紙の本
振り返り用として
2019/02/28 01:49
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーク - この投稿者のレビュー一覧を見る
元は雑誌に掲載されていたものでもあり、内容の薄さは否めない。だが随所にこれまでの著書のエッセンスが散りばめられ、岡本先生のファンとしてはいい振り返りにもなる。
特別講義の章は『世界のなかの日清韓関係史』の縮約版なので、この章を読むだけでも東アジア近代史のおさらいとして楽しめるだろう。
投稿元:
レビューを見る
磯田道史さんの「無私の日本人」を読んでいて、1808年のフェートン号事件の段階で、佐賀藩は鎖国当時からして「捨て足軽」という戦術を採用しようとしていたことを読んで驚かされた。英軍艦との圧倒的戦力差を知り、爆弾を体に巻き付けてみんなで自爆しようというどう考えても「神風特攻隊」の源流となる戦法である。磯田道史さんの「無私の日本人」や「武士の家計簿」には日本の官僚的責任回避の意思決定法(意図的に誰が最終決断しかわからないようにするたらい回し政策)が数百年に渡って根付いたものだと感じさせられ、数百年に渡って染み付いた「歴史の重み」は今の日本人にも多大なる影響を与えていると思うようになった。「捨て足軽」は英軍艦と鎖国幕府の圧倒的戦力差から生じた作戦であるが、現代の爆弾テロを連想させるがどこの国でも圧倒的戦力差があったら必ずそういった戦法になってしまう訳ではないようにも感じる。
ノーマン・オーラーの「ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存」には終戦間際のアドルフ・ヒトラーの本人の望まぬドラッグ漬けとその地獄のような状況に圧倒されるが、ドイツが開発した「超強力覚せい剤(ごちゃまぜカクテル)」の使用を前提とした寝そべったまま四日五晩寝ずに魚雷を打ち込みに行く嘘みたいな非人道的最終兵器でさえ、「打ったら帰ってくる」ことが前提とされていた。実際は1/3程度しか戻ってこれなかったそうであるが、鴻上尚史さんの「不死身の特攻兵」に見るように特攻隊が生きて帰ってきた際に「何故おめおめと生きて恥を晒しに帰ってきた」と殴りつける日本軍とは随分な距離を感じる。
私はどうやら数百年に渡って染み付いた変えられない「歴史の重み」というものを軽んじていたのではないか?ではお隣の大陸「中国」では変えられない「歴史の重み」とはどういうものだろうと考え読み始めたのが本書である。ズバリ「中華思想」とはどういった中国の歴史から合理的・必然的に染み付いた「歴史の重み」であるのか、私達は私達の現代の価値観でそれをやや軽視しているのではないかと読んだ次第である。
実際本書を読んでみるに、私達はお互いに「境」「属」「領」に関する価値観が共通するという思い込みはほどほどにしなければいけないと感じた。そこでは十分な説得力を持つ正に世界の中心足る古来からの「中」と蹂躙された近代の「中国」を知ることになる。そこには大いに日本が関わり、関わられれている。相当部分に現代経済・現代政治というよりも著者の専門である長期的な歴史を重きに置いた分析で、とても興味深かった。私達はお互いが共通の理念と価値観で行動しているとは思い込みすぎてはいけないし、目指すべき「進歩」の先が共通であるとも思い込んではいけないと感じた。
投稿元:
レビューを見る
終章の次の文章が印象的である。「どうも日本人は中国に、自らと同じ社会、自国を標準とする国民国家の姿を投影しているようである。日本人の視座とメンタリティはこの点、戦前からまったく変わっていない。」
投稿元:
レビューを見る
2010年以降、雑誌等に発表した論文を収録。
想定する読者層や狙いが違うのか、論文毎に微妙に論旨がぶれる。
巻末の特別講義2本は東アジアの近代の流れを簡潔にかつ余すところなくまとめていて、非常に分かりやすい。
投稿元:
レビューを見る
現代中国を理解するためには歴史理解が不可欠であるという観点から、沖縄領有権の主張の根拠、「反日」の起源、権力と腐敗の構造、国内の民族対立問題、そして最後に「「失敗の研究」としての日清戦争」などが論じられる。個人的には中国社会とテクノロジーとの相性の悪さを論じた部分(p.139-148)およびそれに関連した第Ⅲ章。
あと江戸時代に日本が儒教精神を身に付けようとしたが、アレルギー反応を起こして西洋文明に乗り換えたという指摘も重要か。日本経済思想史では江戸時代の儒教の影響を大きく考えすぎなところがあって、違和感を覚えていたが、中国史の専門家からそう言われるとなるほどと思う。
投稿元:
レビューを見る
歴史学者がビジネス誌に寄稿したエッセイ集的内容。中国に関する一般常識として押さえておくべき事柄が書かれているので、教養を身に着けたい社会人が中国を理解するために読むには調度よいのかも。
投稿元:
レビューを見る
中華思想から、つまるところ我のみが正しい。我以外は、間違っている。
とは言っても現実には相対的なもので不安定だから、我が正しいことを証明し続けなければならない。ぶっちゃけ、間違いを認めるわけにはいかない。無謬の存在であることを、暴力を使ってでも認めさせ続けなければならない。
だから、今度は暴力革命でぶっ倒されるんだな。倒した方が正しいという、究極の野蛮な後付けだ。
元々、国民国家に馴染まないところに、華夷体制ではまあ、国交のあるところを中華からしたら、属国とか属地とか失礼に言ってたのを、国境線を考えるときに、本来の意味と変わっているはずのその言葉を盾に、うちのもんじゃと言い張ってるわけだ。
著者は、西洋からもたらされた国民国家という枠組みが絶対ではなく、別の価値観も考えなければいけないと言っていて、それは正しいんだが、実際問題、先の大戦以降は、国民国家が大前提で、他国の主権を同様に認めて成り立ってるわけなんだから、奴ら、異物でしかないやん。まさに、国際秩序への挑戦な訳で、無理でしょ。
他人には国際ルールを守らせて、自分達はそれに縛られないなんて、まさに、社会から美味しいところだけもらって体力ついたから、もう誰も俺を止められへんでという、現状になってしまった。
そんなとこでしょうか。