紙の本
ノーベル賞作家が書いたヘタレ男の生涯。っていうか、韓ドラの世界です、これって・・・。それにしても、美女は強し。
2012/01/31 19:44
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ノーベル賞作家の小説にこう言っちゃあなんですけど、韓ドラの世界だなと。たとえば『揺れないで』の世界。微妙に違うのは当たり前なんですけど、『揺れないで』がどんなお話かと言えば、婚約していた女性の妹に恋する男の苦悩を描く、っていうか男は全然苦悩しないで、二人の女性の間をただユラユラ心を揺らしているだけなんですが、姉妹のほうは振り回されて悩む。
この男というのが、実にだらしがない。もう、愛情の、っていえばカッコいいんですが、要するにその時の欲望のままに動く。ここらは韓流・華流ドラマお手の物の話題です。韓流では『揺れないで』『ピンクのリップスティック』なんかがありました。もう、ともかく男がダラシナイ。華流『結婚って、幸せですか』は、ちょっと違うんですが、でも大きな意味では一つにくくれます。
ま、ここはアジアドラマを語る場ではないので、このくらいにしますが、男性っていうのはそうやってぐだぐだやってる自分に酔っちゃうんです。これが真実の愛だ、みたいに思い込む。恋は盲目、っていいますが、男の愛は独りよがり、っていうほうが正しいんじゃないか、なんて思ったりします。で、『無垢の博物館』の主人公、ケマルというのもまさにそんな男です。
三十歳の輸入会社の社長ケマルが美しい婚約者と、自分の地位を捨てて走ったのが遠縁の娘フュスンです。フュスン、ともかく美人ではあります。中近東の美女ときたら、まあ想像しただけでもその美しさがわかります。惹きこまれるような深みのある黒い瞳に、艶やかで豊かな黒髪、厚めの濡れたような唇ときめの細かい肌、いやはや。
おまけにこの娘、16歳の時、美人コンテストに勝手に応募したことで本人だけでなく家族ごと、ケマルの母から嫌われています。そしてケマルと再会した時、18歳、大人の女性としての成熟はまだかもしれませんが、生物学的には最も美しい年齢です。シャンゼリゼ・ブティックで働きながら大学受験の勉強中、30男がついつい声をかけのめり込むのもわからないではありません。
だから肉体関係を結ぶことは容易です。本人たちはそれでいい。でも、特にケマルの周囲はそれを認めません。おまけに、フュスン、アメリカで経営学を学び、帰国してから兵役を済ませ、輸出会社サトサトの代表取締役ではあるものの、決して商才のあるほうではありません。ただ父親の意向でハルビイェにある販売会社に収まっているだけのことです。
その程度の男が、若い女に熱を上げる。仕事もなにもそっちのけになります。まず、フュスンと出会う前に結婚式を挙げることまで決まっていたソルボンヌで学んだ女性スィベルとの婚約を破棄します。でも、一族の反対を押し切って好きな女性と結婚する勇気はない。ただただセックスをするだけ。結婚を断念した男が始めたのは、恋する女性にまつわるものを蒐集すること。そして・・・
ま、こういう男の情熱というのは、いったん空回りしはじめるとダメです。ただただ落ちていく。せめて男らいい悪人ででもあれば、その転落の姿もどこか気持ちいいのですが、男気とは縁のないような人間がウジウジし始めると、正直、読む側がイライラするだけ。暴力を伴わないストーカー行為。純情ともいえるけれど、変態といったほうがシックリくる。
これが人間だ、といわれれば確かにそうだな、とは思います。でも、ユーモアなしで進む草食系男子の転落風景は、読んでいても楽しくありません。私、だめなんです、こういう男がでてくるお話。韓ドラも、ミステリも、純文学もだめ。ということで、読了したものの少しもスッキリしなかった・・・
ただし、カバーは素敵です。カバー写真/(C)Gary Powell/Getty Images、カバーデザイン/ハヤカワ・デザイン。そうか、写真か、って思いました。なんだかエンタメの本のようではありますけど・・・
最後に上カバー折り返しのことばを写しておきましょう。
ノーベル文学賞受賞第一作
三十歳のケマルは一族の輸入会社の社長を
務め、業績は上々だ。可愛く、気立てのよいスィ
ベルと近々婚約式を挙げる予定で、彼の人生
は誰の目にも順風満帆に映った。だが、ケマルは
その存在すら忘れかけていた遠縁の娘、十八
歳のフュスンと再会してしまう。フュスンの官能的
な美しさに抗いがたい磁力を感じ、ケマルは危
険な一歩を踏み出すのだった――トルコの近
代化を背景に、ただ愛に忠実に生きた男の数
奇な一生を描く、オルハン・パムク渾身の長篇。
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2006 年ノーベル文学賞受賞後の初作品。
1970 年代のイスタンブールを縦横無尽に利用して、
遠縁の娘フュスンへの愛、フェティシズムを描く。
主人公ケマルの人生、生活のその時その時を、
数多く積み重ねる手法が取られ、
一体この物語は何処に着地するのかと思いつつも、
終盤のメタ的展開を読めば納得。
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主人公のケマルは裕福な家に育ち、父親の会社を継いでおり、非の打ち所がない婚約者スィベルがいる。それがふとしたことから遠縁の貧しい家の生まれであるフュスンと関係を持ち、それに溺れていく。
ケマルはどちらとも上手くやっていくつもりだったが、スィベルとの婚約式のあとフュスンと連絡が取れなくなり、精神的にも支障をきたしていく。上巻はそのあたりまで。
まだ詳細は明らかになっていないが、「無垢の博物館」とはフュスンとの思い出の品々を飾ったものであるよう。ある意味一途ではあるが、かなり変態的でもある。変態小説あるいは片思い小説として一級品だ。
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オルハンパムク「無垢の博物館」上下読んだ。ストーキング、偏執狂、破滅。しょーもなく救いが無く気味が悪い男の思い込みが延々と続く。ただ、70-80年代のイスタンブールの生活や出来事を背景に、感覚的にとても遠いイスラム文化を垣間みれる。それは彼の他の作品も同じだけど。
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良人とかいって夫と読む、最初にそれを考えたのはどういう人間だったんだろう。大概嘘をつくのは男で、この小説に出てくる主人公のような人間なのに。成長期のトルコで資産家の息子として過ごす主人公は、フィアンセを持ちながら、縁戚の少女に恋をしてしまう。そして激動するトルコの時代の中で、散々「愛」という言葉を使った挙句、結局愛をこれ以上ないほど難しいものにしてしまう・・・話の中身はまるで違うけど、何となくクンデラの「存在の耐えられない軽さ」を思い出した。内容に対して「無垢の博物館」ってタイトルもまた、随分皮肉っぽく利いてるね。とりあえず続きが気になって仕方ないので、下巻も読むことにしよう。
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主人公のケマルは三十歳。父親から譲り受けた輸入会社の社長である。引退した大使の娘で美人で気立てのいい婚約者スィベルとの結婚も間近だ。そんなある日、買い物に寄った店で昔なじみと久しぶりに再会する。フュスンは遠縁にあたる娘で十八歳になったばかり。幼かった少女は見ちがえるような美人に変貌していた。ケマルはフュスンをアパルトマンに誘い、関係を持つ。
結婚を前にした男が、突然目の前に現われた美女に心奪われ、婚約者を放っておいて、アパルトマンで昼休みに逢引きをくり返す。それだけでもとんでもない話だが、ホテルで開かれた婚約式にフュスンを招待し、美しい許婚を見せつける、という暴挙に出る。そうしておきながら、姿を消したフュスンが忘れられず懊悩する。
婚約者の憔悴しきった様子を心配したスィベルは、療養を兼ねて別荘での婚前同居を提案する。イスラムの国であるトルコでは、結婚前に処女を失うことは不名誉なこととされている。しかも、結局最後に事の次第をスィベルに打ち明けることで、婚約は解消される。ケマルは、フュスンの処女を奪っただけでなく、許婚の名も傷つけたことになる。
これだけでもじゅうぶん愚かしく思えるのだが、ケマルの異様さが際立つのはここからだ。自分の前から姿を消したフュスンを捜し歩き、親友に手紙を託す。やがて消息が分かる。フュスンは結婚して両親と同居していた。相手は新進の映画監督でフュスンの主演する映画を計画中。それを知ったケマルは資金提供を理由に、フュスンの両親の家に入り浸ることになる。
ただ愛する女の傍にいたいがために、結婚している女の夫や両親と食事をしたり、テレビを見たりする生活を八年の長きにわたって続ける、ケマルという男の執着心の強さにただただ辟易する。それも手一つ握るわけではない。時にからむ視線を待ちわび、ふとした拍子に擦れあう肌の感触に心を震わせる。フュスンの触れた食器や口にしたサイダーの瓶といった品をポケットに忍ばせて自分のアパルトマンに持ち帰り、始終もてあそぶ。
究極のフェティシズム。俗にいうフェチである。それだけではない。愛する女の傍にいて、その女が夫と口づけを交わしたり、抱き合ったりするところを見続けることを厭わないというのは、本人が意識していないだけで、これはもう立派な(というのも変だが)被虐趣味としか言いようがない。しかし、その一方でケマルは、フュスンの映画出演を妨害し、夫が別の女優を用いるように仕向け、フュスンと疎遠になることを期待してもいる。離婚となれば自分が後釜に収まることができるからだ。
男の視点から愛する女の心理を推し量ったり、それによって一喜一憂する男の心理を描くところなど、プルーストの『失われた時を求めて』を思わせる。また、長きにわたって一途に一人の女を思い続けるところなど、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を思い起こされる。また、年端のいかない女性に対する執着という部分では、ナボコフの『ロリータ』を思い出させる。どれも素晴らしい名作ばかりだが、それらと最も異なるのは、読んでいる時のスケール感の小ささだ。
何かというと、ケマルの親友が経営する会社が売���出し中のサイダーが持ち出される。コカ・コーラの台頭によって脅かされ、トルコ国内の業者によって安価な偽物が作られ、伸び悩むこのサイダーがひとつの隠喩になっている。オルハン・パムクによって描かれるトルコという国は、西欧に憧れ、西洋化に励みながらも、その模倣は猿真似の域を出ない。模倣者の悲しさで、まねようとすればするほど、その差異が目についてしまうのだ。
ケマルはイスタンブルでは上流階級に属し、彼のまわりには社交界らしきものも存在する。しかし、プルーストの描くそれとは比べ物にならないお粗末さで、ケマルもそれは承知している。トルコを舞台に小説を書こうとすれば、当然つきまとう後進性を逆手にとって、作家はむしろ意識的にトルコの持つ矮小さ、猥雑さ、不徹底さを前面に持ち出そうとするように見える。週に四日も通うフュスンの家での晩餐に並ぶのは、トルコの家庭料理だし、皆でテーブルを囲んだ後に待っているのは俗悪なテレビ番組だ。フュスンの夫が撮った映画は芸術映画とはとてもいえないお定まりのボリウッドならぬトルコ映画。このあたりの自虐的な戯画化は、むしろこの作品の評価されてしかるべき点だろう。
「無垢の博物館」とは、ケマルがフュスンの家からくすねてきた小物を中心に据えたコレクションを展示する私的博物館のことで、世界中を放浪し、多くの博物館を訪ねまわったケマルがフュスンを偲んで、その追懐に耽るため、フュスンの住んでいたアパルトマンを買い取って改装したものだ。展示物の解説のために、ケマル自身が執筆を依頼したのが、旧知の作家オルハン・パムク氏。関係者に取材したパムク氏が、ケマルの視点で執筆したのがこの小説、という体裁になっている。
自身の他の作品に登場する人物であるコラムニストのジェラール・サリク氏(『黒い本』)や、詩人Ka(『雪』)などをさりげなく配し、いつものようにイスタンブルという都市の持つ魅力をじゅうぶんに生かしきった作品構造――新市街と旧市街、ボスフォラス海峡に面した上流人士が集う別荘地と昔ながらの人々の生活が垣間見える下町の風情といった対比――を用意し、更には、右派と左派の攻防や爆弾テロ、軍事クーデタといったトルコの現代史をケマルの恋愛事象の背後に点綴するなど、手馴れた手法で長丁場を乗り切っている。
正直なところ、こんなに長くする必要があるのか、と思うほど、事件らしい事件は起きない。最後近くになってはじめて印象的な事件が起きるのだが、オルハン・パムク氏は視点をゆるがせにすることがない。フュスンのとった行動やその心理をどうとるかは読者にゆだねられている。八年に及ぶ、ケマルの訪問期間中、フュスンの言ったことや身ぶりを思い返しながら、読者もまたケマルと同じように思案するしかない。そのための上下二巻なのかもしれない。(上下巻を併せての評)
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婚約者がいる男が他の若い女の子に惹かれて・・・っていうの
お国柄が違うとやっぱりこう・・・雰囲気変わるんだな・・・