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留学中に母国が失くなってしまった女性が、旅の途中で知り合った様々な国の人たちとともに、同郷の人を探しに行く。
詳細は不明だが日本とおぼしき国が消失したらしい…という設定も不思議だが、登場人物もみな一風変わっている。
北欧を転々とするうちに、何となく意味の通じる独自の言語を作り出したHiruko。語学を身につけることで第二のアイデンティティを得て、日本人を名乗るグリーンランド出身のエスキモー、女性として生きることにしたインド人、フランスに滞在し年齢不詳で言葉を発しなくなった日本人男性など。
厳しい状況に置かれているはずなのに悲壮感はなく、社会風刺や皮肉が効いているのに深刻にはならない。いつもどこかに遊び心やおどけた軽やかさがあるところが、なんとも魅力的。作者のこのセンスは、いつも質のいい読書のわくわく感を味わわせてくれる。
第二部もまとめて図書館で借りたので、続きはどうなるのか早速読もうっと。
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母国語を探すための旅をする話。
不思議な魅力で仲間が増え、新たな目的も増えていく話。
色々な言語や考え方や登場人物が出てくるため少し話が分かりづらい気がしました。
ただ、描写などはわかりやすく引き付けられるものがありました。
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国、民族、言語、性…どれも境界がある物。でも、その境界は、これからどんどん溶け出してしまうのかな。
『アイデンティティが人を殺す』で気づいた、複数の帰属先を持つことの意義。それが薄らいで、それが懐かしいと思える時代が来るのかな。
そんなことを思わせたこの小説の著者、多和田葉子さんはドイツに拠点を構える作家。境界を考えるには、やっぱりアメリカよりヨーロッパなのかな。
この小説を読んで、いろいろな思いが頭を駆け巡った。そして、その思いを文字にしようと思ったら、いつもと違う散文(駄散文?)になってしまった。これも、この本の持つ力のせいなのかな。
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びっくりした。日本に住んで日本語しか話せない自分とかけ離れているようで、でも読み終わって本を閉じると、表紙の「多」や「和」が「タタ」「ロ」になって散らかりだす。こんな体験があるのか…。
ノラとナヌークが出会う地下で水しぶきの音が「ジャパン」となるのがよかったな。ほかにも言葉の糸がひらひらしていて、探しながら読めて楽しい。
端々に、本文には関係ないような言葉遊びのようなものが文字通り散りばめられていて、それがほんとうに頭の中を再現しているようで不思議な感覚。
知らない地名がたくさんでてきて、それぞれの位置関係も感覚も知らなくて、でも置いてきぼりにならない。
それぞれが軽やかでありながら寄る辺ない個々であること、細い糸を撚るようなつながり。でもカラッとしていて、「さあいこう」「いっしょにいこう」「また会おう」と気軽に旅に出る。
場の空気クラッシャーとしてのお母さん、いたら嫌だけど、よかったな。
ああ全然まとまらない。不思議体験だったな。。。
続編もすでに出ているなんて。たのしみ。
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どうやら我が余生は日本人としてネイティブ・スピーカーを貫いて終わりそうだ。さて、クヌートのネイティブ言語考察が的を射ている。たしかに日常会話の範疇で生活に浸っているネイティブと、懸命に他国語からの翻訳に苦労を重ねている菲ネイティブとでは、どちらがより語彙を修得、理解しているのか。定型、儀礼にとらわれず、もっと自由な発想で言語を用いた方が意思疎通に有効であり、他国語を通して自国語を知るのもありってことだ。国籍の異なる仲間が集い、消滅したらしき日本の言語を探り、ひいては地球語にたどり着かんとする旅が始まった。
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面白かった!早く続編『星に仄めかされて』が読みたい!
グローバリゼーションが国民国家を解体し終えるかし終えないか、くらいの近未来が舞台なのかな。気候変動のせいか、それとも原発のせいなのか、日本はもう国の形を失っているらしい。
ボーダレスな背景を持つ登場人物たちがボーダレスにヨーロッパ中を移動し、さまざまな言語で会話する(ことになっている。書いてあるのは日本語だけ)。読んでいるとだんだん言語や国家、文化を覆う堅い殻がペリペリと剥がされていくように感じられてくる。多文化の中で多言語生活を送る作者だから描ける世界なのだろう。
ーー母語を話す人は母国の人ではない。ネイティブは日常、非ネイティブはユートピア。(p.220)
この言葉にハッとさせられる。
母語で話すことが自由に話すことだという思い込みが自分の中にあったこと、それが思い込みに過ぎないことが物語が進むにつれて身体に染みてくる。
さらには「母語」に貼り付く「母」の字が呪いの一字でもあることも語られている。いかに「母語」や「母国」や「母」というものが私たちを粘着質に絡め取ってしまうものなのか、ということが作品テーマ、なのかな?
その中で、いかなる「母」ももたない「パンスカ」は爽快に響く。
そうか。「パンスカ」においてはHIRUKO以外のあらゆる人が「非ネイティブ」。この囚われの無さが「ユートピア」なのか。
根無草の不幸は、裏返って、国民国家という「母」からの解呪を意味するらしい。それが本当に幸せなことなのかは、事後的にしか決まらない。だから、HIRUKOたちの旅は続くんだな、と納得。
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欧州を漂流する日本人と思われる女性。設定では、日本はどうやら消滅してしまったらしい。国がなくなるということは、帰る場所がないだけでなく、どこの国の人かという保証も無くなるわけで、真面目に考えてみるとなんだかこわい。でも、考えてみると、海外永住権を持った人は、元の国があろうがなかろうが住む場所、帰る場所があるわけだし、日本語を話すから日本人という定義もナンセンス。そうすると、母国ってなんなんだろう。この物語では、「国」の他に、「言語」「性別」「ポリシー」などの境界線もどんどん曖昧になった状態の人物が登場する。自分は〇〇であるという確固たるアイデンティティを持たないが、代わりに共通の目標がある。目標を共有しているから一緒に活動したり生きていけるって、今後はそうなっていくのかなあと思わせるストーリー。最後の一行まで楽しめる。
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「それなら、みんなで行こう」
と僕は言った。
いつだったか忘れてしまったが、図書館で面出しされていた表紙の儚さが、薄ら留まっていたのが1割。
今まで触れたことのない方の、物語を欲していたのが3割。
残り6割は「河村さんが書評を書いていたから」と、下心にも似たイロモノ動機だった事はまず告白しておこう。
" 蜃気楼の様な物語 "
一言で言うなら、これがしっくり来そうな気がする。
現実と物語の境界が揺らぐような。
断言出来ないのは、蜃気楼を見たことがないから。「蜃気楼」という言葉のイメージだけで綴ってしまうが、感想なので許して欲しい。
物語の序盤こそ、わたしは「私」だったが、途中、「あぁ!早く、Susanooに逢いに行かなくちゃ!」と思ってしまった。
その時、わたしは紛れもなくHirukoだったし、他の時にはクヌートであり、アカッシュでもあった。
こんなにも自然に、境界線を跨いだのはいつぶりか思い出せない。嬉しいのと、久しぶりの心地良さに思わずニヤついてしまった(マスクがあって良かった)
また、主人公のHirukoはおそらく日本人なのだが、作中では明言されない。
明言されないどころか、『日本』という言葉がおそらく一度も登場しなかった。(…おそらく)
日本語で書かれた、日本人が主人公の物語を、日本人のわたしが、日本で読んでいる。
だからこそ。
『日本』という固有名詞が "ない" 事に、ひどく驚いてしまった。
Hirukoが日本出身であろう、描写が日本を指しているであろう、とこんなにも容易に理解してしまったのに。
二文字ないだけで、自分のアイデンティティが突然、風前の灯火になったようで、ヒヤリとした。
けれど、逆説をとれば、『日本』を想起させる表現が、こんなにもたくさんある事が新鮮でもあり。
(清濁含みのある間接的なものから、" 鮨の国 " のように直感的な表現まで!)
読み進めつつ、「日本人だから、そう思うのか?」と疑問も浮かんだが、別の機会に置いてページを捲る事を優先してしまったのは言わずもがな。
また、島国/大陸諸国、男/女、現実/芝居、自分/他者などの対比や行き来、所々、辞書が欲しくなるような厚みと、パンスカの軽妙なはずし具合やリズミカルで跳ねるような軽さが、代わる代わる顔を出して、素直に楽しかったのだ。
特に最後の章は、ありとあらゆる言葉が繰り出されてポップコーンさながらの様相。
そんな言葉の遊び心が其処彼処に散りばめられてた物語だからこそ、旅の続きについて行かねばならないな、と至極当たり前のように、心弾ませてしまったのである。
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Hirukoはヨーロッパ留学中に母国が崩壊し、同じ母語を話す人を探している。その旅に同行することになる様々バックボーンを持つ人たちが、各章ごとの語り手で話が進む。
すれ違う言葉、言葉にまつわる会話がとてもおもしろい。イメージだけの日本文化、アレンジされた和食の違和感と可笑しさ、そこに消滅した母国、失われた文化の喪失感が重なり、なんとも不思議な読み心地だった。
やっと見つけた同国人Susanooの故郷の福井県は「原発銀座」で有名になった。引き換えに漁業も農業も衰退し、過去の産業を伝えるのは故郷PR センターのロボットだけ。
これは近未来なのか?現実味があり恐くなる。
Susanooが歳を取らなくなったのは、社会の時間の枠組から外れ、まわりの人を基準にして自分の時間を計ることをしなくなったからではないかという。母国から切り離され、どこにも所属していない孤独感の現れなのだろうか。
Hirukoの名前は神話のヒルコの意味だ。イザナギとイザナミの最初の子だが祝福されずに葦の舟に乗せられ海に流された。Hirukoが日本から離れて、国を失ったのと同じだ。
Hirukoが生みだした共通言語パンスカは、国や民族の境界を曖昧にし、バックボーンの異なる人と繋がる未来を感じる。
彼らの旅の先にあるものは何か、続きが読みたい。
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異なった国籍、言語、性別の登場人物が交わり合って展開されていく話。言語の奥深さを様々な場面で感じた。例えば、ネイティブと非ネイティブがどちらの方がその言語に詳しいか、など。終始、日本を海外からの視点で、みたり考えたりすることができて、新鮮で興味深かった。様々な言語が登場しているが、すべて日本語で語られている。しかし、違和感なく、読めることに感心した。harukoが話す独特な言語も、日本語であるが、十分に伝わってきた。
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言葉や日本という生まれ育った土地についての表現の仕方がとても新鮮だった。
こんな風に見えるのか、こんな感じなんだ…
外国しかも北欧にいる若い女性。
いろんな土地を渡り歩いたから自分の言語を持っているという。
なにそれ、と思ったけどパンスカ(主人公の作った言語)は絵や小説などの芸術と同じ表現方法であり、他人との会話や自分の思いにパンスカを使うと強くなれる。自分の言葉を持っているのは強いことなんだ!
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留学中に母国が消えて帰る場所を失ってしまった女性Hirukoが同郷の同じ母語を話す人間を探す旅の物語。明言こそされないが、彼女の母国は日本であろう。
世界が滅亡したら、とか、日本が沈没したらとか、一度は考えたことがあるのではないだろうか。でも「母国がなくなる=母語が失われる」という捉え方をしたことはなかったので、目から鱗だった。考えてみれば、英語や中国語を母語とする人の数は日本より遥かに多く、それらを公用語とする国は複数存在する。でも日本語を日常的に用い、意思疎通することができるのは日本しかない。(興味を持って調べてみたら、なんとパラオのアンガウル州では憲法で日本語が公用語となっているそう!しかも日本国憲法では日本語を公用語とする旨が記載されていない為、日本語を公用語として憲法で定めているのはパラオ共和国アンガウル州憲法だけなんだとか。(※首都大学東京のロングダニエル氏が論文を挙げているので、興味がある方は参考までに。)なので、厳密には日本だけ、とは言えないのだけれど…。)
序盤でどうやら日本が消滅してしまったようだ、と察してから足元が揺らぐような不思議な感覚を覚えながら読み進めた。Hirukoが作った「パンスカ」という新たな言語や英語を巧みに使いながら、母語を話す人を探す旅をする。その中で、色々な背景を持つ人達と出会い、語り合う。
「旅が楽しいのは帰る場所があるから」という人がいる。実際、旅行の後では「楽しかった!」「面白かった!」「疲れた!」の後に「無事に帰るべき場所へ帰ってきた」という安堵感がある。海外旅行の場合、帰国して「母語でごく当たり前に意思疎通ができる」という安心感を殊更に強く感じる。だから前述の考え方も、成程なと思っていた。でもHirukoには帰るべき場所がない。母語で当たり前に意思疎通ができる人がいない。それってすごく孤独だ。
でも本作の最後で「これは旅。だから続ける」とHirukoは嬉しそうに言う。「それなら、みんなで行こう」とクヌートは言う。母語で語り合いたいという希望は叶っていないし、日本は戻ってこない。でも彼女はパンスカや英語を使って意思疎通を図り、仲間を見つけながら、前を向いている。第三者に自分の意志を伝える為に言語が発展したことを思うと、パンスカってとても興味深い。それに日本語があるから、こうやって読んだ感想を記録することができ、日本語を使う誰かの目に触れる機会が生まれる。そして運が良ければ共感してくれる人、同じような興味を持つ人が見つかるかもしれない。
「言語」、「コミュニケーション」、「人」について深く考える良いきっかけになった。とてもいい作品でした。
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言葉や人種、文化の壁は、堅牢で絶望的なようで、無意識に越えていたりできるのかもしれない。
みんな同じ一つの地上に暮らす地球人なんだ。
面白かった。
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小説は言語で紡ぎ出されるものであるが、著者はその「言語」を一歩引いた視点から眺めている印象を受ける。物語を通りしてあらためて言語の役割について考えさせられた。言語をメタ認知的に捉え小説に反映させている点は筒井康隆と共通するものを感じる。
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全米図書賞受賞作でブクログユーザーの評価が高く、期待して手にとりました。
残念ながら、私には理解することが出来ませんでした。
敢えて感想を記すとすれば、よく最後まで読みきったと言う事でしょうか...^^;
いやぁ、まだまだ己の読解力の無さをただただ痛感させられた作品でした。
説明
内容紹介
留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性Hirukoは、大陸で生き抜くため、独自の言語〈パンスカ〉をつくり出した。Hirukoはテレビ番組に出演したことがきっかけで、言語学を研究する青年クヌートと出会う。彼女はクヌートと共に、この世界のどこかにいるはずの、自分と同じ母語を話す者を捜す旅に出る――。誰もが移民になり得る時代、言語を手がかりに人と出会い、言葉のきらめきを発見していく彼女たちの越境譚。
留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性Hirukoは、ヨーロッパ大陸で生き抜くため、独自の言語〈パンスカ〉をつくり出した。Hirukoはテレビ番組に出演したことがきっかけで、言語学を研究する青年クヌートと出会う。彼女はクヌートと共に、この世界のどこかにいるはずの、自分と同じ母語を話す者を捜す旅に出る――。
誰もが移民になりえる時代に、言語を手がかりに人と出会い、言葉のきらめきを発見していく彼女たちの越境譚。
内容(「BOOK」データベースより)
留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性Hirukoは、ヨーロッパ大陸で生き抜くため、独自の言語“パンスカ”をつくり出した。Hirukoはテレビ番組に出演したことがきっかけで、言語学を研究する青年クヌートと出会う。彼女はクヌートと共に、この世界のどこかにいるはずの、自分と同じ母語を話す者を捜す旅に出る―。言語を手がかりに人と出会い、言葉のきらめきを発見していく彼女たちの越境譚。
著者について
多和田 葉子
多和田葉子(たわだ・ようこ)
小説家、詩人。1960年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学大学院修士課程修了。文学博士(チューリッヒ大学)。1982年よりドイツに在住し、日本語とドイツ語で作品を手がける。1991年『かかとを失くして』で群像新人文学賞、1993年『犬婿入り』で芥川賞を受賞。2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞、2002年『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、2005年にゲーテ・メダル、2009年に早稲田大学坪内逍遙大賞、2011年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞、『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。2016年にドイツのクライスト賞を日本人で初めて受賞。著書に『ゴットハルト鉄道』『飛魂』『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』『旅をする裸の眼』『ボルドーの義兄』『献灯使』『百年の散歩』などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
多和田/葉子
小説家、詩人。1960年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学大学院修士課程修了。文学博士(チューリッヒ大学)。1982年よりドイツに在住し、日本語とドイツ語で作品を手がける。1991年『かかとを失くして』で群像新人文学��、1993年『犬婿入り』で芥川賞、2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞、2002年『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、2005年にゲーテ・メダル、2009年に早稲田大学坪内逍遙大賞、2011年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞、『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)