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めちゃくちゃ日本特有過ぎる喧嘩両成敗。
喧嘩を売った方も買った方も等しく罰せられるところから
いや、待てよ。どう考えても前者(もしくは後者)の方が悪どいんじゃないのか?
それでそれでも等しく罰を受けることの方が不公平ではないのか?
という歴史があったり。
もちろん現代は裁判所があるし、江戸時代はお白州があったり
でももっとその前はどうしてたのか?っていうのを
分かりやすく書いてあった。
やはり室町時代頃のみんながみんな、オラオラしてた感。
第三者から「笑われる」ということ自体、侮辱行為で
笑われた!殺す!!みたいな。
どの地位であれ、みんながキレやすかったということだろう。
にしても。これは面白かった!
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中世の「喧嘩」に関する処罰のあり方、それに対する人びとの「もっともだ」「やりすぎだ」「足りていない」といった種々の感想を平易に紹介してくれている点でよし。
ただ「喧嘩両成敗」もしくは「喧嘩両成敗的」措置の結果としての構図に執着しすぎ、紛争当事者双方が厳しく処断されることの、そこに至る意味というか、そうする時の権力者の意図が必ずしも正しく顧みられていないのではないかという印象を受けた。
「両成敗」もしくは「両成敗的」措置には、「平衡」「秩序回復」の意味が込められているケースと、私闘というかたちで検断という本来当事者らに行使を許されていない行為を行い、ときの権力者の権利を侵して秩序を乱したことに対する処罰という意味が込められているケースがあるであろうことは、まま容易に想像がつく。
前者後者の「両成敗」はそもそも処罰の次元を異にしている。前者は紛争当事者やそれを見守る世間一般の思いが権力者の口をして語らせているようなものであり、後者は惣無事令・喧嘩停止令に従わない無法を罰する権力の立場が彼自身の口をして語らせているようなものである。
本書にはそれらを「両成敗」を一緒くた(もしくは一報を無視)している印象を受けた。
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「謎の独立国家ソマリランド」からの「世界の辺境とハードボイルド室町時代」、そこからの「喧嘩両成敗の誕生」です。高野秀行がソマリランドの平和を氏族主義によるトラブル回避にあるとして日本の戦国大名に見立てたことが、著者 清水克行独自の研究の室町時代の社会史研究に繋がりました。確かに似てる似てる。それにしても近代以前の日本人ってプッツンしやすかったんですね。笑われてキレる感じが、ツッパッているティーンみたい。そうならないように、というのではなく、そうなったらどう落とし前つけるか、の技術が法をつくっていく、社会の安定を作っていく、というお話だと読みました。ただ、ソマリランドは「男一人殺されたらラクダ百頭」というルールだけど、室町時代は「一人を討たば一人をきり、二人を討てば二人誅する」(あくまでルールのひとつだけど…)の違い。ソマリランドは経済的なバランスも含んでいるけど、日本の場合はあくまで名誉のバランスなのだな、と感じました。今、世界中でお互いにツッパッている緊張が多発していますが、例えば戦後最悪な日韓関係は名誉の問題で解決出来るのか、リアルなお金の問題で解決するのか…。アフリカ大陸や近代になる前の社会などの遠い世界の問題じゃなくて、実は今、日本で必要な技術もここにあるのでは、と感じました。
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喧嘩両成敗、って喧嘩した両方を死なせるって意味だったんだね?というレベルの知識のない人間にもわかりやすく室町時代の人々の倫理観や価値観を伝えてくれる本。研究によると、室町時代を生きた人々の倫理観や正義感はだいぶ現代の個人主義的感覚からかけ離れたものだった…ということで、ある種のSFを読んでいるかのような興味深い内容だった。
現代的感覚から見ると、警察や刑務所にあたる公権力がない分、問題が起きたときに自己責任で解決しなければいけない領域が大きい。だが基本的に一人では何もできないので、何かしらのグループに属してそのグループの威を借りたり、グループの連帯責任で生活していく必要があった…という部分が一番のギャップだ。
この部分は現代の素っ気ない人間関係に感謝しかない。
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「日本的風土に根づいた伝統」とされ、戦国時代において自力救済克服の画期となった法として日本史の教科書にも必ず登場する「喧嘩両成敗法」の室町時代における形成過程を概説。
本書は、喧嘩両成敗法を生み出した室町時代の社会の在り方、特に強烈な名誉意識や復讐意識、衡平感覚といった当時の人々の苛烈な心性にスポットを当てているところに特色があり、喧嘩両成敗法は、戦国大名主導の強圧的な秩序形成策として登場したのではなく、中世社会の中で形成された紛争解決の法慣習の蓄積であったと位置付けている。
本書は、喧嘩両成敗法の成立過程を題材としながら、現代社会と通じながらもかなり異なる室町時代の社会の在り方を生き生きと描いており、歴史学の面白さを感じさせてくれる一冊だった。特に、身分を問わず強烈な自尊心をもち、ちょっとしたことで殺し合いにまで発展してしまう室町時代の人々の現代日本人とは異なる「苛烈」な心性については、本書を読むまでほとんど知らなかったことであり、非常に興味深かった。
また、民法の「過失相殺制度」が世界的にかなり特異なものであり、こういうところにも「喧嘩両成敗」的な心性が息づいているという指摘も、目から鱗であった。
本書は、実証研究の成果をもとに、現代にも通じるテーマについて、研究史への批判も盛り込みつつ、現代を相対化させてくれるような過去の社会の在り方を明らかにし、知的好奇心を満たしてくれるという点で、歴史教養書のまさにお手本であると感じた。
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室町人の常識が分からないと読み物の登場人物の行動が理解できないな(それほど狂ったヤツら)
中世社会の衡平感覚と相殺主義が心情にあるからこそ、法理に基づいた判断が複雑(あるいは一筋縄でいかない)な時は「喧嘩両成敗」こそ苦渋の選択として定着した
日本人の知恵ですね(´・ω・`)
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「喧嘩両成敗」法は何故誕生したか、室町時代に遡って研究する本。随一面白かった!法も警察も裁判所もない時代の共同体ごとの自力救済を原則とするなか村八分さらには埒外(outlaw)に置かれることは何を意味するのか・「両成敗」を求めたのは民衆か権力者か・何故これ程まで「面子」が重要視されるのか・何故これ程まで「平等の損」に執着するのか・責任を(当事者ではない誰かが)取ることの意味と真実を突き止めることへの無頓着さ・「(結果はどうあれ)こんなに頑張ったんだから」が現代でもまかり通るそのルーツ・被害者落ち度による過失相殺が今も残る国。
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読んだのは半年ほど前のことになるが、感想を思い出しながら書くことにする。
この本は中世に漠然と興味を持っていたころ、中世人の考え方を理解するのにおすすめの本という評価を見て、読んでみることにしたものである。
この本は法制史の本で、室町時代の中世人という現代と異なる価値観をもつ集団の中で、喧嘩両成敗という有名な法がいかに誕生したかということが書かれている。
私の中で印象に残っていることは2点ある。
一つは、中世人の異質な価値観である。中世人は非常に短気で名誉を少しでも傷つけられたらすぐに喧嘩に発展し、殺傷事件に至ることも珍しくない。個人間の争いに留まらず、その人たちが属している集団同士の争いに発展し、役人が仲裁に入ってなんとか収まる、ということもままあったようだ。喧嘩の具体的な理由は現代から見ると取るに足らない理由も多い。本には書いた短歌が児に笑われたという理由で児を殺害した人が登場していた。この人は異常者ではないというのが驚きである。
歴史を学ぶ上でつい現代の感覚で昔の出来事を見てしまいがちであるが、当時の価値観を考慮した上で、出来事を解釈していくという必要があるのではないだろうか。
もう一つは喧嘩両成敗の成立の背景についてである。喧嘩両成敗は訴訟を個人間で解決した自力救済型の社会から統治機構による裁判権が確立した近世社会の移行期に誕生したもので、裁判権の統制を行っているが個人間の解決の要素もある、と記述されていたと覚えている。また、喧嘩両成敗は当時の衡平を重視する価値観からも受け入れやすいものであったものだという。喧嘩両成敗という言葉は現在も使用されることがあり、どっちも悪いの意味で使用されることが多いと思うが、その背景には社会の価値観や社会制度の移行など複雑なものがあり、とても興味深かった。
この本は、以上のようなことを根拠となる資料を提示しながらわかりやすく論を展開して説明する。喧嘩両成敗自体に興味がなくても、室町時代の日本人がどのような人たちであったか知りたい、という方にも自信を持って勧めることのできる本であると思う。
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めっちゃ面白い。非武装の平和な国に慣れてしまって、完全に忘れてしまってるけど、昔の日本は、村や所属団体ごとに武装して、頼れる国や警察もなかったから、自分たちで落とし前をつけなければならなかった。喧嘩が始まり、2人殺されたら、同じ数だけ死んでもらわないと収まらず、エスカレートするほど好戦的なそんな時代に、最終的な決着をつける、みんなが同意できる法理論が、日本独自に育っいった。それがこの喧嘩両成敗であり、ハラキリだった。明治になって、欧米の法律を輸入していなかったら、どうなってたんだろう。今だに日本人のバランス感覚に根深く残ってる気がする。
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喧嘩両成敗は他国では見られない。
最初に現れるのは駿河の今川氏親の分国法8条にある。
現代の喧嘩両成敗
田中真紀子外相と鈴木議員、
田中角栄の後の総理に大平、福田以外に三木、など。
室町殿とは将軍と同義ではない。前将軍が実権を握っている場合など室町殿と呼ばれる。
中世日本人は切れやすい。笑われて殺傷事件。強烈な自尊心を持っている。
江戸時代は、切腹は武士だけに許された自害方法。室町時代は、女性も僧侶も切腹している。
名誉意識を持ちつつも、怒りを深く隠している=仇討ちにつながる。突然殺害する、など。
復讐行為を法律によって克服する過程=法律進化論『復習と法律』
仇討ちは違法行為ではなかった。自力救済社会故の慣習。法慣習が多元的だった。
女敵討が横行(鎌倉時代は禁止であったにもかかわらず)。違法な行為という認識はなかった。のちに分国法の一部に取り入れられた。
室町時代は個人の命は軽視、死は身近なこと、復習としての自害、誇りや家のために命を捨てることをいとわない。
指腹という習俗=自ら自害した刀を遺恨のあるものに送り付ける。その刀で自害する必要があった。
忠臣蔵は、その指腹を実現しようとしたドラマ。
自害をもって相手に復讐する習慣は、アジアにもある。メラネシアのトロプリアント諸島、明・清の図頼という習慣。死をもって潔白を証明する、など。
一方、欧米では死は敗北を認めたもの、とみなされる。
ことの是非より、どれだけ思いを込めているか、を基準にする。
p51
エピローグ
喧嘩両成敗=白黒はっきりさせず、まるく収めようとする価値観。
痛み分け思想=民法の過失相殺。世界的にはかなり特異なもの。一般には、過失があれば一切損害賠償は受けられない=日本の痛み分け思想、欧米の勝ち負け思想。
明治の旧民法にさかのぼる。オーストリア法典しか見当たらない。
日本人の気質に合致した紛争の解決方法として、正邪の判断より、体面や損害の均衡を重視する痛み分けが必然となった。その延長に喧嘩両成敗がある。
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喧嘩両成敗の基になる損害の衡平化の発想を、実例による中世日本の紛争解決史をたどりつつわかりやすく解説している。損害の衡平化は「欧米民主主義的」発想による紛争解決の別解として現代社会でも通用するのかも知れない。
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現代においても影響が残る喧嘩両成敗という法について、その成立に至る問題解決の試行錯誤の歴史を様々な事例を通して明らかにする内容。中世自力救済社会とその克服を目指す為政者たちとのせめぎ合いが面白い。
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イスラム国とか、カルトとか、そういうレベルじゃなくて、異文化を考えるときに、我々がこうやって生きていた歴史があるということがとても助けになる。
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現在、最高裁判所を頂点とする民事・刑事の法体系があり、何か有れば弁護士を通じて裁判所にということが当たり前に存在しているが、室町時代の昔は自力救済が基本の世界だった。しかも苛烈な名誉意識を持ち、集団の構成員が受けた痛みは集団全体のものとして内部化するという中世人の心性。
そうなると、室町時代における紛争解決とは、放っておけば任侠の世界と同等で、抑止力を効かせつつどどで引くかという話になってしまう。時の支配者たる幕府が、これに権威ある仲裁を行おうとして四苦八苦、荒ぶる人々の公平意識に会う様に様々な制度が出てくる。
最終的に行き着くのが喧嘩両成敗だが、意図は喧嘩両成敗として喧嘩そのものを抑止しつつ、我慢して手を挙げなかった方が(法廷で)勝ちになるとの定めもあり、裁判へ誘導するものでもあった。
今の裁判制度を当たり前のものとして見てしまっているが、こういう裏面史があり、様々な経緯や議論を経て成り立っていることを知るのは大変面白い。