投稿元:
レビューを見る
現代社会の整理、否定神学的マルチチュード、すなわちチープで一過性の動員。これを刷新するための郵便的マルチチュードという概念の立ち上げ、その主体たる観光客を支える倫理としての家族、不気味なもの、そしてドストエフスキー。
革新的な思想というには早計ではあるが、真面目な政治の外部にテロリズムがあり、それは不真面目なものであるから政治では対応出来ない。
政治は真面目と不真面目を分割するが、文学はその分割を必要としない。
それが終章への韻律と、行間に感情を埋め込む筆跡、そして象徴的な締めくくりを迎え、理路整然とした整理から零れ落ちる感情へと人を移行させる。
投稿元:
レビューを見る
不思議な本である。そして同時に傑作である。
本書のテーマは重い。極めて重い。今の世界が直面する困難の構造を析出し、それを突破する主体を構想する。それが本書の目的である。ところが、その重すぎるテーマを前にして本書の叙述スタイルはなんだかとっても妙だ。文章はわかりやす過ぎるほどに明快であり、哲学書・思想書にありがちな晦渋さとは無縁。随分くだけた表現もあり、場違いなほど俗っぽい物言いに思わず吹き出してしまうこともしばしばだった(とはいえ、これは東の話術=トークにおいてはおなじみのものだが)。もともと著者・東は複雑なものをシンプルに整理して提示する達人だが、本書ではその技術がいよいよ究められつつあるように感じられる。
全体の構成も面白い。本書は二部構成で、第1部ではまず今の世界のありようを描き、それに抵抗する主体として観光客=郵便的マルチチュードなる概念が提示される。この新しい主体のアイデンティティの在り処を探るのが第2部となる。詳細については実際に読んでもらえればいいのだが、東は上記のストーリーを描き出すために多様なモチーフを呼び出している。観光学や政治哲学を参照して記述する第3章あたりまではいいとして、第4章以降はネットワーク理論に情報社会論(サイバースペース論)にドストエフスキー論と怒涛の展開である。さらに第1章のあとに挿入される付論では東の過去の仕事であるオタク論および福島第一原発観光地化計画についても言及され、本書との接続が図られている。このような混淆性により、本書を読むことそれ自体が一種の知的観光となっている。まさに構成の妙と言えよう。
以上のような独特の叙述スタイルは、課せられたテーマの深刻さにもかかわらず、本書をさわやかで風通しのよいものとしている。この「まじめ」と「ふまじめ」の同居こそ、本書の不思議な印象の正体だろう。
内容については下手な要約をするより実際に読んでもらうのが一番だと思う。大変刺激的な議論である。第2・3章の近現代政治哲学の鮮やかすぎる整理は大変勉強になった。第4章で試みられる社会思想とネットワーク理論の接続は驚くべきアイデアであり、今後賛否両論を呼ぶことになるだろう。第6章は東の初期の仕事であるサイバースペース論のアップデート。第7章(最終章)のドストエフスキー論は感動的ですらある。
ついでに言うと、本書は「東浩紀による東浩紀入門」としても読むことができる。前述した「多様なテーマ」とは、つまりは東が過去に取り組んできた仕事の集積であり、それを「観光客」というパースペクティブから再構成し、そこに新しいアイデアを加えてできたのが本書ということになるだろう。これまで東浩紀の最初の一冊は『動物化するポストモダン』か『弱いつながり』あたりだったのかもしれないが、これからは間違いなく本書となるはずだ。入門したところから一気に最前線まで連れていってくれるのだから贅沢なものである。
投稿元:
レビューを見る
偽善で空想的だったリベラルはもはや存在しないが、政治と経済、国民国家と帝国、ナショナリズムとグローバリズム、コミュニタリアニズムとリバタリアニズム、この対立のどこかに身を置く、のではなく、「第4の道」を見出すための本。
その道は、連帯しないのが連帯、と言うただデモするだけの否定神学的なマルチチュードではなく、書名にもあるように何らかの「繋ぎ換え=誤配」を産み出しうる『郵便的マルチチュード』である観光客だ、と言う話。
そしてこの「観光客」も単なる観光客という意味だけではなく、同じく郵便的マルチチュードと考えることが出来る「家族」も含まれるもの。
本書の最後がドストエフスキーを通して家族を捉え治す、と言うのがソルジェニーツィン試論に帰ってきているのが、注釈でも書いてあるように自覚的な原点回帰のようで、東さんはもう筆を折ってしまうんだろうかと少し不安になりかける。けどゲンロンはまだまだ続いていくようで、ちゃんと追っていかないと。
政治思想にはコミットしていないしそもそも文系科目的な知識や知見は初等教育の時代においてきてしまっているような人間に対しても粘り強く、重要な概念は何度も反復して、言い換え、思考を誘導するように丁寧に連れて行ってくれているようで、読みやすい。
とはいえ「難しい」話をしているのでこちらもちゃんと整理していかないといけないのだけれど。
実は存在論的 郵便的はまだ読めていないのだけれど、これまでの主著は大体読んできたので、それらとこの本が示す「第4の道」である「観光客=家族」へ至る道が朧気に記憶の底から甦ってきて色んなことに合点がいったり考えが展開したりして、面白かった。非常に。
最近の比較的ライトと言える仕事だった弱いつながりやセカイからもっと近くに、特に後者のあの最後の展開の部分がピタッと嵌まった感じで、凄く気持ちいい。
いや、気持ちいいとか満足した、と言うことじゃなく、この本で辿ってきた議論は何度も書かれているように荒削りで未完成ではあるわけで、それを自分のことに引き寄せて、それを実践して行かんとな、とは強く思っている。
ちょうど家族を作ろうかとしているところでもあり、この本を家庭の座右において、ずっと考えていかなきゃ。
東さんが6年(もうか!)くらい前に冗談めかして言っていた、「世界は二つある」の思想がぎゅーっとつまっている気がする。
などだらだらと垂れ流したので、2週目へ。
投稿元:
レビューを見る
2017.4.1-2017.4.9
お勧め。
読後に思つたことをブログに書きました。(全4回)
https://blogs.yahoo.co.jp/yoshiharajya/55759883.html
投稿元:
レビューを見る
確かに過去のどのゲンロンよりも読みやすい(カラマーゾフの兄弟は再読しないといけないけど)。観光客という響き、家族という言葉に対して扱う内容は深い。2017年の、いま、この環境において、いかに他者と関わることができるのか、世界とどうつながることができるのか、社会をつくることができるのか。それが「観光客」で、そして「家族」であるというのがたどり着いたところ。誤配された家族的類似性。これから第二部の内容をどう深めていくのかが、文字通り親である東浩紀と東チルドレンの宿題。
投稿元:
レビューを見る
緊急事態宣言が発せられた最初の土曜日。予定がキャンセルで引きこもり状態なったので、よし、積読解消モードだ!ということで2017年に毎日出版文化賞でチェックしていた本書を開きました。たぶん出版後すぐ読んでも受け取れることの多い読書になったはずですが、3年後このタイミングで読んだからこそ、の浸み込み度が大きかったと思います。今回のパンデミックによってデリケートなバランスで成立していたグローバルとナショナルの関係が崩れていく予感がしますが(同じ土曜日夜のETV特集でも世界の識者がそこ指摘してました…)、そのグローバリズムとナショナリズムの二層構造に分裂してしまった(それは今回のことだけではなくトランプ勝利やBREXITで顕在化はされていた)世界に対する哲学を創出しようという挑戦のプレゼンテーションでした。哲学というと難しいイメージがありますが作者の使う言葉は極めて明快で分かりやすく、分かりやすいキーワードで経済でも政治でもできない哲学ならではの現実世界へのコミットを指し示しています。そのキーワードは「観光客」。グローバルな仕組みとナショナルな社会を楽しみのために行き来する回路をそう呼んでいます。それはアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの「マルチチュード」という概念をベースに、作者が20年前から使っている「郵便」という概念でアップデートしたもの。「観光客」=「郵便的マルチチュード」なのですが、こうやってメモしているとなんのこっちゃ?ですよね。でも、読むとするする分かるのです。今回の災厄に対する危機感が難解な言説も本能的にわかるように鳴っているのかな?時々、東浩紀は読んできたのですが今回が一番するする浸み込んだ感じです。
投稿元:
レビューを見る
政治に他者に関わることなく引きこもって自らの欲求を追求して暮らすことが可能な動物の時代。神も国家もアイデンティティの拠り所として機能せず、グローバルリズムを否定するためにテロリストでさえふわふわした浅薄な理由で(動画を見て)生まれる。テクノロジーとグローバル化により均質になっていく世界で、数々の哲学者の論説をひもときながら人はどうあるべきか模索する。
本来は世界市民となるはずだった現代人はリベラリズムに疲れはて、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムに分裂している。グローバリズム(経済的利益、肉体関係)はナショナリズム(政治、恋愛関係)を取り残したまま歪な秩序として浸透したのだ。SNSやLGBT運動に見られるネットと愛さえあればどうにかなるというマルティテュードも実効性が薄い。
シンギュラリティは空想社会主義にすぎず、仮想現実世界では匿名性がフェイクニュースやヘイトなど悪い意味で現実を侵食していく。
筆者は観光客=二次創作だと主張する。観光とはまさに産業社会によりうみ出された産物、大衆消費行動だ。しかし観光は単なる娯楽であると同時に誤配を生み、偶然性によって人の視野を広げ社会を繋げ直す。そして観光客は訪れる場所を観光地に変える。観光客は無力ではない。
国という概念が機能しなくなったテロリズムの問題は文学の範疇にあると筆者はとく。ドフトエフスキーの地下室人の手記、カラマーゾフの兄弟、悪霊について取り上げている。強制されると反発するためだけに反発するのが人の性。人はライプニッツ的理想の世界に殉じようとするが、現実の不条理に耐えられなくて絶望してテロリストとなり、さらにどちらの態度からも離れた無関心なニヒリストとなる。ニヒリストを克服するには、不能な父(観光客)となるしかないという。そして解決は次の世代に託し、そしてまたテロリストが生まれていく…。終わりなき円環の中に人は生きていくと筆者はしめくくる。
投稿元:
レビューを見る
わかりやすさがすごい。
ラカンの解説ではじめていっている意味がわかった文に出会った。
論理が明確。
投稿元:
レビューを見る
(01)
冒頭で、えらく古い易経において、「観光」の語が「国」という語とセットになった一文に発現したらしきことに触れつつ、すぐさま見切られ、西欧のツーリズムの方へと心移りがなされている。本書の全体の視野の広がりからすれば、ささいな見切りであるともいえるが、果たして「観」や「光」という漢の字が、本書で語られるテーマにまるかぶりする意味はなかったのだろうか。
ところどころで触れられているが、近代ツーリズム(*02)における「観」ること、視覚の優位は何を意味していたのだろうか、アーリの「観光のまなざし」の主構成はこの視覚の問題が根幹に据えられている。
また、「光」は、風光と熟され、その風光は風景とほぼ同義であることから、「景」の提喩ないし換喩(*03)としても考えられる。風景や風光はなぜ近代によって観光され、発見されなければならなかったのか、といった問題系から本書を起こすことも、あるいは可能であったように思う。
(02)
ルソーから、あるいはスピノザから始まる西欧の近代に始まり、現代までの主要な思想(*04)を、観光客が観光するような視線で、ざっくりとレビューし、著者の90年代から00年代までの著作や近著も含めセルフレビューし、プレビューとして一画面(インターフェイスかスクリーンか)に収めてしまう力には舌を巻いた。また、観光客から家族へという無茶ぶりともいえる接続ないし横断をやってのける力にも、歓声がどこからかあがるかもしれない。力を感じる評論である。
(03)
ふまじめ、ふわふわ、痛さ、憐みといった現代語のチョイスは適切であり、本書の立論では欠かせないキーとなるワードとしてもってきており、言論や人文の復権への意志と、粋な心意気が感じ取れる。
また、平易な言葉で書き表し、図と図式的なことばで喝破することは哲学の王道(エクリチュール!)でもあり、哲学への自負を感じる。
(04)
思想的な座標、二項、二層性は示されたとして、政治的なトピック、社会的なアクシデント、経済的なトレンドについてはどのように構え、応対しているであろか。
右派左派、民主主義、共和制、権力と生権力のいろいろ、テロリストほど極端に走っていないとしても移民と難民と市民たちの移動と不動のあれこれ、資本と労働(*05)とネットワーク(*06)のアゲサゲといった現代の相もふんだんに盛り込まれていて、現代をパースとして見通すのにも便利である。世相が観光の対象となりうるのであれば、世相のガイドブックとして参照されうる、行き届いた本でもある。カテゴライズが効いていて参照性が高いのかもしれない。いずれにせよ、大いに誤配や誤伝の可能性に開かれている。
(05)
貧困や過剰な労働に立ち向かっているだろうか、観光は所詮、ブルジョアらの慰みではないだろうかという本書への批判をどこかで目にした。現代の観光の経済活動をみたときに、著者のいう観光のフラット化というステージまでは未だ躍り出ておらず、古典的であり近代的でもある格差や階級差のほうが観光より普遍的な題目であるという反論もあるかもしれない。
中盤のマルチチュードの戦略としての観光を説くあたり、社会や経済の底辺まで浚え、��われるようにも思えた。観光には救済もありそうでもある。所得の外にはじかれた/はじかれつつある人びとにも本書は届くところがあるのではないだろうか。
(06)
ネットワーク理論の紹介は、例えば私の様に、知らない人は知らないので利がある。そうしたスモールワールド(*07)の現代知から「つなぎかえ」がなされ、スケールフリーに飛躍するように、また振り出しに戻るかのように、100年前に話は飛ぶ。終盤は、ドストエフスキー分析がなされ、フロイトのウンハイムリヒや父殺しといった19世紀末のミステリーに落としどころをもってくる流れは、現代家族の擬制の限界を示すのに便宜を図っている。
(07)
個人個人のネットワークがスモールワールドであるのと同時に、本書での指摘ではないが、都市間交流もスモールワールドなネットワークで構成されていると考えてよいものだろうか。その場合、地方や田舎や故郷はどのようにネットワークされるのだろうか。
このような都市論として観光についての問いを立てたき、国内の、盆正月のラッシュ、出張と左遷と栄転、移住、避難、巡礼と観戦といったモービリゼーション(動員)を捉えてもいいし、より小さなスケールで立ち飲みや立ち働き、送り迎え、福祉的な移送、散歩、まち歩きやのみ歩き、トレッキング、キャンピングのふるまいを見直してもいいのかもしれない。人類学と観光のアナロジーについての脚注も本書には書き留められていた。
アーリにもやや示唆されていたが、移動は手段ではなく、目的でもある。動くために人はとどまる。観光するために、人はふとそこにとどまっているだけなのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
これは、哲學書というよりそれ以前に、批評である。
それは著者の『存在論的郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』の自注と(內容だけをみると)言えなくはない。これは、自著の単なる「解題」ではないか、と。
しかし解題という言葉には、強靭な自己批判といういみも含まれるとすれば、東氏ほど「現在」を語るにふさわしい書き手はいないのではないか。
射程の広い思考をもった理論家ともいえる。カント及び、ヴォルテール、そして、20世紀の政治哲學三人、シュミット/コジェーブ/アーレント。
最後に、ネグリ+ハート、そして、ローティーと、振れ幅の広い思想家を、精確に分析する手管は、淒みがある。
さて、他者の哲學とひとことでいってもその説明原理には様々ある。
文化記號論的に要請される他者にも、システム論と相俟って1980年代には議論されてもいた。
観光客概念の先の説明原理との大きな違いは、哲學體系文明観などの大きな物語との間隔を斟酌する必要がなかった、別の言い方で言うと、現代はそれらの枠組みと、別の枠組みを視野に入れる必要に迫られている。
そういうことが言えるのではなかろうか。
それは、何も、それまでの英知を無視するとやいう訳ではいささかもなく、むしろ、それを(哲學體系や文明観などの大きな物語)をどん欲に咀嚼(批評)した上での論理構成が必要になっている。
中心概念には、精緻なシステム理論から編みだされた「誤配」、世界心情ともいうべき文化人類學的「憐れみ」を配して、郵便的マルチチュード/多元的決定論へと累進的に論じられる。
第二部 家族の哲學
(続く)
投稿元:
レビューを見る
第一部は間違いなく面白かった。文章がうまいので分かったような気になる。新鮮な気持ちで読めた。哲学では避けようがないのかもしれないが引用に次ぐ引用に少し辟易する部分も。最後のドストエフスキーの部分はほとんどついていけなかった。
●観光客の哲学
・観光
・二次創作
・政治とその外部
・二層構造
・郵便的マルチチュードへ
●家族の哲学(序論)
・家族
・不気味なもの
・ドストエフスキーの最後の主体
投稿元:
レビューを見る
「観光客」という共同体や民族を越境する者(越境者)が、また人間の「観光客」的な在り方がこの先の世界を動かす(ひいては世界平和を実現する)?
そんな刺激的な問いを哲学的なアプローチで描いている本著。
盛りだくさんすぎて正直1回読んだだけでは私には処理しきれない・・!
でも面白いと感じる部分がたくさんあった。
著者はそのような読み方を望まないだろうけど、哲学(とその歴史)に興味を持つとっかかりとして手に取るのも面白いかも。
しかし高校の歴史や道徳、大学の文化論で登場した哲学者や文学者の名前がたくさん出てくる。
当時は興味を引かれなかったけど、思想を引用されるとみんな面白いことを考えてたんだなあと思える。カントなんて『永遠平和のために』どうすべきか真面目に考えてたんだなあって。すごいよな。
個人的にハンナ・アーレントの『人間の条件』は読んでみたくなった。
あと国(国民国家)を人間になぞらえて、そのうち政治=上半身、経済=下半身と例える表現とかはうまいし面白い。現代は愛(政治的な信頼関係)を持たぬまま肉体関係(経済の依存関係)を深めてしまった者(国)たちの時代らしい。
ドストエフスキーは『地下室の手記』と『カラマーゾフの兄弟』を読んだけど、この第7章で描かれてる研究者たちや批評家のような読み方にはまったくもって至れなかったのでまた読み直してみたいな。今なら違う読み方ができそう。
投稿元:
レビューを見る
今我々が生きているこの時代を様々な立場の人が論じていますが、哲学者は今の時代をどのように捉えているのか、昔から興味深かったのですが、本書は東氏なりの一つの現代社会に対する一つの解釈とその方向性を出してくれたのかなと思います。
投稿元:
レビューを見る
読み助2017年9月24日(日)を参照のこと。http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2017/09/924-2d78.html
投稿元:
レビューを見る
2017年の、いや、テン年代のメルクマールとなるのは間違いなく「中動態の世界」と本書であろう。
誤配せよ