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幕末史を考える中で、薩長主体が勝者の論理ならば、会津主体は敗者の論理であろう。しかし、本書は単なる敗者の主張ではない。会津人が受けてきた地獄の苦しみ、恨み、心の叫びを綴った、悲しき黙示録である。
薩長が残した功績は、それはそれで偉大だったかもしれない。しかし、その後の堕落、専横、浪費は不都合な真実として抹消され、「勝てば官軍」で綴られた勝者としての歴史だけが残った。当然、一部の軽る者によって行われた会津への虐待も、本書が無ければ陽の目を見ることはなかったであろう。柴五郎と石光真清が友人で、真清の息子が本書を編纂したのは、何か因縁めいている気がする。
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薩長土肥の旧藩士にあらざれば人にあらずと言われた時代、陸軍大将にまでなった会津藩士の子、柴五郎の遺書。
明治維新の只中を過ごした幼年期から東京へ行き、陸軍士官学校時代までを、本人の回顧録として書かれている。
幼少期に官軍に攻め入られ、祖母、母、兄嫁、姉、妹が自刀。
そんな中でも兄から「薩長の下郎どもが何をなすか見届けよ、もし辱めを受くれば、江戸にても何処にても斬り死か、腹掻っ捌いて会津魂を見せてくれようぞ、今より気弱になりていかがいたすか、万事これよりなるぞ」とはげまされる。
しかし、斗南へ移封され、藩取り潰しよりも辛い生活を強いられる。雪の中、履くものもなく、食べるものもなく、犬の肉で飢えを凌ぐ生活。
父から「武士の子たること忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われ辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死してはてたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世まで恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言われ耐え凌ぐ。
その後は野田豁通と出会いを通して、また本人のどん底から抜け出したいという一心で、あらゆるチャンスを掴みに行き、紆余曲折を経つつも立身出世をしていく。
自分も小さい頃から祖父より明治維新の際の惨状を聞いていたが、その時代を生きた人の目で語られる本書を読み、あらためて認識できた。
義和団事件でも活躍したが、奢ることは無かったという。これは幼少期の体験もそうだが、教育によるものだと感じた。年齢に関係なく、相手の心を常に読み、立ち振る舞いをしていることに驚くことは少なくなかった。
同じ会津の人間として、素晴らしい先人がいたことを心から誇りに思う。
大学の鹿児島の後輩と明治維新の話になった際に、「あのままちょんまげに刀でいたら、今頃外国の植民地だった」と言われ、ぐうの音もでなかった自分が情けなく、なにより、歴史を知らない自分が恥ずかしかった。彼らは明治維新の際の教育をかならず受けるそうだ。会津の学校でもこうした本を紹介して欲しいと思う。
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幕末の会津藩に生まれ、太平洋戦争の終結まで生きた柴五郎の遺書を掲載した著書。遺書のほか、最晩年の柴と交流のあった石光真人の「柴五郎翁とその時代」を含む。
以前会津若松に行ったことがあり、戊辰戦争時の悲劇のみだけでなく、明治期に青森に転封されたことも知っていたが、実際に転封された人がここまで凄まじい貧困を経験していたということは全く知らなかった。そうした貧困があったということの貴重な記録が、この本には記されている。
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根無し草のようになった現代の私たちにとって、武士の志を抱いていた会津人柴五郎の生き様は衝撃的である。幕末に天皇家にも幕府にも誠意を尽くして生きてきた会津の人たちが、戊辰の役で敗れた。それからの屈辱と困窮ははかり知れない。そのなかで必死に生き、会津人でありながら軍人として最高位に上り詰め、常に謙虚で大局的に判断できたすばらしい日本人がいたことを嬉しく思う。
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この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。乞食小屋にて犬の肉を食う境遇。
断髪廃刀
断髪といいてもいかように切るべきか判じ難く、当時、結髪所に聞くも知らずという。うかつに切りては罰せらるる惧れありと、役所に伺いをたつる者多し。
武士道の退廃
武士道を抹殺しただけでは市民意識は育たない。宗教を破壊して天皇信仰を唱えただけでは、市民としての生活信条は育たなかった。日本近代化の失敗。
西欧諸国の市民革命とはちがって、市民社会の建設のためには得ることが少なく、失うことの多かった革命ではないか。
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はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まことに流罪にほかならず挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか 死ぬな死んではならんぞ、堪えてあらば、いつかは春は来たるものぞ。堪えぬけ生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは
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柴五郎は会津藩の上級武士の家に生まれた。会津戦争に敗れ、斗南(となみ/下北半島)の地で少年時代を極貧のうちに過ごした。その後12歳で単身上京。陸軍幼年学校、陸軍士官学校で学ぶ。士官学校の同期に秋山好古〈あきやま・よしふる〉がいる。柴はフランス語・シナ語・英語に堪能。北清事変(義和団の乱)で8ヶ国の公使館連合で抜きん出たリーダーシップを発揮し世界各国から絶賛される。これがきっかけとなって日英同盟(1902-23年)が結ばれる。そして1919年(大正8年)に陸軍大将となる。
http://sessendo.blogspot.jp/2015/11/blog-post_27.html
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朝敵とされた藩士の子ながら陸軍大将となった柴五郎。10歳のとき会津の城が落ち祖母・母・姉妹が自刃。流人同然の生活を強いられ死線をさまようが,恥辱をすすぐべしとの父の厳命を胸に刻む。逆境を逃れようと,機会をとらえて前途を開いていく少年の姿に,涙が止まらなかった。激変の社会を生きる青年に,この本を推す。
*推薦者(農教)Y.O
*所蔵情報
https://opac.lib.utsunomiya-u.ac.jp/webopac/catdbl.do?pkey=BB00083905&initFlg=_RESULT_SET_NOTBIB
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旧会津藩士の息子として生まれ、義和団の乱で英国はじめ世界からその活躍を称賛された柴五郎の少年期の記録である。
『城下の人』の石光真清の息子である石光真人が、柴が自ら記録、保存していたものを、柴の死の三年前に筆写する機会を得たことによって、公となったものである。
本書には、1860年に会津に生まれた柴が、1868年の会津落城の際に祖母、母、姉妹を失い、移封された陸奥国斗南で寒さと飢えに苦しむ生活を送り、1873年に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進むまでの記録が綴られている。
明治維新については、薩長側から語られることが多く、佐幕の会津が戊申戦争後このような境遇にあったことに驚くとともに、石光真人が本書の第二部「柴五郎翁とその時代」で書いているように、「いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか」との思いを強く持った。この思いは、2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』を見た際に更に強くなった。
中立な歴史・客観的な歴史というものは存在しないのかもしれないが、「歴史」に接する際には、そのことを十分に意識する必要があることを改めて感じる。
(2011年5月了)
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今まで読んだ自伝の中では一番面白い。また一人 尊敬すべき日本人が増えた
もっと軍人時代の話が知りたい。福沢諭吉、西郷隆盛、吉田松陰と比較して、本が少ない。福島県へ行ったら、図書館、歴史館で 柴五郎の史料を探したい
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1971年刊行。◆戊辰戦争で敗れた会津藩士の記録と聴取調査録である。中でも、戊辰戦争後、会津藩士が移転させられた陸奥国二戸、三戸での奮闘録はなかなか目にする機会がないかもしれない。
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会津人柴五郎が残した記録。時期は戊辰戦争の会津落城から西南の役くらいまで。
現在殆どの人は知らないであろう会津藩のその後、全ての日本人に読んでほしいと強く思う。現在の学校の歴史の授業では絶対教えることの無い内容。
かくいう私も会津から北海道へ開拓で移住した人々の子孫。先祖の艱難辛苦を改めて知ることができた。
歴史は勝者が都合良く作るというのは確かな事実だろう。靖国神社が戊辰戦争のいわゆる賊軍を祀っていないことをどれだけの人が知っているのか。現在の自民党でも藩閥政治の名残りが強くある。
貴重な一冊。さすが中公新書。
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柴五郎はあの義和団によって北京が包囲されたとき、勇猛に戦い、援軍がくるまでの間各国の大使館をも守り、西洋人の信頼を得て、のちの日英同盟のきっかけをつくった人として知られている。ぼくもずいぶん昔に本書を買ったのだが、そのままになっていた。今回手に取る気になったのは、内田樹さんが新聞で本書を推薦していたことがきっかけである。会津人の戦いについては、さきにNHKの大河ドラマで新島襄の妻八重を描いた『八重の桜』で知っていたが、本書を読むと幕府軍の残酷さがひしひしと伝わってくる。明治維新の見直しが昨今言われているが、会津藩主の容保は京都守護職として朝廷を守っていたにもかかわらず、徳川慶喜がだらしないものだから、いつのまにか朝敵にされ、しかも、恭順を願い出たにもかかわらず薩長軍によって総攻撃を受けた。さらに、かれらは公称3万石実質7千石という下北半島の火山灰地に配置換えされ、ことばでは言えないほどの苦渋をなめさせられた。しかし、その中でも何人もの逸材が出ているのは、会津人の不屈の精神のなせるわざではあるが、当時藩閥跋扈の世にもかかわらず逸材を取り立てようとした人々がいたことも事実である。柴五郎は当時まだ10歳でものごとがよくわかっていなかったが、祖母、母、姉妹は自害し、兄たちも戦死するものあれば、藩の罪を背負って何年もの間獄につながれたものもあるという悲惨な環境下で育ったが、さいわい取り立ててくれるものがあり、陸軍幼年学校に入り、最後は陸軍大将の位まで昇った。本書はその柴五郎が幕末の戦いからはじまり、四番目の兄(のちの東海散士)がアメリカへ留学するところで筆を折っている。あとの部分や柴が述べなかった部分は編著者の石光氏の「柴五郎翁とその時代」が補って詳しい。石光氏は、柴が亡くなる昭和20年の数年前に本書のもとになった原稿を託され、読みながら不明の箇所を尋ね書き上げたという。中公新書本は1971年の出版なので、その間になんらかの形で出されたものか。石光氏は本書が衝撃の書と述べている。明治100年からまもない当時からすれば確かにそうであろう。ただ、ぼくは柴が抜擢されたあと、家のことを思えどなにもせず、しかも牢につながれた姉のことをそのあとなにも書いてないのが気になった。また、貧乏な暮らしをしたせいか、性格的に屈折してしまっていることも気になった。西南戦争のとき会津の人々は競って討伐軍に加わろうとした。つまり、それはあくまで私憤から出たものであった。この五郎青年がその後どうやって世界から賞賛され、将軍にまで登ったか知りたいところである。(ネット出調べると光人刊から村上兵衛『守城の人』1992年が出ていた。本書は600頁を越える大著でぼくは今この本に挑戦している)
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岡田 英弘先生は「歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し理解し説明し叙述する営みである。」と定義した。歴史は自分の立ち場を正当化する武器になる、とも。
歴史が理解・説明・叙述の行為であるあるなら、そこには立ち位置、スタンスと言うものがある。
この本は朝敵といわれた会津藩から見た歴史書と言えるだろう。会津戦で自刃した祖母・母親・姉妹達に関する記述には涙を禁じ得ない。
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京都の守護職として幕府に対する忠義を崩さなかった会津藩に対して、明治政府から追討令が出され、薩摩と長州を中心とする軍勢が錦の御旗のもとに殺戮戦が繰り広げられました。さらに降伏後も下北半島の不毛の荒地に藩主ともども二万人近くの藩士が移封され、厳しい寒さと飢えのため多くの死者を出しています。こういった事実は歴史の中に封印されており、あまり知られていません。この本は会津の士族の家に生まれた五郎少年の目を通して維新のときに起こった出来事が克明に記されています。
会津戦争の際には、母と妹が自刃し、下北の冬には寒さと飢えに苦しみ、そして、苦労の末、陸軍士官学校の生徒となります。遺書は、西南戦争の折に、兄弟揃って、会津の雪辱のため西征へと赴くところまでで終わっています。
平明な短文の文語体で事実の描写が積み重ねられ、目に見えるように光景が脳裏に思い浮かびました。自らを律して生きる五郎少年とその家族の姿勢は見事としか言いようがありません。極寒の下北の地で生活する中で、留守居の長男の兄嫁と同じ屋根の下に寝るのは失礼だ、と言って、暖をとる手段さえない小さな小屋に俵や蓆にくるまって寝起きする兄の五三郎、「会津の武士ども餓死して果てたるよ、と薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と父親に叱咤されながら、吐きそうになりつつ死んだ犬の肉を飲み下した五郎少年。小説ではなく実際に起こったことだと知りながらも、たった140年前に本当にこんなことがあったのだろうかと思いたくなります。
五郎少年は、その後、陸軍大将に登りつめ、北清事変の際には冷静沈着な行動で世界の賞賛を浴びたといいます。気骨のある明治人、という使い古された表現では到底語り得ない方だと思います。