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鴻巣友季子の2018年のベスト。
『献灯使』(2014年刊)の英訳版(訳・マーガレット満谷)で、アメリカ最高峰の文学賞の一つ「全米図書賞」の翻訳部門賞を訳者とともに受けました。
主人公の女性「Hiruko」はヨーロッパに留学中、母国がなくなってしまうという事態に直面します。
本書は、故郷を離れてさまようディアスポラたちの、言語をめぐる物語。
「パンスカ」という人工の普遍語を独自に考案したから。
佐伯一麦2018年の3冊
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面白くてスルスル読めてしまった。
いつまでもずっと読んでいたかった。
「帰る国がなくなってしまった」留学生が主人公ということで、とても恐ろしい話かと思っていたが(「献灯使」がどうしても意識される)、今のところは大丈夫。
続編があるということなので、とても楽しみだ(怖くもあるけど)。
登場人物たちと旅を続けたい。
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hirukoは産み落とされ捨てられた
最初の神の子蛭児の比喩で、
susanooは蛭児の兄弟または蛭児でもありうる
須佐之男命の比喩なのだろう。
自国が消滅した主人公と
主人公を取り巻く人々の
アイデンティティを探す旅は、
大円団、各々が好きなだけ話し、
理解し合い、また、旅を続ける。
前回読んだ「献灯使」と同じように、
言葉遊びに溢れていて、愉快な言葉の中にも
なんだか寂しさを感じてしまう。
それでも、なんとか互いを認め合う事は
案外、簡単なのではと思わせる。
地球にちりばめられて。
読了して、すんなりと心に沁みるタイトルです。
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越境していくこと。それが自らの選択によるものか、成り行きによるものか、或いは余儀無くされたものかといった違いはあるにしても。
流浪となり彷徨となり侵犯となり、輪郭を顕わにし曖昧にもし、変容させ溶解させ、解放ともなる。
母国を喪失し母語を発話する機会を失なって、パンスカという独自言語を発案するHiruko、トランスジェンダーのアカッシュ、いつしか自らの文化的出自を偽造するようになったナヌーク、幾つかの言語的変遷を経た後、失語症的状況に陥っているSusanoo。国籍、性別といった文化的、生物学的出自の越境者である登場人物達。彼らが一堂に会する小説の終わりはとても明るく開かれている。
普段、自分の日常にあっては気付けずにいることを、この小説は感じさせてくれたように思う。
母国の喪失に遭い、自己の文化的アイデンティティーの不安を感じてもおかしくない筈のHirukoが何とも軽やかでタフでユーモラス。ムーミンの話とか彼女が作る紙芝居とか実に楽しい。パンスカを喋るHirukoが綾波レイの声で脳内再生されたw。
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これは多和田葉子にしか書けない小説。エクソフォニー、母語の外へ渡って行くことで母語の響きに含まれる根源的な意味に通ずること。しかしその境地に至ることに付随する孤独。それが書き記された文章の中にまざまざと表現されてしまうことをよしとしなければならない。
例えば、失われたとされる鮨の国。その理由は明らかとはならないが見え隠れする原発の影。それに加えて、自分と同じように母語から切り離された人々との交流。それらがまさに坩堝の中に一緒くたに混ぜ合わされ徐々に溶け出してゆく。しかし決して一つに融合することはない。その生殺しのような思いを何時までも忘れずにいる、そんな物語。
発せられた一つの言葉の一つの音が何かを呼び起こそうとするその過程。それだけをどこまでも真剣に掬い上げようとする。それがこの作家の特徴であるとすれば、小説の始まりから終わりまでを貫く筈の筋は余り意味がない。例えばこの小説において再三言及される鮨に与えられた役回りがそれ程重要でないとの同じように。そう書いてしまってから、ふと疑問が生じる。本当にそうだろうか、と。
寿司は江戸前で新鮮な魚介が水揚げされるようになり生まれたという。それはいつの間にか様々な変容を経て世界中に散りばめられ、オリジナルという言葉の意味するものを無価値にしつつある。母語という言葉の意味が少なくとも英語においてそうなったように。そのことの象徴として作家は鮨をメタファーとして選んだのか。
あるいは江戸前で新鮮な魚介が採れた原因が急増した人口による生活排水の流入増加でプランクトンが大量発生したことによるという状況と、原発によって漁業を行えなくなった海で大ぶりの魚が回遊しているという事実を重ね合わせて皮肉ったものなのか。この作家であればそのくらいのことは韻律の中に溶け込ませることはしかねない。
例えばSという音に含まれる静寂、静かさ、Silenceに共通するものが何故普遍的なのか。あるいはKまたはCという音に含まれる悲しみ、苦しみ、cryといった情感に何か共通したものがあるように思えるのは何故なのか。多和田葉子を読むとそんなことばかりが気に掛かる。
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安定の多和田葉子。今までの小説でも様々な言語の語源、構造、響きをじっと見つめてそれを解体し新しい感触やイメージを差し出されて、私はその卓抜した言語感覚に殴られるばかりの多和田読書だったけれどついに自分で言語を作ってしまうところまで来たのですね…国々を渡り歩き、どの国でも意味が伝わるような言葉を自分で作ってしまえるならば母語という概念もそのうち不要になる時代が来るのかもしれないですね。
(Hirukoが作った「パンスカ」(汎スカンジナヴィア語)の概念は映画『異端の鳥』で地域を特定されないように敢えてインタースラヴ語を使ったという話を思い出した。考え方のベクトルは逆だけど)
多和田葉子は今のところ日本語での小説は全編日本語で(どんな言語が登場しようとも)書いているけれどそのうちまじで英語独語スラヴ語そしてパンスカ交えて書いてきそうでいずれ誰にも読めない小説を作り出してしまうのではと思っている。読めないことはないけど読者側にも言語の知識がないと手も足も出ない小説がそのうち多和田葉子の手によって爆誕するのかもしれない。もしかしたらこの人が最後に目指すゴールってそういう小説なのかもしれない。
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多和田葉子の小説に
というわけで、3月頃(だっけ)読んだエクスフォニーの多和田葉子の今度は小説。日本人(と、おぼしき)女性が、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語の3種を散りばめながら話す新言語。それに興味を抱いて出会ったデンマーク人青年、という今のところ。その女性のセリフが、日本語では書いてあるのだけど、日本語にしてもなんか変。青年の方も鮨をフィンランド料理だと思っていたり(鮨屋にムーミンの絵があるだけなんだけど)、それをうけてムーミンがあの体型を維持するために日本に来たと言ってたり。
でも、「日本」と明言していない、そこもミソ(新潟県はあるらしい)
(2019 12/03)
移動が映る、個人の言語領域
昔の移民は、一つの国を目ざして来て、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す。
(p38)
上記の新言語?本人は汎スカンジナビア語という意味で「パンスカ」と呼んでいる。
ここもちょっと気持ちいいのか居心地悪いのか、微妙にずれた言葉使いになっている。実際には?デンマークの人と(一応)日本人が、砕いたデンマーク語と「パンスカ」で話している場面なんだけど、最初に作者の頭に浮かんだ言葉はどんなだったのだろう。
(2019 12/04)
メルヘン・センターの外に出ると、石畳の小さな広場があって、真ん中に石でできた少女が立っている。マッチをすろうとした瞬間に魔法をかけられて動けなくなってしまったかのように立ちすくんでいる。わたしはそれを見る度に、石の少女が動き出し、わたしの方が石になる日が来るのではないかと思えて恐ろしくなる。
(p45)
(2019 12/05)
トリアーのインド人とマルクス
昨日読んだとこは第3章。今度はまた新たな人物としてインド人のアカッシュってのが、前の二人をトリアーで出迎える。このアカッシュなる人物、男であるのに、自分は女性だと感じていて、それを「西洋医学お得意の」治療や性ホルモンとかではなく、自分で脳をゆっくり洗脳?してやっていくとのこと。だからアカッシュが興味あるのは男のクヌート(デンマーク人)の方。
そいえば、(確か)第1章でそのクヌート(デンマークの古代の有名な王様の名前でもある)が、テレビ局でトリアー監督を見かけるシーンがやや唐突に挟み込まれていた。実在の人物が出てきたのはここだけなので意表をつかれたけれど、考えてみればこのドイツ小都市トリアーとかけていたのね。その町の方のトリアーは、ローマ帝国の前線都市で、ポルタ・ニグラ(黒い門)とかローマ浴場とかの遺跡、そしてまた、カール・マルクスの生家もここにある。という。最寄り空港はルクセンブルク…
引きたいところはまた後で…
(2019 12/07)
黒い川と、南の木々
第4、5章。
第4章ノラの章。
「どこどこから来ましたという過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友達になる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。
(p91ー92)
これと対をなす第5章ではテンゾ/ナヌークが自己の過去アイデンティティーを作っている。
テンゾの方も私に対して何らかの感情を持っていたことは確かだと思う。それは、雪野原を割って重く緩やかに流れる黒い川を思わせた。その流れが夜になって熱を帯びてまっすぐこちらに向かってくると、激しい風が起こって、意識が蝋燭の火のように吹き消される。
(p107)
第5章テンゾ/ナヌークの章。テンゾはグリーンランドから来た。でも、「おやじ」から突然名前を告げられたとこ見ると、これも本当の名前なのか疑問かも。
また、ここでもトリアー監督が出てくる。彼の制作したテレビドラマを再放送で見ていたということだが、もともとは一族がトリアーの出身だとテンゾは言う。
ハシオキ、ウルシ、ミソシル、ワカメ、コンブ、ネギ。不思議な響きばかりだった。遠い場所から響いてくるのに、どこか懐かしい。発音するとずっと忘れていた子ども時代のある情景を思い出しそうになる。ところがその情景は映像を結ぶ寸前に消えてしまう。
(p141)
なんか物語自体の伏線もあるのかもしれないけれど、でなくても、幼児のときは母語にはないいろいろな発音が可能である、という発達心理学なんかも思い出す。
「南」という言葉が夜寝ている間に俺の脳内で繁殖し始めることがあった。刈っても刈っても土の中から南という名前の雑草が生えてきて、部屋を外から包み込むほど背が高くなり、もうドアも開かないので外へ出ることも出来ず、室内温度はどこまでも上昇し、蒸し暑く、壁は汗をかき、頭がくらくらし、毛穴から吹き出してくる汗のにおいがいつの間にか精子のにおいに変化し、おぎゃあ、おぎゃあ、と四方から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。どれもこれも俺の子だ。
(p148)
作品半ば過ぎ。後半に向けて気にかけていること二つ。
「地球にちりばめられて」というタイトルはなんか妙だけど、ちりばめられているのは登場人物たちもあるけど、それより言語というものではないのかな。理解できるものと、できないもの。一つの言語が他の言語と隣り合っているわけではなく、刻まれて、他の土地に織り交ぜられている。そういう感じ。たぶん、人物も。
それより、直近の気になるところ。テンゾが出かけたまま帰ってこない。ノルウェーが政情不安だから、との理由だが、「ノルウェーが政情不安なわけない」と皆が思っている。でも、なんらかの事件は起こっているらしい。日本(とおぼしき国)がなくなっているということならば、ノルウェーで何が起こっていてもふしぎではない、とも思うのだが。
この答えは多分次の章で。
(2019 12/10)
第6章。折り返したとこ。
水の色は、黒い青色から緑がかった青色、灰色に近い青色に刻々と変化していく。雲が絶え間なく移動していくので、それを映して水もどんどん色を変えていく。人間の顔は、水の表面ほど繊細に表情を変えていくことができるのだろうか。
(p167)
一般的には人間の顔の表情の方が繊細に��化していく、と思われていないだろうか。ここら辺、作家多和田葉子の大きな思考の枠組が見て取れないだろうか。表情を変えていくものと、かえって見にくくなっているもの。無機物と有機体。
(2019 12/11)
オスロのモネとアルルの七人
モネが浮世絵の富士山を書きたい、とオスロー(作品中はこの表記)に来たという。そんなことあったんかい。まだ外部資料にはあたってないけど、なんかほんとにあったみたい。
水とモネ睡蓮との関わり合いは既に、前章でも書かれていた。呼応関係はあるのか。
沈黙には、湿った沈黙と乾いた沈黙がある。いつか沈黙の湿度と温度について研究してみたいけれど、果たして沈黙が言語学の研究対象になるのかどうか。
(p195)
この最後の問いには、この小説の最後に答えが待っている(と読み終えて思う)。
しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言語を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。
(p210)
これは著者多和田氏の問いかけそのものではなかろうか。
久しぶりで聞くドイツ語がオレの心のドアをドドンドンドンと外から叩いた。開け方はわからない。自分の家の中で迷子になってしまって、ドアに辿りつけないのだ。
(p258)
ここはアルルにいるSusanooのところにノラがやってきた場面。Susanooはテンゾ/ナヌークが働いていた鮨屋の開店者。ナヌークからみれば祖父くらいの歳のはずなのに、なぜか歳をとらない、という設定。歳をとらないからか人前で話すこともできなくなったみたい。そんな人物がナヌークから聞いた話をするノラの言葉に動揺している。
そんなSusanooを更に揺さぶろうとしているのが、次章のHiruko(って最初はひろこの作者の故意的な間違った表記なのかとおもっていたら、Hirukoという神がSusanooとともに古事記にいるみたい)。ここのある意味で一人語りは、この作品の読みどころの一つ。アマテラスオオミカミの隠れた神話とも呼応して。
アルルでの生活は、竜宮城での生活みたいでしょう。異国的な女性が次々目の前に現れて踊ってくれるし、知らない花の香りにうっとりし、異国的な屋根瓦の色をぼんやり眺め、退屈することはないけれど、いつの間にかどんな時間の流れからもはずれてしまっている自分に気がついて、急に家に帰りたくなる。
(p269ー270)
だからSusanooは歳をとらなかったのか。この時間の超越性はここのちょっと前でHiruko自身が言っている通り、この作品の登場人物全てに言えること。気ままにデンマークからドイツへ、そしてノルウェーから南フランスへと旅しているのをみてもそれを感じる。
最後の章は、クヌートが語り手になり、突然入ってきた彼の「おふくろ」(ナヌークに奨学金を出している。クヌートとナヌークというのも対人物)を含め最終的に計7人となる。
僕はナヌークが嘘をついているなと直感した。それを嘘と呼んでいいのかどうかは分からないが、袋小路に追い込まれた時に、言葉をシャベルにして抜け穴を���っていく、あのやり方だ。でも、その時必死に掘った抜け穴が何年か後で研究の土台になるかもしれない。そうなったら、それはもう嘘ではない。つまり、言葉を発した瞬間にはまだそれが嘘かどうかは決定していないということになる。
(p298-299)
言葉が先で、行動はその言葉により形づくられるということか。終わり方は、なんの挨拶もなく気がつけばおふくろいなくなって、ストックホルムでSusanooの失語症を調べに行こう、というところで切れている。まだまだこの調子なら数珠つなぎでいくつでも章が続いていきそうだから、適当に区切った、そんな感じ。著者にとっては、物語の筋というか外枠は何がしかあってくれればよくて、やりたかったのは各章内の細かな言語実験だったのだろう。
読み手としては、もうちょっとその実験につきあってもよかったな、と思うのだけれど。
(個人的には、トリアーとかフーズムとか、滋味ある小さな町が舞台なのも楽しめた)
(2019 12/15)
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普段海外文学しか読まない自分に誰かオススメの日本人作家いない?と友人に聞いたところ、多和田葉子さんの名前があがった。
読んでみて、なるほど確かに海外文学好きな人に勧めるにはぴったりの日本人作家だと納得する一方で、まぎれもなくこれは日本文学だ、とも感じた。何をもって“日本文学”とするのか、特に自分の中で基準があるわけではない。ただなんとなく、BADHOP言うところの『内なるJ』というやつを文章の端々に感じるのかもしれない。とはいえ、それは全く悪い意味ではなく、むしろ自分にとって新鮮な感覚として味わえて嬉しかった。
こうの史代さんの漫画「ぼおるぺん古事記」には、イザナミ・イザナキの最初の子、水蛭子(ひるこ)が葦舟で流される際に釣竿を持たされる描写がある。これは、巡り巡って蛭子→ゑびす様として祀られることの示唆なのだと思う。この本のHirukoにおける唯一の武器は釣竿ではなく、パンスカという独自の言語だ。海の向こうからやってきた客人神は、様々な人間を巻き込みながら自分と同じ母語を話す者を探し続ける。。。貴種流離譚というか、あらすじ自体は神話めいている。けれど実際は異人種の若者たちによる青春群像劇で、読み味はとても爽やか。
全編にわたりパンチラインに満ちているので、最初のうちは感心していちいちメモをとっていたが、そのたび読書が止まるので途中からメモやめて読み進めるのに集中することにした。それくらいハッとするような文章が多い。
続編もある?といくつかの感想に書かれていたので、楽しみに待つことにします!
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「地球にちりばめられて」(多和田葉子)を読んだ。
言葉の魔術師(と、僕は多和田葉子さんのことを密かにそう呼んでいる)多和田葉子らしい面白い作品です。
Hiruko達のこの先の『旅』に想いを馳せる。
言語とアイデンティティかあ。難しいなあ。
やっぱ日本語なくなったら寂しいさあ。
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今年読んだコミックスで、「マッド・ジャーマンズ」というドイツ移民がテーマの名作がありますが、これからはグローバル世界を念頭に置いて行動したいものです。多和田さんが描いた移民世界は、ほっこりヘンテコで、言葉のセンスも抜群にウィットに富んでいて最高に居心地がよいのです。国(ナショナル)とは何なのか?言語とはなんなのか?いろんな問いを誘発する名作です。
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国、言語を越えた地球の多様性なんて言葉じゃ表せないモザイクさ。
スゴすぎて、これ別の言語で翻訳できるのかな。
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寄る辺をなくしたひとが、「移行していく」ということ。それが当たり前になりつつある世界で、新しい自分にニュートラルしながら、いつしか、希うように自身のーーたれかの、源流、はじまりを探すということ。途方もないようで、けれど「人間」がなにに依って立つのかを描いていると思う。表題の通り『ちりばめられて』いるように進んでいく物語……。かつてあった河川が涸れて孤立した水が想う、と人間が思い描くようなかたちとも。歴史やジェンダーのことを少しながらかじっていようとしている身として、はっとさせられることも多かった。終わり方が不思議だったけれど、続編があるからこそのシーンだったのだろうか。
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刊行当初から気になっていたのだが、じぶんには難しいかもしれないと悩んでいた。およそ2年間も気になっていた作品の続編が出たのを店頭で知りおもいきってみたら、これがもうめちゃくちゃおもしろかった。故郷が消滅してしまったという導入からさっそく置いていかれ、しかし文章が軽やかに先をいく感覚がひじょうに楽しかった。Hirukoが話すパンスカ、代わる代わる語られる旅路、何よりも初めて出会う多和田葉子さんの小説に魅せられ夢中だった。ああ、こんな世界があるなんて! 小説ならどこへでも行けることに改めて感動する読書だった。
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この世界の延長線に有り得そうな世界を舞台に言語を軸に人びとの出会いと旅情を描く不思議なものがたり。とても興味深い舞台設定なのだけれど、ものがたりが登場人物の独白で綴られていて、その中で必要なぶん以外の舞台背景が語られないのが心地よくももどかしい。
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うー、ぱんすかの音がなんかとてもとても聞いてみたい。日本がなくなってる経緯が知りたい。この先の展開がどうなるのか読みたい。って、これ、完結してるのだろうか。
面白いんだけど。