紙の本
『村上泰亮をいかに超えるか』が結局この本のテーマ
2009/04/11 18:55
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BCKT - この投稿者のレビュー一覧を見る
序章 お嬢様を探せ
第一章 平等のなかの疑惑 実績VS努力
第二章 知識エリートは再生産される 階層社会の実態
第三章 選抜社会の空洞化 粘土の足の巨人
第四章 「総中流」の落日 自壊するシステム
第五章 機会平等への途 効率と公平
終章 やや長いあとがき
著者は1963年(広島県)生まれ。東大文学部社会学科卒業後,博士課程途中で東工大に就職。いいなぁ。本書刊行時点で東大総合文化研究科(助教授)。社会学博士(授与校はたぶん東大だろうけど不明)。09年時点で,単著が3冊。本書刊行時点で著者は37歳。手許のは18刷(04年)。売れている。大学の社会学の授業で教科書にでもされているのだろうか。
書名の『不平等社会日本』は,橘木俊詔らのように,著者が21世紀初頭の日本では格差が拡大しているという格差拡大論者であることを明かしている。返す刀で,副題を『さよなら総中流』とするこおとで,村上泰亮『新中間大衆の時代』に離別――率直に言えば間違いであること――を告げている。日本社会を論じるにあたり,村上は「イエ(家)」論を展開して,「中間」層=「中流」が最も大きく占有する社会であることを主張した。私の拙い記憶では,岸本重陳(元横浜国立大学教授,故人)が村上にすぐさま噛み付いた。若い著者に言わせれば,「職場[東京大学国際社会科学専攻相関社会科学コース--BCKT]の先輩にあたる」「『村上泰亮をいかに超えるか』が結局この本のテーマとなった」(185頁)。
教育社会学者の苅谷剛彦が,低所得層が低学歴の子孫を育て次代の低所得層を育成している一方で,逆が逆であると主張しているように,佐藤は職業階層の固定化――低職業層の子供の親は低職業層である――を不平等であると論じている。低職業層とは評者の言葉だが,職業にともなう「所得と威信」が低い・小さい層という意味である。
平等とは,同じ状態・努力・成果に対する評価が同じであるということであろうから,素朴に逆の言い方をすれば,不平等とは,努力量に比した成果が得られない,成果量に応じた評価が得られないという状況であろう。さらに著者の言うように,努力には尺度がなく,したがって計測不可能だ。
(966字)
紙の本
たまにはこういう本も読まなくちゃいけない
2001/11/07 09:15
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投稿者:Snake Hole - この投稿者のレビュー一覧を見る
1955年から10年おきに行われている「SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)」の結果を分析した本である。
……我々戦後の日本人は、「努力すればなんとかなる」「努力すればいい暮らしができる」という幻想のもと、高度成長を演出してきた。が、実際にはそのあいだも階層間の格差は広がっていたのであり、ほんまは「努力してもしょうない」社会を営々と築いてきた過程だったのだ。SSM調査によれば、親の職業、社会的階層と子供のそれの相関する割り合いは、1980年代から増加に転じているんである。早い話がカエルの子はカエル、まるで江戸期の身分制度のようなものが明文化されないままに確立しつつあるんではないか。
ここに来て日本社会に溢れている閉塞感は、バブル崩壊に端を発した不景気とかそういう底の浅いものではなく、「努力してもしょうない」現実をみんながうすうす認知し出したことに起因しているんとちゃうやろか。
なんというか身も蓋もない結論なんである (ま、あんまり現実的とは言えない〜たぶん著者もそうは思っていないであろう,今後の解決策も提示されているんだがね)。読んで楽しい本ではないが,たまにはこういう本も読まなくちゃいけないんだ,と,思うよ。
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日本は本当に総中流社会? 日本は本当に機会均等社会? そのような常識とされている疑問に対して、統計データの分析を通じて、真っ向から反論する意欲作。最近流行の「下流社会」よりも、この本の方が、より実証的で説得力を伴う。これまでの人生で漠然と感じていた『階級の再生産』というものが、空恐ろしいほどにこの書では証明されている。これこそ現代日本の現実であり、目を背けたい現実でもある。各々のデータの分析は良く分からないまま読み飛ばし、分かるとことだけ読んでいても楽しめる学術書だろう。自分が偉大なる権力者であれば、発禁にしたくなるくらい痛いところを突いている一冊である。
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■佐藤俊樹/不平等社会日本/中公新書1537/2000年/660円
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さよなら総中流。「とんでもない事件や事故がこれから起こりつづけるだろう
」です。「努力をする気になれない」社会へ、現代の日本は、かなり急激な転
換を!。第4章「総中流」の落日ー自壊するシステム。キモはここです。
1.日本社会システム全体への疑問 2.IT革命について考えていきつつ私
は読書すると申し上げおります。そんな本がコレ。帯には、「崩壊する平等神
話」!。私は「団塊の世代は葉民になりつつある」論の人間ですが、これを読
んでまたまた納得。この本のキモのキモは、P128です。
■山田法則■本は途中から読め■です。(娯楽本は除く)
この本のキモ部分にショックを受けて、その前後を読みましょう。本の出だし
で、つまづかないように。さてP128です。
■「「団塊の世代」以降でも、この状態が続く限り「昭和ヒトケタ」が社会を
担っていた時代では、想像できなかったとんでもない事件や事故がこれから起
こりつづけるだろう」■
1995年以降、阪神大震災以降は特にひどいですね。と私は思います。
(想像できなかったとんでもない事件や事故がおこるのは)
■「責任感を持てないエリートと将来に希望を持てない現場の組合せでは、そ
うならない方がおかしい。会社が面白くないと言って離職する若い世代がふえ
るのも無理はない。何よりも彼ら彼女ら自身がこの空虚にとりつかれているの
だから。」■P128
■「「努力すればなんとかなる社会」から「努力しても仕方がない」社会へそして
「努力をする気になれない」社会へ、現代の日本は、そういう転換をそれもかな
り急激な形で経験しつつある」■P128
■「基礎的平等化による開放性に依存した産業社会や選抜システムが、W雇上
(ホワイトカラー雇用上層の略です)の階級化によって根底から大きく揺さぶら
れている」■P128
著者は佐藤俊樹東京大学助教授。専攻は比較社会学、日本社会論。この本は、1
995年の「社会回想と社会移動全国調査」(略称SSM調査)からの佐藤教授
の論です。この調査に対する他の方の論文は多くあり、佐藤教授とは結論が異な
るとのことです。でも私はこの先生の意見に賛成!です。新聞・雑誌の書評でも
異見ありの書評が多いです。が、サラリーマンの眼から見れば大当たりです。
この本は、P128のキモを見れば、読みたくなるでしょう。衝撃本です。
「親世代の豊かさが、教育と資産の2つの回路を通じて本人世代の豊かさに追加
される」(P75)
「80年代前半までの戦後の階層社会は、「それなりに努力すればなんとかなる
」社会になっていった」(P87)ここが2つめのキモ。
「W雇上(ホワイトカラー雇用上層)の家庭に生れたとい���既得権に「実績」を
つみ、そうすることで、その実績自体もまた既得権化してしまうのだ」「戦後の
日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。その中で「団塊の世代
」のように生まれによる有利不利が発生。しかし、今述べたような、既得権が実
績」化、「実績」が既得権化するメカニズムが働く」(P109あたり)
「日本のW雇上2世の中には自らの力に寄らないという事実すら全く気付かない
人もいる。」「平等社会の神話につながった時すべての人が自分と同じように生
活していると思いこんでいれば、みんな同じ条件で競争していると考えても不思
議ではない。けれども、それはW雇上の世界だしか知ろうとしないことであり、
もっと幼稚な自己中心的態度である」p110手厳しいが、当っているでしょう。
さらに同じくP120あたり。「1936年〜55年生まれの団塊の世代が、まさに日
本の選抜システムの転換点になっている。」
「団塊の世代におきたW雇上の階級化は生れによる格差は縮まらない」考えを持
てば、社会も企業も腐っていくだけだ、という結論に達する」。だが、事実です。
本を抱いて自殺しそうになりますね。では、どうすればいいのか。救いはあるのか。
P140以降の4つの課題点を見て下さい。ヒント。「カリスマ美容師」もその
一例です。ここでは書きません。本屋にてご覧下さい。
知識エリート(この本で言えばホワイトカラー雇用上層)の階級化(生れによる
有利不利)が、団塊の世代の成長とともに進んでおり、1985年前後には、戦前の
日本より以上に階級社会となった。問題点は、その知識エリートがその認識もな
く、責任感もない。」
IT情報リテラシーに関する部分は第5章の2から、P156です。
「IT論上の情報リテラシーにおいても、知識エリートは既得権を持っている。
努力すればなんとかなる社会でなくなった日本では、産業の空洞化、無力感
、閉塞感に被われたれた社会となる」
IT革命に関する部分は、P159のあたりです。「父主職という目に見えない
資産の力は、伝統的な学校型の知識だけでなく、情報リテラシーという新しい形
態の知識にも及んでいる」
「1995年時点のパソコンワープロは、先進的機器であり、それらの所有が示
すのは、むしろ高度な知識・能力とされるものへのアクセスの良さである」
「日本の知識エリートは、西欧語の読み書き能力を核とした「教養」を標識にし
てきた。(中略)近代日本の「教養」は単なる文化や階層的標識ではなく、実利
的なものであった。そのメリットが薄らいだ今、情報リテラシーという新たな知
識形態が浮上しつつある」(P160)
第4章「総中流」の落日ー自壊するシステム。P106.ここから読み進みまし
ょう。
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「努力すればナントカなる」社会から「努力してもしかたがない」社会へ、そして「努力をする気になれない」社会へ─―。
2000年に出た本だけれど、今読んでもおもしろい。というか、最近の日本は「総中流」なんてのは嘘っぱちというのは自明のことなのだろうから当たり前と言えば当たり前なのだが。
やっぱり、親がどういう職業(階級)にいるかは重要事項でしょう。
ところで、著者がカリスマ美容師について触れている部分が地が出てる感じでやたらおもしろい。私はこういうことを言う人間が割と好きである。
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エリート(という言葉に反発を覚えるかもしれないとは著者自身が言っているが、つまりはホワイトカラー雇用上層)への洞察が鋭いと感じた。
私たちにとっては苦笑いせざるをえない部分があるのではないか。
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8冊目です。
ついこのまえまで格差社会という言葉がメディアなどでよく取り上げられていました(今もそうかもしれませんが・・)。
それと同時に使われたのが「勝ち組と負け組」という言葉でした。負け組というのは一日数百円で暮らしている人たちなど社会的に負けと思われている人であり勝ち組とは一日で何百万もの金を稼ぐ「ヒルズ族」の方々などを指す言葉としてその年の流行語となるほど世間を賑わせました。
でこのときにいわゆる勝ち組という方々がよく言っていたのが「自己責任」という言葉でした。つまり、「負け組になり下がったのは本人の努力の
問題であって努力しなかった人が悪いのだ。だから自己責任の結果起こった問題なのだ」と。
ですがなぜこの自己責任という言葉で片付けられるのでしょうか。それはすべての人たちがすべて平等な状況で生まれてきているということが前提になっているからです。この点を詳しく説明しましょう。現在の資本主義社会では市場、競争がすべてです。とするならばもし負け組の人たちが競争で負けたということなら確かに自己責任ということで正しいでしょう、なぜならただ単に負け組の人たちが競争に負けただけだからです。たとえば100m走で考えるとわかりやすいでしょう。この場合みんながヨーイドンで一斉スタートして1,2・・位という順位がつきます。このとき誰も最下位の人を可哀想だからこの人を一位にしようとは誰もいいません。それはかけっこが最初にゴールした人から順位をつけるというルールだからです。このルールを
市場とすれば負け組の人たちはただ単に競争に負けただけであってその限りでは自己責任です。その点では完全に勝ち組人たちの言うことは正しいです。が果たして本当に勝ち組の人たちは正しいのでしょうか。もしこの競争が最初から勝負の決まっているレースならば同じことが言えるでしょうか、
つまりもし100m走で人によってゴール近くにいる人やスタート地点から遥か後方にいる人が同時にスタートするようなレースが公平なレースだ
といえるでしょうか。もしそうならこの自己責任という反論は当てはまりません。なぜなら公平なルールという前提が覆されるからです。
ではもし現代で各々の公平、不公平となる基準は何なのでしょうか。それが「階層」というものです。
普段意識することのない階層という概念ですが平たく言えば職業、文化的側面によって決まるグループ分けのことです。これが実は世代間で
連続しやすい(たとえば親が医者なら子供も医者になりやすいとか)ということを示したのが本書「不平等社会日本」です。上の例のように
階層というのはいわば遺伝するようなもので実は生まれた環境によって強く規定されるというのを示したのが本書の面白いところです。
この基となった統計データがSSM調査というものなのですがこのデータの分析の仕方が大変勉強になりむしろこういった統計データの
分析法について多くのページ数が割かれていて統計のべんきょうにもなります。たとえばかつてのSSM調査によれば確かに中流といわれる
人たちが増えているように見えるの���すがある年代だけ取り出してみると実はそうでもなくむしろ階層間格差が広がっているように
みえるなどデータの見方を変えるだけで結果ががらりと変わるのは面白いところです。このほかにもいろいろと社会学の勉強になるようなことが
数多く含まれていてそちらの勉強にもなり興味深い内容となっています。
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amazonでも長らく売り切れだったこの書、とても期待して読み始めたが、第1章から第3章までのグラフとその解説は、どこまでが分析手法やデータの説明で、どこからがその分析とポイントなのか、という点が入り乱れていて、一つ一つは非常に丁寧に書かれているにも関わらず、少し読みにくいように感じた。
また、例えば「W雇上を開く」といった表現を随所でしていて、勿論始めに解説がされているのだが、どうも最後までしっくりこの意味をもう少しこういった分析手法を勉強していないものにもわかりやすい表現で書いてくれると、より新書としての取っ付きやすさが高まるのではないかと思った。
同時に、後半第4章以降の筆者の分析中心の章は非常に興味深かった。
著者の指摘の中で面白いと思った部分を私なりにまとめると、
80年代前半までの戦後の階層社会は、それなりに「努力すればなんとかなる」社会になっており、「上」にいける可能性を信じることができた、という点において、大多数の人間が中流になり得た「可能性としての中流」社会であった。(pp.86-87)
現在は父が管理職であれば自分も管理職になるものだ、と言う風に考えられているがゆえに(私の註:社会資本の再生産システム的なものが存在しており)、選抜システムの中で残ったという事実だけが残り、現在の地位を自分で「選び取った」という実感も責任も伴わない。
エリートたちは、曖昧な形で選抜試験を勝ち抜き、「実績」を作る。実際はすでにもっている社会資本(例:ホワイトカラーの父親がいる)によって優位を得ているにも関わらず、競争に勝ち残ったという事実だけが残るため、他人の目からみたら正当な権利のように映る。
ペーパー試験を中心とした高度に平等で一元化された選抜システムを勝ち抜いて来たエリートたちには、自らが恩恵を受けいてる学歴社会や偏差値偏重教育選抜そのものを否定することによって、選抜システムの「空虚さ」を言明し、そのシステムの中の敗者の意欲をそがないようにするのがお約束になっている。
(以上pp.107-118)
そして著者は、ここでエリートがエリートである責任を逃れていること、そしてエリートが作っている「実績」の既得権化を指摘する。
自分がエリートであることの責任感、エリートであるからこそ社会に還元/貢献すべき役割があることを、日本人は実感していないのではないか。
ノブリスオブリージュは元々西洋で生まれた概念だが、日本だけではなく、アジアにおいてこの観念はどのように解釈され、エリートのはやす役割は一体なんなのか。ということを考えさせられる本だった。
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[ 内容 ]
実績主義や自由競争の市場社会への転換が声高に叫ばれている。
だがその「実績」は本当に本人の力によるものか。
筆者は社会調査の解析から、専門職や企業の管理職につく知識エリートたちの階層相続が戦前以上に強まっていることを指摘。
この「階級社会」化こそが企業や学校の現場から責任感を失わせ、無力感を生んだ現在の閉塞のゆえんとする。
一億総中流の果てに日本が至った「階級社会」の実態を明かし、真の機会平等への途を示す。
[ 目次 ]
序章 『お嬢さま』を探せ!
第1章 平等のなかの疑惑―実績VS努力
第2章 知識エリートは再生産される―階層社会の実態
第3章 選抜社会の空洞化―粘土の足の巨人
第4章 「総中流」の落日―自壊するシステム
第5章 機会の平等社会への途―効率と公平
終章 やや長いあとがき
[ POP ]
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☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
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☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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今まで肌感覚で感じていたことがデータで詳しく説明されてる。そして、第四章は非常に耳の痛い話です。親から与えられたものをかんちがいして自分の実績だと思っていると。
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ちきりんtwitterで知るご参考)ペーパーテストでエリートを選ぶという方法を「平等だ」と感じる日本社会の仕組みについては、この本が非常に深い洞察を示していると思います。さすが学者さん。まだの方はぜひどうぞ!→ http://ow.ly/44r99約9時間前 HootSuiteから InsideCHIKIRINちきりん
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エリート(ホワイトカラー上層)は再生産される、ということが具体的なグラフによってしるされており、総中流を謳った日本社会がとっくに崩壊しているということをあらためて実感させられた。
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総中流が崩壊しつつある。
原因は経済成長が終わり階級の再生産、自営の数が少なくなっているからだ。これによりエリートの責任の空無化、一般層の一層の閉塞感が生じている。これを解決するには受験、新卒一斉就職をやめ、選抜機会の多様化を目指すべきだ。これにより、階級の固定化がなくなり、ホワイトカラーに責任感が復活する。単純な教育改革では何も変わらない。
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戦後社会をつくりあげてきた人々は死ぬほど頑張ってきたのに現在の自分はなぜぬくぬくと生活していられるのか。そんなことも考えたことがないから僕は大学に入ってもヘボなのだと思いました。
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子供の学歴と親の収入の相関関係が話題になるのは昨日今日に始まった話ではなく、少なくとも私が高校生の頃からありました。しかし、親の学歴、親の収入、親の職歴、子供の学歴、子供の収入、子供の職歴がどれほど関係するものか、そして団塊の世代からその階層が固定化されたことなどを社会統計から読み取れるとは思いませんでした。著者は新進気鋭の社会学者であり、初めての新書執筆のようで気負いが感じられましたが、研究テーマは非常に興味深いので、2005年のSSM調査の分析も期待しています。