつけたのか、という抗議の声も。野中は退職を申し出た。1951年4月、野中は園部町議に当選。
野中は権力者になればなるほど、権力維持に役立つこと以外を排除するようになった。(80-81P)
1959年8月と60年8月、2年連続で水害。園部町長の野中は復旧工事の査定に来た建設省の役人をそのたびに助役や議長と一緒に町一番の料亭「三亀楼」で接待した。賭け麻雀をして役人たちに20万円ぐらい負けてやった。すると役人たちは翌日に現地をろくに身もしないで、こちらの目論み通りの査定をして次に行った。
野中園部町長は蜷川京都府知事を支持してやってきたが(うまく取り込んで園部の道路や施設を整備、周辺の町村の恨みを買っていた)、1966年、蜷川が5選を目指すときから変化。共産党の影響力が強くなった1962年ごろから町村長に対して「踏み絵」をさせるようになり、それに反発した。
京都新聞政経部デスクの笹井は社長の指示で京都ホテルへ行く。そこにいたのは田中角栄自民幹事長。選挙情勢を聞かれ、厳しいと答え、蜷川支持を決めている町村会の動向がポイントだとも。「明日、キミところのオヤジ(社長)を訪ねるが、土産はなにがいいか?」と問われ、テレビです、と答えた。
京都新聞を訪れた角栄は、テレビの開局許可を臭わせた。そこから京都新聞は蜷川の一騎打ち相手である自民・民社推薦の浜田正を当選させるべく、反蜷川キャンペーンを張った。しかし、蜷川の勝利に。
野中は被差別部落の人たちからは人気があったが、部落外の人への人気取りもうまかった。適度に解放同盟批判をして人気を得ていた。部落の人たちの前では決して批判をしないのに。
野中は、戦時中、園部町周辺の鉱山で酷使される朝鮮人たちの姿を見ながら育ってきた。朝鮮総連京都支部元幹部の李明哲は、日朝交渉の舞台裏に長年関わってきたが、彼は言う。「京都の在日同胞は養豚をやってきたが、周囲の生活レベルが上がるにつれて異臭などのトラブルが頻発するようになり、社会問題化。その解決のため、府と交渉した時の相手が副知事をしていた野中だった。自身が差別を受けてきたから我々の痛みもよく分かってくれて問題解決に尽力、今の養豚団地ができた」
1994年4月、東京都知事選が行われ、鈴木都知事が4選を果たした。前年の12月、自民党の小沢一郎はNHK会長の島桂次を呼び出し、磯村尚徳を出馬させると了承を求めた。島は消極的な返事をした。小沢は強引に磯村を口説いて出馬させたが、85万票の差で負けた。竹下派を中心に、「小沢に磯村を推薦した島がそのままいるのはなにごとだ」という声が上がり、島桂次は首を取られた。島はBS用の放送衛星打ち上げ失敗2回と、その時にロサンゼルスのホテルに女といたという疑いで追及されていた。
野中は橋本政権時代に決まった郵政の公社化に関して「それを決められたとおりに実践する」と言っただけだが、小泉政権時代に「抵抗勢力」と決めつけられて敵視された。野中は無茶を言わず、流れをみて判断するタイプ。それがうまい人だった。世の中がそういう雰囲気になったときにバンと言うのがうまかった。
細川(護熙)事務所は、1981年から数年間、細川の個人資金を1千万円単位で「ヤミ金融」に出資して高利回りで運用していた。時効とはいえ、出資法や貸金業法違反の疑いがあり、国会で明らかになれば進退はきわまる。数日後の4月8日、細川は「(佐川からの借金とNTT株購入)とは違う新たな問題があると分かった。事務所に任せていた個人資金の運用で法的に問題があった。道義に関することなので辞職する」
羽田政権に社会党が加わらなかったのは、新たな統一会派「改新」が届けられたため。細川辞任の際、7党1派の連立ではだめだ、統一会派をつくらないと改革はできない、と言ったのが始まり。問題は社会党が了解するかどうか。民社党の大内委員長が村山の了解を取ったと小沢一郎に報告した。小沢は非常に真面目で他人の言葉をその通りに信じて疑わない。しかし、届を出した後で村山が「了解した覚えがない」と怒りだした。
強行採決の乱闘騒ぎは、常に野党を含めて事前に打ち合わせ済みの「話し合い強行採決」。国鉄の値上げ法案で、社会党の中島英夫が8時と18時を間違えてこなかった。自民党の坪川信三が委員長で採決。1人事情の分からん者がどーっと来た。乱闘スタイルがあり、坪川はネクタイを緩め、バンドは危ないので外していた。ズボンが落ちて褌ひとつになって医務室に担ぎ込まれた。
1997年4月11日の衆議院許雄会議。加藤紘一の説得で沖縄特措法の委員長を受諾した野中は採決前の委員長報告で「ひとこと発言を許してください」と前置きした上で、35年前の出来事を語りだした。初めて沖縄を訪問したときに運転手が宜野湾に入ったところで急にブレーキをかけ。「あの田んぼの畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです」と泣き叫んだ・・・その光景が忘れられない。どうぞこの法律が、沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい。
小沢と手を結んで改正案を成立させた梶山静六に対する強烈な当てつけでもあった。
1996年3月、公明代表の藤井富雄が指定暴力団後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。テープを自民党側に届けた者がいるということだ・・・野中はその情報を握っていて、村上正邦、亀井静香も一緒になって、問題を表に出したくなければ住専で妥協しろと言ってきた。しかし、小沢党首は譲らない。
藤井が後藤組と接触するようになったのは、学会本部が右翼・暴力団の街宣車に悩み、藤井が元警視総監らの仲介で組長にあってパイプを作ってから。
創価学会は野中を恐れていた。例えば、学会発行の「聖教ブラフ」には、池田大作と外国要人などとの会見場面の写真がたびたび掲載されたが、バックには学会施設にあるルノワールやマチスなど有名画家の高価な絵が写っており、野中はそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと付き合わせていた。園結果、届け出のない絵がいろいろと分かった。野中は直接それを言ってくるわけではないが、耳に入るようにして恐がらせる。
1988年に「静穏保持法」が成立した。外国公館および政党事務所周辺での拡声器使用を規制する法律。それまで悩まされてきた学会本部や池田の私邸周辺での右翼の街宣活動はピタリとやんだ。どちらも「政党事務所」である公明党本部の周辺規制区域内にあるため。
旧公明党がなくなり、衆議院が「新進党」になった。参議院もその方が票の稼げる公明党は同じ道を決めようとしていたが、切り崩しにかかったのは野中だった。公明党がなくなれば、公明党本部は政党事務所ではなくなるため、規制から外れ、再び右翼の街宣車の餌食になる。票か静穏か、どちらを取るのか?選択を迫る野中。小沢に反発を徐々に感じていた神崎が決断をしたのは後者だった。
1998年、野中が「自自連立」に動いたのは、学会・旧公明党側から「いきなり自民党と組むのは学会婦人部などの反発が強すぎて無理だ。ワンクッション置いて欲しい」と強い要望があったため。11月19日に小渕・小沢会談で合意、99年1月に正式発足。
1993年10月、野党として野中は本格的な解放同盟批判を繰り広げる。国税当局と解放同盟の間で交わされた「秘密覚書」を衆議院予算委員会で取り上げた。「秘密覚書」は1968年に大阪国税局長と解放同盟の間で交わされたもので、同盟とその関連団体である企業連合会に加盟している会社の税務申告は一切の検査をせず、自主申告ですべて認めるという内容だった。70年にはこの確認事項が国税長官名で全国の税務署に通達され、「同和控除」といわれる特別扱いが全国に広がった。
1997年3月に延長されてきた同和対策事業特別措置法がいよいよ期限切れになることに。社会党の小森はもう一度延長を野中に頼んだ。1996年10月、園部町で解放同盟京都府連が野中の激励集会を開いた。約1000人の同盟員が集まり、野中代議士を再度国会へ」と訴えた。社民党の野坂浩賢も出席予定だったが、新幹線が台風でストップしたため、電話でのメッセージがスピーカーで流れた。解放同盟が自民党代議士の選挙を公然と支援した全国で初めてのケースとなった。
2001年、KSD事件や「えひめ丸」沈没を聞きながらゴルフを続けたことなどから、森喜朗総理が退陣表明。後継首相に野中を推す声が高まり、総裁選に出れば圧倒的有利と見られていたが、「たとえ推薦されても、受けることは200%ない」と出馬を固辞した。これに対し、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言い放った。