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人が死ぬということについて真剣に考えなければと思ったときに買いました。基礎的な分析理論が半分以上。分析臨床的な話は少なめでちょっと私のニーズには合いませんでしたが、初心のうちに読んでおいたほうがいい本かと思います。
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一時期ずっと携帯していた本。
何かを失うことによるダメージについて書かれたものです。
配偶者の死を始めとして、ありとあらゆる「喪失」、引き起こされる「悲嘆」、その過程についても触れています。
「現代人が悲しみに慣れていない」という警告をしてくれる本です。
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高校生の失恋した頃に読んだ本。
その時は,この著者に会ってお世話になるとは思わなかった。
運命とは不思議なものである。
人は思いをよせる対象を失った時ににどう耐えるのか。
死,失恋,怪我,受験失敗など,
人はいろいろな対象喪失を耐えて生きている。
その心理過程,防衛機制について解説している。
小此木啓吾の代表作とも言える本。
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息子と娘が二人とも就職、一人暮らしで家を出ていきました。とても寂しくて、目にとまったこの本を購入。いろいろと勉強になりました。
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2年くらい前に読んだ時はちんぷんかんぷんだったけど、改めて読んでみて、対象喪失の過程として説明できることが、こんなにもあることに驚いた。
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フロイト寄り。
喪失に対して冷めてしまうと言うか、冷静になってしまう。
今はどの段階だ、等と言う考え方は枠に嵌めて観察するデメリットもあるけれど、振り回されないで済むと言うメリットもある。
2009.07.15読了
(読後に)けれど実際に自分が対象喪失を経験すると、理論も知識も無力だなぁと、思い知らされる。
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対象喪失と、それをよく受け入れること(「悲哀の仕事」)をプロセス化、構造化することがどこまで有効だといえるかは難しいけれど、適切に例(ケース)が用いられていてともかくわかりやすかった。現代社会の精神を扱った最後の方も面白かった。途中のフロイトの話(第3章、第4章)はちょっと興味不足で流し読みしてしまった。
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[ 関連図書 ]
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フロイトを基軸として対象喪失についてつづられている。対象喪失と銘打ってはいるものの、ここで用いられる対象喪失はかなり広義的なものである。それは、他人である場合もあれば、自己でもあり、あるいは、信頼などといったものや、人間関係、趣味などかなり広範に渡るため、対象喪失といった事例として限定されるよりはむしろ、精神分析においてはほぼ全ての事例に適用できるものとして対象喪失を解したほうがいいのかもしれない。基本的に初期の精神分析学者たちは自らを分析することによって精神分析理論を打ち出しているので、どれもこれも伝記的な性質を持ちうることは免れない。もちろん、自分だけではなく患者を通して明らかにされたこともあるのだが、しかしそれは自分と患者との係わり合いの中で発見された理論でもあるので、その意味において自分という存在は必須と言えよう。著者も臨床医の役割とは、対象喪失を共に味わうことだと述べているが(本当は臨床医以外の人がその役割を担ってくれるべきではあるといったことも暗に述べておられるが)、ここから臨床医は実感として精神分析を学びそれを理論化させていくのだろうと思われる。また、フロイト自身も自身の父への思いを、患者に投影させることで解決させてもいる。このことからも、彼らは正に自分をある種の実験材料と見做していたとも言えよう。だが、これは自分に対して冷酷であったというよりは、自分に対してより真摯であった言えるのだろう。
対象喪失に対する反応としてはどれもこれも自分を観察してきている人ならば、容易く考えているようなことでもある。とはいえ、そこには実感がなかったりもする。その実感を得ることこそが必要なことなのだろう。要するに、わざと対象喪失といったことから目を背けようとしたり、あるいは失った対象を別の誰かに中に見出して依存するなどといった心理は、やはり実際に経験してみなければ本質的には理解されえないのではないかとも思うのだ。対象喪失に対する姿勢としてはより真摯でいることこそが求められる。目を背けてはいけない。悪い感情もよい感情も両方持つべきである。家族が死したときに、無意識的にその対象への憎悪などが抑圧されていたならば、無意識的にその死に対して解放感を抱くであろうし、そのことに罪悪感も覚えるはずである。それと同時に対象への愛情も蘇ってくるはずであり、こうした一連の自分の心的作用を自覚することは非情に心苦しいかもしれないが、そうしなければ抑圧された感情が何を仕出かすかわからないのである。また、対象喪失後に立ち直るために必要とされる「悲哀の仕事」は半年から一年ほどかかるかなりの長丁場であり、外的現実がそれを妨げることもあるが、だからといって放置しておいていいものではない。悲哀の仕事を放っておくと、突発的にうつ病が生じることなどもありかなり危険なものとなりえるといったことを誰もが理解しなければならないのだろう。心の風邪、という認識も認知を高めるためには必要なのかもしれないが、風邪という言い方は少々まずいとは思う。その意味するところを覆い隠してしまうような言葉でもあるので。最後に著者は現代では、対象喪失そのものが失われる危機があると���言している。つまり対象喪失といったものを当人も周囲の誰もが感覚的に理解していないために、悲哀を味わうこともないまま本人はある種の空しさを抱えて生きなければならない時代を迎えているというのである。確かに現在的に対象喪失のようなものを知るためには、文学作品のようなものによるしかないような気もする。文学作品を理解するためには実感が必要となるので、自らの体験と照らし合わせて相互扶助的に対象喪失を感覚的に理解するのである。逆にドラマなどでは対象喪失がフィクションなどといった軽いものとして扱われてしまうために、深刻に意識されなくなっているといった事態をもたらしてもいる。なので、人間的に深みのある人は、それだけ対象喪失を初めとした経験とそこからの復活を得ているか、文学的実感を持ちうる人に限られてしまっているような気がしないでもない。
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30年ほど前、陶淵明の詩文における「影」という言葉についていろいろ考えていたときに出会った本です。専攻の如何に関わらずいまの学生諸君にもぜひ読んでほしい書です。
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僕がまさに生まれた年に書かれた本を、三十数年経って僕が読むという不思議。愛着対象の喪失と、悲哀の仕事の過程について。フロイトさんがとてもチャーミングな人物に描かれている。転移による悲哀の仕事と、投影性同一視による悲哀の仕事は、双方が適度なバランスで循環的になされるのが理想的な形なのかな。
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初版が79年なので古い本だが、内容は古くなっていない。
どんな人でも、関わりのある対象をなんらかの形で失った時には、「悲哀の仕事」によってその喪失から立ち直らなければならないためである。
対象喪失は死別や離婚だけでなく思春期の親への反発や家族との不和にも適用できる。
悲哀の仕事とは、適切に悲しみ、対象の理想化や悪玉化から脱出し、罪意識を経て、自らの中に居座っていた対象と和解をすることで、人は自然な精神状態に戻ることができるというものである。
この悲哀の仕事のプロセスがフロイトの論を元に分かりやすく書かれている。
悲哀から立ち直るのは自然な心の働きであるが、現代のような全能感の達成された時代では、対象の喪失に気付かないまま悲哀が排除されてしまっているため、その自然な心の働きが育たないままになっている。
その結果として大きな対象喪失が起きたとき、人は立ち直れずうつ病のような病的な心理状態になりやすくなっている。
対象喪失を克服するための仕事として、転移による喪の仕事と投影同一視による喪の仕事ということが述べられている。
現代ではカウンセラーなどの専門家などに転移の相手を引き受けてもらったり、自助グループなどで投影同一視を行なったりして病的な心理状態から立ち直れば良いのだと思った。
自分の抱えるしんどさや辛さをどう解釈すればいいのか分からなかったので、対象喪失とそこからの悲哀の仕事による回復のプロセスという考え方をこの本から得られたのは良かったと思う。
精神状態に問題を抱えている人たちがフロイトに学ぶ理由も少し分かった気がする。
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喪失感からの救済を得られる本ではないが心理学に疎い者としては大変勉強になった。現代脳科学と合わせて今後考えていきたいと思わせる内容であった。
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大学時代、小此木先生の精神分析を履修しました。当時、日本ではがんの告知をしていなかったことを思うと隔世の感があります。
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Amazon、¥438。
フロイトの話が途中からどんどん増えてきて、私が求める[失った存在へ、どのように心を整えて接するのが望ましいのか、または一般的なのか] という疑問に答えてくれる本ではありませんでした。そういう意味での星二つです。本書の内容がひどいという意味ではありません。また時間をおいて読んでみたいと思います。