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子どもが変わってきているのではないか、と言う視点から、現在の教育問題を捉え直そうとした本。まだまだ素人に毛が生えた程度の私にはとにかく難しい。読むのに骨が折れます。学生時代に一度諦めたのですが、再度チャレンジ。
結局のところ、筆者の主張は
子どもの個性を伸ばす教育が求められているが、その個性はあくまで社会性の上に成り立つ個性でなければならず、学校教育では社会性と基礎的な知識を身につけることから始めなければならない、ということでした。
社会性を身に着ける中で、自己を相対化したり、自己を生き延びさせる術を覚えていかなければならないが、幼稚で鍛えられない自己が生き延びてしまうことによって、オレ様化した生徒が生まれてしまう。
また、変化した生徒は自立した「個」として、「教師=生徒」という学校での関係を否定したがる。それが、学校という場の現在の難しさとなっている。
といったようなことが書かれていました。
社会性を身に着ける中で失われる個性など、本当の個性ではない。
どこかで聞いた話だと思ったら、
演劇の練習の中で聞いた話でした。
癖を直したら消えてしまう個性だったら、そんな個性は棄ててしまったほうがいい。
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2007年くらいに買って読んだんじゃないかなぁ…と思います。
小林よりのり氏推せん!!
ワシ様もオレ様が嫌いだ!!
と帯にイラスト付で描いてあります。
この本は、今パラパラ見ると、アクがない感じにすら、受けてしまう…。
その理由は簡単。
大筋が社会通念的にOK採用されているように感じるから。というより、次の段階へ行ったって感じ?
ただ、買って読んだころは、そうではない世の中の空気が流れていたと思う部分アリ。
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子どもは親(教師)の思い通りに行かないと思うのだが、それでも80年代90年代と子供たちは代わってしまったと感じることがある。
「プロ教師の会」というのがあるらしい。論争を煽り、批判する集団なのか?
2部構成になっており、第1部は子どもが悪い、といことの検証。第2部は教育論者の子ども観。
ゆとり教育はうまくいかなかった。変わる子ども、変わらない教師。
教育が贈与から商品交換となった。
子供たちは、個性=自分独自=他人と異なる、という比較を嫌う。大人と対等な関係を望む。
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フロイト好き?
10年ちょっと前の著作だが、SNSが普及した今の状況をどう見ているだろうか。
現場の意見なので、ああそうなのかとも思うが、教師を唯一神の補完するものとしてとらえているのは納得しかねる。
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前時代的な老害教員が書いた感じがする。
保健室に行く生徒を非難するくだりは人の心がないなと思った。
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初めて諏訪先生の本を読んだ。昭和臭い部分もあるので、諏訪先生は、まあ上司にしたくはないタイプの人かもしれませんね。なるほどって感じ。教育論者の比較・検証をする章は圧巻だった。変わる子ども変わらない教師も面白かったかな。すぐ一般化するから、単語を理解しながら読まないと苦しくなる。
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プロ教師としての教育論
戦後60年間でこどもがかなり変容をとげてしまったということを前提に教育論を語るべきという主張。
なんといっても、教育における共同体的要素=社会化の重要性を強く主張しているところが特徴。また実践者の感覚でもある。
・教育における共同体的要素の必要性:宮台の考え方の否定。共同体的対市民社会的
・生活指導の必要性:和田秀樹と上野千鶴子の(生活指導などではなく)授業に集中する学校への回帰論がいかに現実的でないか
・子供は聖域ではない:特に、いわゆる教育の内部(家庭、学校、地域)だけの影響を受けているわけではない。すでにメディアによる共同体的要素の破壊は大きい。尾木直樹はユートピアから課題指摘を学校だけに対してしている
・共同体的枠組みの重要性:村上龍のは好奇心に偏りすぎ
・かといって贈与にだけ偏る世界は教育はない。水谷修の「夜回り先生」は、聖者であって教師ではない
結論として、子供は「教育の外部」の影響を大きく受けており、子どもが教育現場に入ってくる前に大きく情報メディアの影響を受けている。また、農業社会、産業社会、消費社会と変化してきた中、消費者としてのこどもは、強い自己に固執。要するに教育の内部である地域、家庭、学校を超えた世界の影響によって子供は「オレ様化する」
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筆者は教師という立場から「オレ様化」した子供について、「畏れる」ものを何も持たず、自ら自己を主張して何ら憚るところがないと述べている。
また、子供たちの内面のその自信に比して、その表れの何たる貧弱なことよ、とも。
これについては、親の立場から子供と接する身としても非常に同感する。
筆者が本著でも述べているように、親は育児をする機会が一度きりであり、この子供の態度が近代化の結果なのかどうかは私にはわからないが、その根拠のない自信に満ちた態度にたじろぐことは度々経験したものである。
ただし、だからといって筆者の述べる従来の教育が子供の教育環境として今日望ましいのかどうかは、これもまた判断できなかった。
分かることは、この子供たちの相手をする教師たちの負荷はこれまでの教師たちのそれに比べて遥かに大きなものになっているであろうことぐらいだ。