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現・立命館大学産業社会学部准教授(歴史社会学・メディア史)の福間良明による戦争体験をめぐる戦後思想史。
【構成】
第1章 死者への共感と反感-1945~58年
1 遺稿集のベストセラー
2 戦没学徒の国民化-教養への憧憬
3 戦没学徒への反感
4 反戦運動の隆盛
5 反戦とファシズムの類似性-学生運動批判
第2章 政治の喧噪、語りがたい記憶-1958~68年
1 60年安保と「戦争体験」の距離
2 農民兵士たちの心情
3 「戦争体験」への拒否感-戦中派の孤立
第3章 断絶と継承-1969年~
1 大学紛争の激化
2 天皇をめぐる「忠誠」と「反逆」
3 戦争責任論と教養の現代
著者は『「反戦」のメディア史』『殉国と反逆』などの研究で知られ太平洋戦争めぐる戦後メディア論をフィールドとしており、本書もそれら既刊書の続編という位置づけである。
本書は戦没学徒の遺書・遺稿を集めた『きけわだつみのこえ』の受容と拒絶をめぐる戦後史である。
1949年に東京大学生協から出版されたこの遺稿集は、学徒出陣で学業の半ばにして戦争に巻き込まれ命を落とした学徒兵の苦悩を綴った手記として、戦後の教養主義復権とあいまって庶民にも広く読まれることになった。そして「わだつみ会」の結成を通じて、広く戦争体験を戦後世代に伝える活動が、1950年代の講和論争に端を発する反戦・平和運動とも相俟って展開されることになった。
この「戦争体験」の語りについて、著者は1930年代以前に大学を卒業した戦前派、戦時中に青年時代を過ごした戦中派、そして戦後派の3つの立場に大別する。戦没学徒兵と同じ戦中派に対して、戦前派は戦中派の教養の欠如を批判し、戦後派からすれば戦中派も戦前派もともに戦争の協力者であり「戦争体験」という教養を戦後派に強要する権威として反感を覚える存在であった。
しかも、同じ戦中派の中にあっても学徒兵の暴力性、農村出身者と大学進学エリートとのもつ軍隊経験の認識の差異、兵たちが戦った戦場の相違などによって、「戦争体験」も非常に多様であり、個々人の「戦争体験」を捨象して一つのわかりやすいイメージを形成しようとする「語り」を拒否する者もいた。
こうした「戦争体験」をめぐる各世代間、世代内の複雑な思いをつむぎながら、本書は『きけわだつみのこえ』に象徴される「戦争体験」が、1950年代のように庶民的な共感を呼んだ存在から、1960年代末の大学紛争においては権威的教養主義打破を叫ぶ学生から継承を拒絶される存在となっていく様子を描く。ここにおいて、「戦争体験」をめぐる戦中派と戦後派の断絶は決定的になり、戦中派負ってきた複雑な思いは切り捨てられ、1982年には『きけわだつみのこえ』は「反戦の古典」として教養主義の象徴的存在である岩波文庫へ収録されることになった。
『きけわだつみのこえ』という著名な遺稿集をめぐる世代間の相克を、一次史料を駆使して丹念に語りながら「没落する教養主義」とシンクロさせる著者の筆には大いに感心させられる。
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『わだつみのこえ』をめぐる語りを素材に、戦後半世紀のあいだに「戦争体験」の語りの継承/断絶が、どのようになされてきたのかを示す。分析対象を絞っていることもあり、平易で読みやすい分量。
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[ 内容 ]
アジア・太平洋戦争下、三〇〇万人以上犠牲者を出した日本。
この「戦争体験」は、悲劇として語られ、現在では反戦・平和と結びつくことが多い。
だが、戦後六〇年のなかでそれは、実は様々な形で語られてきていた。
本書は、学徒兵たちへの評価を中心に、「戦争体験」が、世代・教養・イデオロギーの違いによって、どのように記憶され、語られ、利用されてきたかを辿り、あの戦争に対する日本人の複雑な思いの変遷をみる。
[ 目次 ]
第1章 死者への共感と反感―一九四五~五八年(遺稿集のベストセラー 戦没学徒の国民化―教養への憧憬 戦没学徒への反感 反戦運動の隆盛 反戦とファシズムの類似性―学生運動批判)
第2章 政治の喧噪、語りがたい記憶―一九五九~六八年(六〇年安保と「戦争体験」の距離 農民兵士たちの心情 「戦争体験」への拒否感―戦中派の孤立)
第3章 断絶と継承―一九六九年~(大学紛争の激化―「わだつみ像」の破壊 天皇をめぐる「忠誠」と「反逆」 戦争責任論と教養の現代)
[ POP ]
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昨年読んだ「教養主義の没落」と「学歴・階級・軍隊―高学歴兵士たちの憂鬱な日常」を有機的に結合させた形
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戦争体験を語り継ぐとは一体どのようなことなんだろうと思う。純粋な体験としてのみ存立させ続けることだろうか。それとも体験を解釈し、意味を与えることだろうか。本書ではその両極端な例が描かれる。
戦中世代の人間が体験の原風景を語ることにより戦後世代の意味づけを封殺しようとする様子、また戦後世代の人間が政治的な意味づけをすることで戦中世代を批判する様子。
その極端な例を見るにつけ、現代において現実的に戦争体験を語り継ぐというのは善悪を別として、その性格として原体験と教訓の両方を適度に配合することなんだろうと感じた。イデオロギーがかった援用は受容されにくいだろうし、原体験の羅列はあまりにも理解されないだろう。
戦前世代、戦中世代、戦後世代とそれぞれジェネレーションギャップが顕著になっている様子が興味深かった。それぞれの上の世代の教養主義や戦争体験をある種の権威と感じて反発している様子が描かれる。各世代がなぜそのようなポジションに立たざるを得なかったのか、今を生きる我々は十分に意識的であるだろうか。
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2009年刊行。著者は立命館大学准教授。「わだつみ会」の活動を縦軸として、戦後の反戦活動を全般的に素描。何とも一筋縄でいかないのだが、それは「わだつみ会」の持つ多義性、つまり反戦を唱えつつも、戦争賛美にも繋がる言説によるからだろう。備忘録。①戦争体験を声高に語る者は大した経験なし。厳しい体験を経た人は堅く沈黙する。②戦後の昭和天皇訪欧時の猛烈な反発は国内の天皇戦争責任論を活性化させた。③現代の「わだつみ」世代への共感は、戦争賛美に堕し、「殉国の至情」等の快感情を排除してきた元々の系譜とは異質。
④無教養の戦中派と教養ある戦前派、従軍経験ない戦後派と経験ある戦中派、農民兵士派と高学歴派という錯綜した対立構図の存在。