投稿元:
レビューを見る
1980(昭和55)年に本が出ている小説であるという。40年以上前の作品なのだが、活き活きと迫ってくるような作品で、少し引き込まれながら、頁を繰る手が停められなくなった。そして素早く読了に至った。幾つもの作品に触れている吉村昭の作品である。題材にしているのは俳人の尾崎放哉(おざきほうさい)(1885‐1926)の人生である。
明治期から大正期を生きた実在の人物をモデルにした主人公が登場する、ハッキリ言って「伝記」という感も在る小説である。加えて、「主人公本人が頭の中で思っていることを、綺麗に、客観的に綴っている」というようにさえ感じられて引き込まれた。それでも何処となく「小説のために創造された主人公」という感さえ抱く。一読する印象としては、“実在”というより“虚構”という感さえ否めないのだ。と言うのも、「不思議な生涯」という感じな生き様で、「伝記」とでも言った場合に思い浮かぶような「色々な意味で偉い」が感じ悪いような人物像の主人公なのである。
「色々な意味で偉い」という感で後世に何らかの形で名が伝わるからには、その事績が知られて伝わっているということになる。尾崎放哉は俳人としての事績が伝わる人物である。尾崎放哉の年長の学友でもあった荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は「自由律俳句」という新しい表現を提唱し、『層雲』という雑誌を主宰していたのだが、尾崎放哉はその『層雲』の名が通った同人であった。没後に荻原井泉水達が尾崎放哉の句集を刊行し、そういうようなモノも通じて事績(=作品)が伝わって知られるようになったということになる。
尾崎放哉は鳥取の、武家の流れを汲む官吏の家庭に生まれ育ち、順調に学歴を重ね、東京帝国大学に学んで社会に出ている“エリート”である。が、酒に纏わる失敗等が重なり、幾度かの転職を繰り返した中で病を得てしまう。そして妻とも離れ、遁世の暮らしの中で流転しながら、句作を続ける。やがて小豆島に至って、寺の別院の庵で所謂“庵主”という墓守ということになった。そこで病が進行して力尽きてしまう。
本作は放哉が小豆島に辿り着くという辺りから起こり、他界してしまう迄が描かれる。末尾に些かの後日談も加わっているが、「小豆島に暮らして力尽きた尾崎放哉の8ヶ月間」というのが本作の軸である。その小豆島での様子の中、尾崎放哉の来し方が振り返られる。
来し方の他方で展開する「8ヶ月間」である。「迷惑を振り撒き続けて何もかもを棄て、棄てたところでまた迷惑を顧みるのか否かも判らずに生き」というような様子であった中、自棄、自己憐憫、諦観というような様々が入り混じった様子で尾崎放哉は在る。「その才が一定程度評価されている句作」を拠所にしていて、内面的な「最期の輝き?」というような様が在るかもしれない中、病に蝕まれて力尽きて行くまでが冷徹に無惨な迄に描かれているというような感じがした。様々なモノが入り混じり、傍目には判り悪い御本人の心情と行動とが展開し、他方で殆ど不可逆的に衰える身体が在って、その身体を擁して戸惑うという様子が描かれるのだが、何か「迫る」というものが在る。
作者の吉村昭は、文芸を愛好する若者であって俳句も嗜んだというが、そういう時期に肺の���で少し長く苦しんでいた経過が在って、そんな時期に「病を得ながら多くの作品を遺した」という尾崎放哉を知り、作品にも親しんだ経過が在るのだという。それを踏まえて、長きに亘って取材等を重ね、文献を紐解いて、この『海も暮れきる』を創ったようだ。“エリート”の矜持、一定の評価を得ている俳人という矜持の他方、余り褒められない経過で生活の手段を損なって漂泊しているという境涯に在り、それでも尚「性質が悪い…」という言動が垣間見えて、棄てたとしている妻への未練も募り、そして力尽きるという様子を、「御本人が憑依」という感じで作者は綴ったのであろう。吉村昭作品については色々と親しんでいるが、本作は「酷く想い入れが強い作品」なのだとも感じられる。
実は思い付いて尾崎放哉の作品に触れてみた経過が在る。そういう中で、同時に「あの吉村昭が着目?」と関心を抱いて本作と対峙した。“尾崎放哉”という程度ではなくとも、巧くやったとも、やっていないとも言い得るような経過で年齢を重ね、自身で明確に理解出来ずに体調を損ねている可能性も排除出来ないという中、「何となれば海に…」という人生への諦観と同時に、何とか生きようとし、生活の糧をもたらしてくれる動きが生じる時季に期待し、他方で病による体の衰えの故に「何となれば海に…」ということにもならないことを解し、藻掻いている中で力尽きる“尾崎放哉”が、何か「迫る…」というような感じがする。
或いは、「偶々出くわした小説作品」ということでもなく、「作品の側からすり寄って来た」という存在感なのかもしれない。強く記憶に留まる作品になるであろう…
投稿元:
レビューを見る
尾崎放哉はじめて知った
終盤はどんよりしていくが、お遍路さんの訪れや近所の看病してくれるおばさんのことなど、良いこともあり対比が素晴らしかった
薫さんはなぜ最後の最後に飛んできたんだろう。どういう心境なのか
投稿元:
レビューを見る
読んでいる時と読後と、様々な感情が湧き起こる作品だと思った。そもそも『海も暮れきる』は、尾崎放哉の句の一部だが数ある句の中からこの語をタイトルにした理由を読みながら探したがわからなかった。
何が放哉をここまで追い詰めたのか、なぜ酒に溺れるようになったのか。私は彼の激しい自尊心が自身を破滅に追いやったように読んだ。思うようにならない現実と芸術の狭間の苦しみが酒に溺れる結果ではないかと。そして放哉はとても気の小さい人間だとも思った。その感情の浮き沈みを吉村昭は見事に描いたと感動した。そして最後になってタイトルの意味がわかってきた。暮れきった海は真っ暗で底も見えない。底には死があってその恐怖にずっと怯えていたのではないか。そしてそれは吉村昭自身も同じ思いだったのではないか。寒くて冷たい海の底への恐怖を孤独に震える2人の男が見えた。